【R18】没落令嬢の秘密の花園――秘書官エルスペス・アシュバートンの特別業務

無憂

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第一章

秘書官

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 六月中にマクガーニ中将閣下は退任し、入れ替わりに第三王子であるアルバート殿下が陸軍司令に就任した。
 わたしは今まで通り、朝の八時から夕方五時までの八時間勤務を続けているが、殿下の勤務形態はマクガーニ中将よりよほど不規則で、昼過ぎや、ひどい時は夕方にようやく出勤されることも多い。その代り、家族のいない殿下は夕食のために家に帰るという感覚がないので、興が乗るとずいぶん夜遅くまで仕事を続ける日もあると、家族持ちのクルツ主任が零していた。――時間給で働くわたしは、許可なく残業したところで銅貨一枚分の得にもならないので、当然、時間きっかりに帰途に着く。

 ある日も、終業時刻になってわたしが帰り支度をしていると、王宮での会議を終えた殿下が入ってきて言った。

「なんだ、もう帰るのか」
「はい、時間ですので。殿下のサインの必要な書類はデスクに置いてありますので、明日の朝までにサインをお願いします。……では、お先に失礼します」

 わたしは出勤簿にサインしてクルツ主任事務官に渡し、殿下や副官の方々に頭を下げ、布製の鞄を持って部屋を出る。
 ちょうど終業時刻だから、門の周辺には他の事務官補の女性たちもいた。マリアン・ブレイズがわたしの姿を認め、小走りに近づいてきた。

「エルシー! あんた上手くやったわね! 王子殿下の直属だなんて!」
 
 大きな声で言われ、周囲の他の事務官補も一斉にわたしを見た。

「引継ぎのための期間限定よ。殿下の配下の方たちは、事務仕事に不慣れだそうで」
「でも、正規の事務官でもないのに、王族に仕えるなんて」
「正規の事務官はクルツ主任しかいないもの。一人じゃあ、いくら何でも回らないし、他から連れてきたのでは同じだからってことで。苦肉の策よ」
 
 わたしが速足で門へ向かいながら言えば、マリアンは必死に食い下がってついてくる。

「アルバート殿下って間近に見ても素敵よね! あのセクシーな黒髪に金色の瞳!」
「そうかしら、忙しくてよく見る暇もないわ」
「でも正式ではないけど、婚約者がいるのよね? 残念ねぇ……」
 
 うっとりマリアンは言うけれど、殿下が独身だろうが何だろうが、わたしのような者にはまったく関係が無いので、それについての論評は控えた。

「今度あなたの職場に行っていい?」
「だめよ、屈強な護衛がいつもついていて、関係ない者は入れてはいけない規則になっているの。あと、殿下の話を外でするのも禁止なんですって。守秘義務なの。ごめんなさい、ここで失礼するわ」

 わたしはまだ何か聞きたそうなマリアンを制して、門を出た。
 
 やれやれ、と思ったのもつかの間、一難去ってまた一難、今度はニコラス・ハートネル中尉が声をかけてきた。
 
「さすがだね、エルスペス・アシュバートン嬢。王子殿下まで手玉に取ったかい」
「何のことです」
「爵位無しの、臨時雇いの事務職員が王子殿下の直属だなんて、異例だよ。殿下は君のブルー・グレーの瞳に魅入られてしまったらしい。さすが、『氷漬けの処女』」
 
 わたしは露骨に不愉快そうに眉を顰め、ハートネル中尉を睨む。『氷漬けの処女』というのは、どうやらわたしの渾名あだならしい。以前、聞いてもいないのに、ハートネル中尉が教えてくれた。――愛想の欠片もないからだそうだが、余計なお世話だし、下世話で本当に不愉快だ。

「単なる引継ぎのためです。それに、殿下には結婚が決まった方がいらっしゃるそうですし」
「でも君がマクシミリアン・アシュバートン中佐の娘で、元リンドホルム伯爵令嬢だからだろう?」
「父のことはご存知のようですが、深くは知りません。それに雇用も引継ぎのための期間限定です」
 
 わたしはそう言い捨てると、まっすぐ前を見て歩くスピードをさらに上げる。毎日、この男を振り切るために、わたしの足はものすごく早くなってしまった。

 脹脛を覆うロングスカートの裾を蹴立てる勢いで歩いているのに、しかし、ハートネル中尉は全く息を切らすことなくついてくる。――男盛りの職業軍人に、二十歳前の小娘が適うはずはないのだ。

「ま、この前言ったのは俺は本気だから。殿下からクビになるのを待ってるよ」
「クビになってもあなたはご免です」

 こういう手合いは遠回りに伝えても全然、通じない。わたしははっきりきっぱり断って、それから先は何を話しかけられても無視した。






 一週間ほどして、わたしの元に辞令が届いた。

「……何ですか、これ」

 辞令には「事務職員のエルスペス・アシュバートンを、アルバート王子直属の秘書官に登用する」と書いてあった。慌てて確認に行くと、執務室で殿下とクルツ主任が説明してくれた。

「秘書官の業務としては、王子のスケジュール管理や会議・出張への随行などがあるが、主たる業務は主席秘書官のロベルトがやってくれるから、お前は引き続き、書類の処理だけしてくれたらいい」

 基本的な仕事内容が変わらないのであれば、別に秘書官にしなくても、陸軍の臨時事務職員の肩書のままで問題ないはず。そう、わたしが尋ねれば、殿下があっさりと言った。 

「事務職員は時間給だから業務時間が変更できない。秘書官なら俸給制になるから、時間の融通が利くんだ。俺は夕方にようやく司令部に出勤できたりするから、絶対に五時で仕事を終えられてしまうと困る」

 つまり、時間給の事務職員では、不規則な殿下の出勤形態に対応できないからだと。クルツ主任も補足的に説明する。

「基本的な勤務時間は朝八時から夕方の五時までだが、日によって昼から夜の九時の勤務に変えられるし、夜の十時までの残業が可能となる。残業手当も加算されるから」
「夜の十時って……困ります! そんな時刻に帰れません!」

 夕方の五時なら一人で歩いて帰れるけれど、夜の十時はさすがに無理だ。わたしの訴えに、殿下が首を傾げる。

「遅くなったらこちらで馬車を手配する。結構な距離を歩いて通っているのだろう?秘書官なら、通勤手当も付くから、馬車に乗れば……それとも、あの男と待ち合わせて帰っているのか?」
「あの男?」

 何の話だとわたしが目を丸くすれば、クルツ主任が小声で言った。

「本部付のニコラス・ハートネル中尉と恋仲だとか……」
「断じて違います! いつも偶然、一緒になるだけで……方向が一緒だとかで、つきまとわれて迷惑してたんです!」
「結婚の噂もあるが……」
「誰がそんなことを! 絶対ありえません!」

 わたしが鼻息荒く否定すると、殿下は面白そうに口を綻ばせる。

「そうなのか? なんでも、ニコラスの方は得意気に吹聴しているそうだが」
「まさか!」

 噂があるのは知っていたが、本人が嬉し気に吹聴していたなんて、想像もしていなかった。

「わかりました! 秘書官になれば、ハートネル中尉と一緒に帰らなくて済みます!」

 その言葉に、殿下が弾けるように笑った。
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