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第二章

帰郷

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 わたしは祖母の亡骸を遠くストラスシャーのリンドホルム領まで運び、アシュバートン家が代々眠る墓地に葬ることを希望した。祖母のもともとの故郷はストラスシャーよりさらに西の、アーリングベリという町らしいが、わたしは行ったこともないし、祖母の実家の子爵家もはるか昔に代替わりして、ほとんど知る人もいないという話だった。何より、祖母は嫁いで以来四十年以上、リンドホルム領で暮らし、そこが故郷のようなものだ。亡き祖父や父、そして早世した弟の眠る、代々の墓地に葬られることを望むだろうと思ったからだ。

 祖母の柩を汽車で運ぶのはとても大変なことで、アルバート殿下の配下のロベルトさんや、マクガーニ中将閣下の尽力がなければ不可能だっただろう。世間知らずの小娘にはどうしていいかわからないことばかりで、役所の手続きその他、面倒なことは全て、彼らに任せてしまった。

 現在のリンドホルム伯爵である父の従兄、サイラス・アシュバートンにも電報を打ち、祖母の死と、リンドホルム城下の教会に埋葬する予定だと伝えた。現・陸軍大臣であるマクガーニ中将閣下の名の威力なのか、サイラスからは即座に了解の旨と、いつでもリンドホルム城に宿泊できるよう、準備を整えておく、という返信があった。

 わたしは祖母の柩を運ぶために、二人の使用人を連れ、後見役のマクガーニ閣下とともに王都を発った。ジェニファー夫人も一緒に来る予定だったが、直前にご令嬢のアグネスが熱を出したため、旅行は断念した。

 ちなみに、マクガーニ閣下の、現在の奥様であるジェニファー夫人は後妻である。長男アレックスは十六歳で寄宿学校に入っていて、下の、長女のアグネス嬢は十歳になる。最初の奥様はアグネスを出産した後、産褥熱で亡くなったそうだ。ジェニファー夫人は没落した男爵家の娘で、もとはと言えばアレックスとアグネスの家庭教師ガヴァネスだったという。マクガーニ中将閣下との関係は数年前から始まっていたらしいが、陸軍司令であった閣下は、厳しい戦況に遠慮して、正式な結婚をしなかった。戦争が終わってようやく、晴れて夫婦になったそうだ。

 ジェニファー夫人がわたしに対して同情的なのは、お互いの境遇が似ているからかもしれない。
 ジェニファー夫人は、ストラスシャーまで同行できないことを、何度も何度も詫びてくれて、わたしはかえって恐縮してしまった。





 三年ぶりにリンドホルムの小さな駅に降り立ったわたしたちを、意外なことにサイラス・アシュバートンが出迎えた。

「エルスペス! 久しぶりだ! ずいぶん綺麗になって!」

 わざとらしく両腕を広げたサイラス・アシュバートンを、わたしはヴェールの内側から冷めた目で見た。――喪服を着て、黒いヴェールつきの帽子を被っているわたしの、顔なんか見えないくせに調子のいいことを!

「ごきげんよう、おじ様。いえ、リンドホルム伯爵閣下」
「そんな他人行儀な呼び方はよしてくれ、エルスペス!」

 他人行儀も何も、この男が妙な欲を出し、わたしと息子のダグラスを結婚させると言い出した時から、いろいろと狂い始めた気がする。ビリーが急死した直後は、わたしの代襲相続は間違いなく認められると、誰もが思っていた。ビリーを失って気落ちするわたしに、サイラスは息子ダグラスとの結婚を持ち掛けた。それまで、わたしはサイラスのことを俗物だけれど、気のいい親族のおじだと思っていた。何しろ、サイラスはビリーやわたしの主治医でもあったから。わたしとダグラスを結婚させることで、この城と領地への野心を露わにしたサイラスは、わたしにとっては裏切り者にしか、見えなかった。

 サイラスはわたしの背後に立つ、マクガーニ中将閣下を見て、慌てて頭の上に乗せた帽子を取って挨拶する。

「これはこれは、大臣閣下。……わざわざ、先々代夫人の葬儀にお越しいただき、光栄の極みです」
「どうも。……エルスペス嬢の……まあその、後見をしておりましてね。マックスには世話になりましたので、せめてご母堂の葬儀にはと、やってきました。厄介になります」
「どうもよろしく。サイラス・アシュバートンです」

 サイラスはこの三年間で太った腹をゆすって、にやにやと頭を下げる。マクガーニ中将閣下にへいこらしているのを見て、サイラスがわざわざ駅までお出ましになった理由がわかった。わたし一人で帰ってきていたら、歯牙にもかけられなかったに違いない。

 小さな駅なので、降りるのはわたしたち一行だけだった。ポーターに荷物を預け、祖母の柩が下ろされるのを見守る。
 わたしは閣下やサイラスとともに、リンドホルム伯爵家の紋章の入った馬車に乗った。

 かつて、十六歳まで暮らしたリンドホルムの町だけれど、わたしは城下に降りたことはほとんどなかった。年に一度、聖誕節のミサのために教会に行くのと、両親が健在の時に数回、王都へ出かけた時に通り過ぎる程度。――一度だけ、リジーに連れられてこっそり町に遊びに行き、バレてしこたまた祖母に怒られたことがある。今の今まですっかり忘れていた、幼い日の思い出。

 ほとんどの時間を城の敷地内で過したわたしは、町に知り合いもほとんどいない。それでも、教会の尖塔を見て、故郷に戻ってきたのだと、思う。あの教会の墓地に、両親も弟も眠っている。――そしてこれからは祖母も。

 やがて、馬車は城門を抜け、広大な敷地内に入る。門から続く道の両脇の楓の並木はもう終わりかけで、小道は落葉で真っ赤に染まっていた。そこまで来てようやく、懐かしさに胸が熱くなり、わたしは膝の上に重ねた、黒いレースの手袋をはめた両手を握りしめる。
 なだらかに続く丘も、遠くに見える森も、何も変わらない。湖の中州には、古代の神殿を模したモニュメントが聳え、桟橋にはボートがもやってある。

 窓の外を鹿が跳ね、馬車に驚いて丘を逃げていく。邸の庭は荒野ムーアに隣接しており、鹿はそちらからやってくるのだろう。新芽を食べてしまったりするので、庭師がいろいろと対策を講じており、滅多に敷地内で見ることはなかったのだが。

 変わらない……と思いながらも、どことなく荒廃した雰囲気を感じて、わたしは首を傾げる。館に近づいて、わたしの印象はさらに強まった。

 ――出迎えのために居並ぶ使用人の数が、明らかに減っていた。

 わたしは馬車を降り、三年前まで住んでいた、堅牢な館を見上げる。かつて、わたしの世界のすべてだった、館と庭園と。

「お嬢様、お帰りなさいませ」
「アーチャー、久しぶり。元気だった?」

 執事のアーチャーは変わらず、ビシっと正装で姿勢を正していて、わたしは少しだけホッとした。

「急なことだけど――こちらはマクガーニ中将閣下です」

 わたしがマクガーニ閣下を引き合わせると、アーチャーが礼を取る。

「はい、お部屋は整えてございますので、夕食まではおくつろぎください」

 それから、アーチャーがわたしに尋ねる。

「ジョンソンとメアリーはどうしました?」
「あの二人は、おばあ様の柩に付き添って、村の教会に。その後、こちらに来るはずよ」
「了解しました。……お嬢様のお部屋は以前のままに残してございます。以前、お嬢様付きだったリンダはこちらを辞めて村に嫁ぎましたので――」

 アーチャーの言葉に、わたしは微笑んだ。

「……ええ、リンダのことは聞いているわ。手紙をもらったから。わたしの世話はメアリ―に頼むつもり」

 アーチャーは厳しい表情を一瞬だけ緩め、わたしに微笑んだ。

「……本当に、お帰りなさいませ。……大奥様も、お戻りになられることをお待ちしていたのですが」

 わたしは思わず、先祖代々が住む館を見上げていた。……帰ってきたのだ。わたし、一人だけ。

 左右に控える揃いのお仕着せを着たメイドや従僕たちは、見知った顔も知らない顔もある。わたしは端の方に並ぶ庭師のあたりに、サム爺さんの姿を探すけれど、見つけられなかった。

「お嬢様、お帰りなさいませ」
「スミス夫人、元気そうでよかったわ」

 重厚な樫の木の扉の前でかっちりとした礼をするのは、家政婦のスミス夫人。グレイの上下をぴっちりと着こなした厳しい雰囲気は変わらないが、多少老けたような気もする。かつて邸に住んでいた時は、おばあ様の次に彼女が恐ろしかった。

「中で奥様――レディ・ジェーンとヴィクトリア様がお待ちでございます」
「……ヴィクトリア?……ええっと、レディ・ジェーンの姪の? まだ、お嫁行っていないの?」

 ヴィクトリアはサイラスの妻ジェーンの姪で、両親を失ってサイラスが後見人として引き取った女性だ。わたしより数歳年上のはずで、てっきり、彼女はダグラスの妻になるのだと、わたしも、そしてヴィクトリア本人も思っていたのだけれど――。

「はい、まだ嫁いではおられません」
「……そう、ご挨拶はしなければね」

 ――必要以外では会いたくないの、という言外の意を告げると、スミス夫人の榛色の瞳が一瞬、細められた。口元には微かな笑み。

「承知いたしております。……今夜の晩餐はご一緒にとのことですが、それ以外はそれぞれでお摂りになるよう、手配いたします」
「ありがとう。お願いね」

 スミス夫人は厳しいけれど、貴族の礼の範囲内であれば、わたしの要望を聞いてくれる。あのわずかなやり取りで、彼女がいまだにわたしの味方なのだと知って、少し安心する。

 玄関の扉を抜けると、吹き抜けになった巨大なホールがある。絨毯や家具は、三年前とほとんど変わっていない。管理しているのは、主には執事のアーチャーと家政婦のスミス夫人なのだろうし、当たり前と言えば当たり前だ。薄暗い室内では、黒いヴェール越しだと周囲が見えにくく、わたしがヴェールを上に上げると、奥の大きなソファに座っていた背の低い小太りの女性が立ちあがり、わざとらしく駆け寄ってきた。

「んまあ、エルシー! エルシーなのね?! なんて綺麗になって! んまああああ!」
「お久しぶりです。……レディ・ジェーン?」
「おおエルシー、そんな他人行儀な呼び方はやめて。……レディなんて言われても、落ち着かなくて。昔のようにジェーンおば様って呼んでちょうだい」

 この田舎の農婦のような女性が、いまや伯爵夫人とは。……いえ、素朴で親切な人ではある。善良とまでは言えないかもしれないけど。しかし、そんなことよりも、フリルがたくさんついた小花柄のドレスがパツンパツンで、余計に彼女を太って見せている。もっとすっきり見えるデザインのドレスを、誰か見繕ってあげたりしないのか。

 わたしが何となくスミス夫人を見たら、スミス夫人は観念したように、ほんのわずかに首を振った。

 ――何度も忠告は申し上げているんですけどね。

 スミス夫人の心の声が聞こえた。




 わたしの生まれ育った家。
 でも今はもう、わたしの家ではない。

 帰郷は、わたしにその事実を突きつけた。
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