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番外編

警視庁ジョン・ウォード警部の捜査日誌⑩【終】

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 鉄格子の向こう、薄暗い部屋に、若い男が座っている。
 ――ダグラス・アシュバートン、二十九歳。ストライプ柄の派手なシャツに、濃いグレーのトラウザーズ。黒い吊りベルトサスペンダー

 カチャン、と鍵を開け、キイ……と鉄格子の扉を開き、俺たちが入っていくと、気だるげに顔を上げる。髪は薄茶色で、顎には無精ひげが目立つ。

「ああ、またアンタかよ。……振られ兄貴のカタキでも取りにきたの? アンタには敵いそうもねぇし。兄貴は文官でヒョロってしてて、ああいうインテリの弱々しいのは、デイジーの趣味じゃなかったんだよ。……むしろアンタが、デイジーと婚約してればよかったんじゃね?」

 早速、カーティス大尉に管をまくが、カーティス大尉は意にも介さず、俺たちに椅子を薦める。

警視庁ヤードのウォード警部と、リンドホルム警察の、エヴァンズ警部。……ウィリアム卿の殺害事件を担当している」
「ああ、そっち。……あれは俺じゃなくて、執事のアーチャーが――」
「薬の入手元はお前だろう? 殺人の教唆も、お前。父親に死亡診断書を書かせたのも、お前……か?」
「そうだよ、あの間抜けな親父に、こーんな事件を思いつく脳みそがあるわけねーじゃん」

 ……おそらく、サイラスが黙秘しているのは、すべて息子のダグラスを助けたい一心なのだろうが、親父と違い、息子は本当に根性がない。

「目的は、リンドホルム伯爵の爵位、城、領地――」
「エルシーだよ。あんな城、クソ広くて税金ばっかかかって、金食ってしょうがない。でも、エルシーがついてくるなら、話は別だ。子供の頃から最高に可愛かった。いつか食ってやろうって思ってたけど、俺なんかには目もくれねぇ。……そこがまた、いいんだけどよ、お堅くて」

 俺は眉を顰めた。

「……彼女が目的で、領地や爵位はおまけってことか?」
今日日キョービ、伯爵サマなんかになったって、気苦労ばっかりだろう? 俺は王都で、貴族が資産管理に失敗して、落ちぶれるのをたーっくさん、見たよ。投資や新規事業で上手くいってるところなんて、ごくごく一部、他はみんな青息吐息だよ。……でもエルシーを手に入れるには、爵位が必要なんだよなあ……俺には到底、縁のない話で」

 ダグラスがふと、視線を逸らせる。

「デイジーもな……最初はちょっとエルシーっぽいと思ったんだよな。田舎の郷紳ジェントリのお嬢様で。ところがさ、ちょっとコナかけたら、あっさり堕ちてさ。つまんねぇ女だなって。別れようとしたら、あれこれうっせぇんだよ。まあ、いろいろ貢いでくれるんなら別れないでいてやるって言ったら、デブの成金の後妻にまでなり下がりやがって。もう、萎えるどころの騒ぎじゃねーよなぁ。デブの成金と穴兄弟とかさ、あり得ねえっつの。それに比べて……」

 ダグラスが、榛色の目で俺を見る。

「エルシーは格が違った。たとえ全財産奪われても、俺みたいなクズ野郎と結婚なんかしねぇんだとさ。さっさと王都に出て行っちまいやがった。……苦労してるかと思いきや、なんと王子様の愛人に収まって。信じられないくらい色っぽくなっていて……羨ましいよなあ、王子様。俺もエルシーにハメたかったのに」
「下品な言い方はやめないか、失礼だ。彼女は殿下の恋人だ」

 カーティス大尉が生真面目にダグラスを叱るが、ダグラスは肩を竦めただけだ。

「え、でもよ、あのリジーと奴と、エルシーはデキてたぜ? 間違いない。それはいいのかよ?!」
「アシュバートン、根拠のないことを言うな」
「え、ホラ、なんだっけ、リジー・オーランドって色男。アンタの同僚だろ? 悔しくないのかよ、あいつはエルシーとヨロシクやってんのにさ。それとも、アンタもヤらしてもらった?」
「いい加減にしないか!」

 カーティス大尉は真面目過ぎるので、あっさりダグラスの挑発に乗りそうになっている。俺がダグラスを止めようとしたとき。カツカツと靴音がして、振り返れば、ベイカー本部長が、二人のラウンジスーツに中折れ帽の人間を連れてきた。

 一人は、さっきのチャラチャラした主席秘書官。そしてもう一人は――。

 カーティス大尉がハッとして居住まいを正す。

「ウォード、ロベルト・リーン氏と、リジー・オーランド氏、アルバート殿下の側近で……聴取を行いたいそうだ」
「どうも、すんませーん。ちょっとだけ、お話聞かせてもらいたいんだよねー」

 主席秘書官のリーン氏が言い、俺とエヴァンズ警部は顔を見合わせ、それからベイカー本部長を見た。ものすごーく渋い表情で、ベイカー本部長が頷く。

「……わかりました。でも、俺たちも同席しますよ?」

 俺が言えば、主席秘書官殿がにっこり微笑む。

「もちろん。だた、ここで見たことは秘密ってことで。王室に関わる守秘義務って奴。それだけお願いします」

 軽い口調で言われ、ベイカー本部長が去ると、二人はガシャンと鉄格子の扉を開けて中に入ってきた。
 ロベルト・リーンというチャラチャラした男、結構上背があるのだが、リジー・オーランドと名乗る男はさらに高い。中折れ帽を深くかぶり、帽子のつばで顔の半ばは陰になっている。長い脚で数歩、すいっとダグラスの側による。

 明確な殺気を感じ、俺が腰を浮かしかけると、誰がが俺の肩を押えつけた。

「……主席秘書官殿……?」

 俺の注意が削がれた一瞬の、その刹那。

 ドガン、と凄まじい音がして、リジー・オーランドがダグラスの茶色い頭を鷲掴みにし、木の机に叩きつけていた。  

「い……!」

 乱暴に髪を掴み、もう一度、ドガン、と叩きつけ、髪を掴んで強引に引っ張り上げる。ダグラスの舐め腐った表情はもうなく、どろりとした鼻血が唇を過ぎ、顎から机にポタリ、ポタリと垂れる。

「な、……アンタ、何を……」 
「安心しろよ、殺しはしない。どうせ絞首刑だしな」

 低い、ドスの効いた声でリジー・オーランドが言う。

「い、痛い、痛い、痛い……」
「そりゃあ、痛いだろうなあ……」
「な、な、な……何を……」

 カーティス大尉がはあっと溜息をつき、主席秘書官殿は腕を組んでニヤニヤ笑っている。――リジー・オーランド。アーチャーが言っていた、ウルスラ夫人の遠縁の……。

 俺は帽子で半ば隠された、男の顔をじっと見るが、いや、だが、これは――。
 ベイカー本部長は気づかなかったのだろうか? いや、たとえ気づいていても、彼はの存在を知らない。単なる王子の気まぐれだと思うだけだ。エヴァンズ警部は、リジーがウルスラ夫人の葬儀に、王子の代理人として派遣されてきたことは知っていても、王子の顔を知らない。

 俺は、背中に冷や汗をかきながら、周囲の男たちを盗み見る。エヴァンズは突然の成り行きにどうしていいかわからず、硬直している。……俺も傍からはそう、見えるだろう。

 リジー・オーランドがもう、二度ほど、ガツン、ガツンとダグラスの顔を机に叩きつけたあたりで、おそらくは唯一の常識人らしい、カーティス大尉が止めに入る。

「もうそのぐらいで。死んでしまいます」
「ヒイ、たすけ、……ヒイ……」
「情けねぇ声出すんじゃねーよ、気色悪い。……で、俺の質問に答えろ」
「な、……何でも言う、言うから、……」
「普通はさあ、質問してから乱暴狼藉に至るもんでしょ? 順番間違えってるって」

 主席秘書官殿がまぜっかえせば、リジー・オーランドは金色の瞳でギロっと睨んだ。

「うるせぇ、黙れ。……お前がウィリアムを殺したのは、誰かの指示があったんじゃないのか? 正直に言えよ?」
「……し、指示……? 指示なんか……うがあああ!」

 ガツン! ともう一度机にぶつけられ、ダグラスが悲鳴を上げる。

「じゃあ、エルシーの代襲相続が却下された理由、知ってんじゃねえのかよ! オラァ!」
「し、知らない! 知らないって! お、俺だって、まさか却下されるなんて、思ってなくて……」

 血まみれの顔で必死に言い募るダグラスを、リジー・オーランドがギリギリと髪を掴んで持ち上げ、ダグラスは痛みで悲鳴を上げる。

「ひい、痛い、痛い、痛い!」
「ほんっとに知らねぇのかよ? 本気でか? 殺すぞ!……レコンフィールド公爵あたりと、繋がりがあんじゃねぇのか?」
「ち、違う……婆さんにも、聞かれたけど、違う、俺は知らないって……」

 ぐぐっと持ち上げたダグラスを、ポイと手を離せば、そのままガタンと床に崩れ落ち、そこをすかさず、磨き上げられた革靴で蹴り上げる。

 ……このリジー・オーランドという男、正体に気づいてしまったことに後悔するほど、柄が悪い。下町のチンピラかよ。

「もう、その辺にしてください。下町のチンピラみたいですよ、みっともない」

 カーティス大尉が冷めた声で言い、「キャハハ」と主席秘書官殿が笑い転げる。

「だが、レコンフィールド公爵との関連が裏付けられない」
「……関係ないのかも、しれませんよ? 無茶なことはやめてください、後で問題になっても困ります」

 ダグラスがヒイヒイ言いながらずりずりと逃げ出そうとする、その尻をガッと踏みつけ、リジー・オーランドは帽子に片手を置いて、気障キザっぽく言う。

「しょうがねぇなあ……。おい、嘘でもいいんだぞ? レコンフィールド公爵に命じられましたって、ちょろっと証言してくれれば……」
「ダメです! 冤罪を作り上げることには、反対です」

 カーティス大尉が強く言えば、リジーは仕方なくダグラスの上から足をどけ、大げさに肩を竦めてみせた。それから、茫然と硬直している俺を見て、おそろしく整った顔に笑顔を浮かべる。

「……どうも、お見苦しいところを」
「いえ、大丈夫です……殿

 と言ってしまい、俺は慌てて口を塞いだ。リジー・オーランドは金色の瞳を見開いて、それから、面白そうに煌かせる。

「ああ、なるほど。ジョージの葬儀の翌日に、俺を見たのか」
「ウォードちゃん、どうして自分で自分の首を締めちゃうかなあ?」

 主席秘書官殿が困ったような表情でニヤニヤ近寄ってきて、俺は慌てて首を振る。

「だ、大丈夫です! 誰にも言わないですから! 言っても誰も信じないですよ! 王子がまさか、下町のチンピラより柄悪いだなんて!」

 プハッと噴き出した王子が俺に言う。

「そうか、取引しよう、ウォード警部。俺がチンピラみたいだってことは内緒にしてくれ」
「じゃあ――」 

 俺が条件を告げると、王子は端麗な顔の笑みを深くした。
 

  


 
 四月の末、前レコンフィールド公爵と元首相バーソロミュー・ウォルシンガム卿の葬儀の記事の載った新聞を俺が読んでいると、チリンと呼び鈴が鳴り、応対に出た女中が、俺に少し大きな封筒を持ってきた。

「旦那様宛です」
「おお、ありがとう」

 受け取って裏返すが、差出人の名前はなく、代わりに王室の印章が押されている。
 俺が抽斗からペーパーナイフを出して、注意深く封を切る。中から現れたのは――。

「まあ、どうしたの、それ!」
「ああ、ホラ、エルスペス妃の弟の、ウィリアム卿の殺人事件で、少しリンドホルムに関わったじゃないか。ほんのお礼を兼ねて送ってくれたんだよ」
「まあ、彩色写真なのね! 素敵だわ! 今度、スーザンにも自慢しなくっちゃ!」
「そうだな」

 革張りの表紙のついたそれは、アルバート殿下とエルスペス妃の、彩色写真だった。ほんのり色をつけた写真の中で、エルスペス妃はいつか見た、完璧な古代的微笑アルカイック・スマイルを浮かべていた。
 



   Fin.


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