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ルイーズ2
遺書の内容
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十二月のアンの誕生日には間に合うように、わたしたちはバークリー領への帰途についた。
王都で誂えた最新流行の冬のコートや、たくさんのお土産を詰め込んだトランクを、ポーターが忙しく列車に運び込む。従僕のケネスとメイドのジュリーに、新たに雇った看護婦のミス・アダムスと、秘書のジョン・リーマンが同道した。
ミス・アダムスは四十過ぎの痩せぎすの女性で、かつて「戦場の天使」と呼ばれた偉大な看護婦の薫陶を受け、先の戦争でも野戦病院に勤めていた人だ。戦争で片目を失った夫に献身的に世話を焼き、戦後帰国した今、改めて雇用を申し出たところ、快諾してくれたという。
秘書のジョン・リーマンは二十代初め、茶色い髪に茶色い瞳、がっちりした体格のいい男性。オズワルド卿の紹介だったが、夫はその誠実そうな人柄と声が気に入ったのだと言う。
「いろいろ朗読してもらったりするからさ、やっぱり声がよくないと。……あと字もきれいだよ」
わたしがベビー用の靴下を編む横で、ジョンは夫のために新聞を朗読していたが、やや低く深くて艶のある声は、たしかにとても心地がいい。
新聞を読み終えたジョンに夫が礼を言って下がらせる。一等車の個室をわたしたち夫婦で一室、隣室に彼らが控える形で、ジョンが新聞を畳んで去ると二人きりになった。
ガタン、ゴトン、……汽車の規則正しい揺れに身体を預けて編み物を続けていたわたしは、何気なく目を上げて向い側の夫を見た。彼は窓枠に肘をついて遠くを眺め、顔の右側をわたしに向けていた。以前と同じ、秀麗な横顔。
――昔、わたしは彼の美しい横顔を見つめることしかできなかった。
美しい琥珀色の右目を挟むように、黒い眼帯の紐が横切っている。戦場で傷つき、左目と記憶を失った彼。ふと、戦場で死ぬつもりだったという話を思い出した。
あの、マデリーンの階段の事件の後、なんとなくその話をしていなかった。三年前、わたしに遺した遺書は、結局オズワルド卿が預かっているという。
夫は言った。
「僕も見るのが怖いんだ」
でも、見ないで済ますことはできないのでは――
「……ルイーズ?」
夫がわたしの視線に気づいて、顔をこちらに向けた。黒い眼帯と金色に輝く琥珀色の瞳。
「どうしたの?」
「その……アンが心配で」
ああ、と夫が微笑み、わたしの方に手を伸ばし、わたしの手を取って撫でた。
「そうだね。……でも乳母もいるし。ミス・アダムスも子供の世話もしていいと言っている。優秀な看護婦だよ」
「リンダを、子守りに雇ったの……だから……」
わたしの手を撫でていた夫の手がピタリと止まる。夫の金色の瞳がすっと眇められ、鋭さを増した。
「……リンダを? 雇った? 僕はそんな話は聞いていない」
「その……急なことだったし、言う必要もないかと……」
「他は君の自由にしていいが、リンダだけはやめてくれないか」
「でも……アンの母親なのよ。母親から引き離すなんて――」
夫は深いため息をついてから、少し姿勢を正し、わたしを見て言った。
「そうだ……アンについてだけは話しておかないと。オズワルド宛ての遺書の、内容はアンについてだった」
「アンの?」
「そう……遺書を書いた時はまだ、アンは生まれていなかった。時系列で言えば、あの遺書は十一月に書かれ、十二月にアンが生まれ、僕はバークリーに少しだけ寄って、それから戦場に向かった」
そうだ、その時、彼はアンを見ることも拒否したが、唯一、女の子であることに少しだけホッとしているようだった。アンを養女にする書類にサインだけして、すぐにバークリーを発った。
「僕は……当時生まれてる予定の子供が自分の子であると、認められないとオズワルドに遺していた」
わたしは目を見開く。
「……戦争前も、僕はアンの認知は拒んでいたんだね?」
「え、ええ……でも、あまりに無責任だし、リンダは我が家の使用人で……だから、わたしが養育すると言ったんです。養女にするときに、母親であるリンダのサインだけでもいけるのですけど、わたしはあなたにちゃんと、父親としての責任を取ってもらいたくて――」
夫はわたしの目を正面から見て、言った。
「この件は義父上にも確認を取った。義父上は、将来、王家に対して僕との離婚を要求する際の、僕の不貞の動かぬ証拠にするために、アンの認知を求めたそうだ。僕はそれは拒否して、ただ君が生まれた子を養子にすることだけは、渋々認めたらしい。だから、アンは少々、微妙な扱いになっている。……オズワルドに宛てた遺言では、僕は生まれた子が男児であった場合に、王家に禍根を残すのではないかと、それを恐れていた。もし何かあった場合は、オズワルドが証人になって、王家とのかかわりを否定して欲しいと、そんな内容だった」
あまりの内容にわたしは編みかけの靴下を手から取り落としてしまう。
「……そんな、バカな……だって……」
この人は何を言っているのだろう。だってわたしははっきりと見たのだ。白昼堂々、ベッドの上で睦みあうリンダとこの人の姿を――
王都で誂えた最新流行の冬のコートや、たくさんのお土産を詰め込んだトランクを、ポーターが忙しく列車に運び込む。従僕のケネスとメイドのジュリーに、新たに雇った看護婦のミス・アダムスと、秘書のジョン・リーマンが同道した。
ミス・アダムスは四十過ぎの痩せぎすの女性で、かつて「戦場の天使」と呼ばれた偉大な看護婦の薫陶を受け、先の戦争でも野戦病院に勤めていた人だ。戦争で片目を失った夫に献身的に世話を焼き、戦後帰国した今、改めて雇用を申し出たところ、快諾してくれたという。
秘書のジョン・リーマンは二十代初め、茶色い髪に茶色い瞳、がっちりした体格のいい男性。オズワルド卿の紹介だったが、夫はその誠実そうな人柄と声が気に入ったのだと言う。
「いろいろ朗読してもらったりするからさ、やっぱり声がよくないと。……あと字もきれいだよ」
わたしがベビー用の靴下を編む横で、ジョンは夫のために新聞を朗読していたが、やや低く深くて艶のある声は、たしかにとても心地がいい。
新聞を読み終えたジョンに夫が礼を言って下がらせる。一等車の個室をわたしたち夫婦で一室、隣室に彼らが控える形で、ジョンが新聞を畳んで去ると二人きりになった。
ガタン、ゴトン、……汽車の規則正しい揺れに身体を預けて編み物を続けていたわたしは、何気なく目を上げて向い側の夫を見た。彼は窓枠に肘をついて遠くを眺め、顔の右側をわたしに向けていた。以前と同じ、秀麗な横顔。
――昔、わたしは彼の美しい横顔を見つめることしかできなかった。
美しい琥珀色の右目を挟むように、黒い眼帯の紐が横切っている。戦場で傷つき、左目と記憶を失った彼。ふと、戦場で死ぬつもりだったという話を思い出した。
あの、マデリーンの階段の事件の後、なんとなくその話をしていなかった。三年前、わたしに遺した遺書は、結局オズワルド卿が預かっているという。
夫は言った。
「僕も見るのが怖いんだ」
でも、見ないで済ますことはできないのでは――
「……ルイーズ?」
夫がわたしの視線に気づいて、顔をこちらに向けた。黒い眼帯と金色に輝く琥珀色の瞳。
「どうしたの?」
「その……アンが心配で」
ああ、と夫が微笑み、わたしの方に手を伸ばし、わたしの手を取って撫でた。
「そうだね。……でも乳母もいるし。ミス・アダムスも子供の世話もしていいと言っている。優秀な看護婦だよ」
「リンダを、子守りに雇ったの……だから……」
わたしの手を撫でていた夫の手がピタリと止まる。夫の金色の瞳がすっと眇められ、鋭さを増した。
「……リンダを? 雇った? 僕はそんな話は聞いていない」
「その……急なことだったし、言う必要もないかと……」
「他は君の自由にしていいが、リンダだけはやめてくれないか」
「でも……アンの母親なのよ。母親から引き離すなんて――」
夫は深いため息をついてから、少し姿勢を正し、わたしを見て言った。
「そうだ……アンについてだけは話しておかないと。オズワルド宛ての遺書の、内容はアンについてだった」
「アンの?」
「そう……遺書を書いた時はまだ、アンは生まれていなかった。時系列で言えば、あの遺書は十一月に書かれ、十二月にアンが生まれ、僕はバークリーに少しだけ寄って、それから戦場に向かった」
そうだ、その時、彼はアンを見ることも拒否したが、唯一、女の子であることに少しだけホッとしているようだった。アンを養女にする書類にサインだけして、すぐにバークリーを発った。
「僕は……当時生まれてる予定の子供が自分の子であると、認められないとオズワルドに遺していた」
わたしは目を見開く。
「……戦争前も、僕はアンの認知は拒んでいたんだね?」
「え、ええ……でも、あまりに無責任だし、リンダは我が家の使用人で……だから、わたしが養育すると言ったんです。養女にするときに、母親であるリンダのサインだけでもいけるのですけど、わたしはあなたにちゃんと、父親としての責任を取ってもらいたくて――」
夫はわたしの目を正面から見て、言った。
「この件は義父上にも確認を取った。義父上は、将来、王家に対して僕との離婚を要求する際の、僕の不貞の動かぬ証拠にするために、アンの認知を求めたそうだ。僕はそれは拒否して、ただ君が生まれた子を養子にすることだけは、渋々認めたらしい。だから、アンは少々、微妙な扱いになっている。……オズワルドに宛てた遺言では、僕は生まれた子が男児であった場合に、王家に禍根を残すのではないかと、それを恐れていた。もし何かあった場合は、オズワルドが証人になって、王家とのかかわりを否定して欲しいと、そんな内容だった」
あまりの内容にわたしは編みかけの靴下を手から取り落としてしまう。
「……そんな、バカな……だって……」
この人は何を言っているのだろう。だってわたしははっきりと見たのだ。白昼堂々、ベッドの上で睦みあうリンダとこの人の姿を――
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