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8、離宮
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王太后の住まう湖の畔の離宮は、ちょうど見事な薔薇の盛りであった。末の孫娘を溺愛していた王太后は、ジュスティーヌを隣国に嫁がせるのを最後まで反対した。ジュスティーヌを生贄に差し出した息子が許し難くて、王太后は隠居に託けて王宮を出たくらいだ。ジュスティーヌの帰国が決まり、当然、彼女も王宮で孫娘を迎えるつもりだったが、生憎体調を崩してしまう。だが、孫娘が見舞いに訪れて、再会の歓びであっという間に本復した。
一緒に食事をしたり庭を散歩したり、地方の貴族から献上された、新しい薔薇の品種を鑑賞したり、同行した姉姫たちも交えて、祖母と孫たちの、六年間の不在を取り戻すような楽しい時間。ジュスティーヌの顔色はすっかりよくなり、怯えたような表情は影を潜めて、明るさを取り戻したようにも見える。護衛騎士として常にジュスティーヌの身近に控えるラファエルは、よく笑うようになった王女の笑顔に一瞬、見惚れてしまい、慌てて気持を引き締める日々が続いていた。
王女の護衛騎士はラファエルを筆頭に十人。二人ずつの五組を作り、五日に一度休みが入るようにしている。だが離宮への行啓ということで、全員の十人体制で警護に当たり、半日ずつの休憩を順繰りに挟みながら、誰かは必ず王女の警護に当たるようにしていた。王女の活動している時間帯は、責任者であるラファエルが対応しなければならない用件が多いため、ラファエルは夜間、王女が寝室に引き上げると、自らも自室で仮眠を取ることにしていた。だが、その夜は月が明るくて妙に眠れなくて、ラファエルは起き上がって何となく庭へ出た。ふと、王女の部屋の方に回ってみれば、庭に続く扉が薄く開いている。一瞬で、眠気も何もかもが吹き飛んだ。
ラファエルがマントをひっつかんで騎士の詰所に向かうと、彼らは半数が仮眠を取り、半数は真面目に起きていた。
「隊長、どうかしましたか?」
副長を務めるセルジュが問いかける。セルジュは王女の護衛に就任するにあたり、無理に引き抜いて配下に加えてもらったが、実はラファエルの従騎士時代の先輩にあたり、部下になった今もラファエルは敬語を崩さなかった。
「姫君はお部屋ですか?」
「そのはずですが」
「……部屋の扉が少し開いていました。音を聞きませんでしたか?」
「まさかそんな……」
セルジュが慌てて王女の部屋へと走る。控えの間で寝ていた侍女を起こし、確認してもらうと、果たして王女は不在であった。
蒼白になったセルジュと侍女、その他の騎士達とで、仮眠していた者もたたき起こして捜索を開始する。
「何者かに拉致されたのではなく、自分で出て行かれたのだと思われます。靴と、フード付きのマントが一枚消えているそうです。夜寒に備えて、準備をされていかれたのではないでしょうか」
セルジュがラファエルに報告する。護衛に張りつかれる生活に疲れて、夜の散歩に抜け出したのかもしれない。
「もしそうなら、苦情は翌朝改めて申し上げるから、今は穏便に連れ戻すようにしてください。大げさに騒ぎ立てない方がいいでしょう。万一、不埒な輩に攫われたということならば、遠慮せずに笛を吹いてください」
ラファエルがセルジュ以下に指示を下し、自分も剣を佩いて、一斉に夜の離宮の庭に走り出す。初夏の夜空は晴れ渡り、満月が煌々ときらめいていた。
姫君はこの月の美しさに誘われてしまったのだろうか。
幼い頃は向こう見ずなお転婆だったと言うが、帰国してからの王女は我儘も言わず、護衛たちをも気遣う優しい姫だった。夜に出歩くのに護衛を煩わせるのを厭うたのかもしれないが、黙って出て行けば、下の者が混乱するとわかっているはずなのに。
夜間の散歩も推奨はしないが、行きたいと言われれば護衛するだけである。夜の街に繰り出すわけでもなく、郊外の離宮である。一人になりたいときもあるかもしれないが、無断で実行されるのは困る。あまり、口うるさいことは言いたくないが、これだけは約束させなければと、ラファエルは心に誓いながら、一方で王女の行きそうな場所を考える。
今日の昼は薔薇園でお茶を飲み、その後、湖の畔を散歩して――そうだ、月の夜の湖が美しいのだと、侍女と話していた。
ラファエルは松林の向こうに広がる、湖に向かう。
以前、王宮の庭の噴水の池で泳ごうとして溺れた、という話を思い出し、思わず身震いする。
それだけは!それだけは、勘弁してくれっ!
心の中で絶叫しながら、ラファエルはいつしか全速力で駆けていた。
松林が切れて、月の光に輝く湖面がラファエルの視界に飛び込んでくる。夜空にかかる白い月が、紺青の湖に映ってさざ波に揺れている。松林を吹き抜ける風の音と、微かな波の音。ボートがいくつか、停泊している桟橋に、ほっそりした人物が腰かけて、素足でパシャパシャと水を弾いていた。
「姫――!」
一緒に食事をしたり庭を散歩したり、地方の貴族から献上された、新しい薔薇の品種を鑑賞したり、同行した姉姫たちも交えて、祖母と孫たちの、六年間の不在を取り戻すような楽しい時間。ジュスティーヌの顔色はすっかりよくなり、怯えたような表情は影を潜めて、明るさを取り戻したようにも見える。護衛騎士として常にジュスティーヌの身近に控えるラファエルは、よく笑うようになった王女の笑顔に一瞬、見惚れてしまい、慌てて気持を引き締める日々が続いていた。
王女の護衛騎士はラファエルを筆頭に十人。二人ずつの五組を作り、五日に一度休みが入るようにしている。だが離宮への行啓ということで、全員の十人体制で警護に当たり、半日ずつの休憩を順繰りに挟みながら、誰かは必ず王女の警護に当たるようにしていた。王女の活動している時間帯は、責任者であるラファエルが対応しなければならない用件が多いため、ラファエルは夜間、王女が寝室に引き上げると、自らも自室で仮眠を取ることにしていた。だが、その夜は月が明るくて妙に眠れなくて、ラファエルは起き上がって何となく庭へ出た。ふと、王女の部屋の方に回ってみれば、庭に続く扉が薄く開いている。一瞬で、眠気も何もかもが吹き飛んだ。
ラファエルがマントをひっつかんで騎士の詰所に向かうと、彼らは半数が仮眠を取り、半数は真面目に起きていた。
「隊長、どうかしましたか?」
副長を務めるセルジュが問いかける。セルジュは王女の護衛に就任するにあたり、無理に引き抜いて配下に加えてもらったが、実はラファエルの従騎士時代の先輩にあたり、部下になった今もラファエルは敬語を崩さなかった。
「姫君はお部屋ですか?」
「そのはずですが」
「……部屋の扉が少し開いていました。音を聞きませんでしたか?」
「まさかそんな……」
セルジュが慌てて王女の部屋へと走る。控えの間で寝ていた侍女を起こし、確認してもらうと、果たして王女は不在であった。
蒼白になったセルジュと侍女、その他の騎士達とで、仮眠していた者もたたき起こして捜索を開始する。
「何者かに拉致されたのではなく、自分で出て行かれたのだと思われます。靴と、フード付きのマントが一枚消えているそうです。夜寒に備えて、準備をされていかれたのではないでしょうか」
セルジュがラファエルに報告する。護衛に張りつかれる生活に疲れて、夜の散歩に抜け出したのかもしれない。
「もしそうなら、苦情は翌朝改めて申し上げるから、今は穏便に連れ戻すようにしてください。大げさに騒ぎ立てない方がいいでしょう。万一、不埒な輩に攫われたということならば、遠慮せずに笛を吹いてください」
ラファエルがセルジュ以下に指示を下し、自分も剣を佩いて、一斉に夜の離宮の庭に走り出す。初夏の夜空は晴れ渡り、満月が煌々ときらめいていた。
姫君はこの月の美しさに誘われてしまったのだろうか。
幼い頃は向こう見ずなお転婆だったと言うが、帰国してからの王女は我儘も言わず、護衛たちをも気遣う優しい姫だった。夜に出歩くのに護衛を煩わせるのを厭うたのかもしれないが、黙って出て行けば、下の者が混乱するとわかっているはずなのに。
夜間の散歩も推奨はしないが、行きたいと言われれば護衛するだけである。夜の街に繰り出すわけでもなく、郊外の離宮である。一人になりたいときもあるかもしれないが、無断で実行されるのは困る。あまり、口うるさいことは言いたくないが、これだけは約束させなければと、ラファエルは心に誓いながら、一方で王女の行きそうな場所を考える。
今日の昼は薔薇園でお茶を飲み、その後、湖の畔を散歩して――そうだ、月の夜の湖が美しいのだと、侍女と話していた。
ラファエルは松林の向こうに広がる、湖に向かう。
以前、王宮の庭の噴水の池で泳ごうとして溺れた、という話を思い出し、思わず身震いする。
それだけは!それだけは、勘弁してくれっ!
心の中で絶叫しながら、ラファエルはいつしか全速力で駆けていた。
松林が切れて、月の光に輝く湖面がラファエルの視界に飛び込んでくる。夜空にかかる白い月が、紺青の湖に映ってさざ波に揺れている。松林を吹き抜ける風の音と、微かな波の音。ボートがいくつか、停泊している桟橋に、ほっそりした人物が腰かけて、素足でパシャパシャと水を弾いていた。
「姫――!」
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