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13、夜会
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ヌイイ侯爵邸は王都でもやや郊外、湖を挟んで王家の離宮の対面にある。もともとこの家は王家に並ぶほどの権勢を誇っていたが、数代前の侯爵が若死にして王家の傍流から養子に入り、今はすっかり一廷臣に成り下がっている。それでも有数の名家であることは間違いなく、侯爵家が主催する夏の夜会には、王都に屋敷を持つ貴族たちが軒並み参加する盛大なものだ。
父のアギヨン侯爵と長兄夫妻は前夜から侯爵邸に招待されていて、ミレイユは次兄と二人で馬車で侯爵家に向かう。一応、王家の催す正式な会より格を落とすために、遊戯色の濃い仮面舞踏会という形を取っているが、仮面は着けても着けなくてもいいという、緩い会だ。ミレイユは顔の半ばを隠す金の仮面を着けて、視界が悪いので兄の腕に掴まってゆっくりと歩いていく。
大広間からは音楽が流れ、人々のさざめきが漏れてくる。夏の夜のことで、庭に向かって広く開け放たれ、あちこちに篝火が焚かれ、湖にも船を出して明かりが灯され、それが水面に反射して揺らめいている。
「今日もまた随分と盛況だな」
黒い仮面をつけたフィリップがミレイユの耳元でポツリと呟く。小さな仮面なので、目のあたりを辛うじて覆うだけだから、知り合いが見れば誰だかすぐにわかるだろう。
「あいつは、来るのか?」
フィリップはラファエルの友人で、ラファエルとミレイユの仲を応援してくれる、数少ない一人だ。ミレイユはゆるゆると首を振る。
「特に聞いていないわ。姫君の護衛で城を抜けられないって……」
「……相変わらず、生真面目な奴だなぁ……」
そんなことを話しながら広間を横切ると、前方から声がかかる。
「ミレイユ! ミレイユでしょう?……やっぱり!」
ミレイユが仮面をはずしてそちらを見ると、向こうでも持ち手のついた仮面を少しずらして、赤毛の少女が手を振っている。仮面舞踏会と言っても雰囲気を楽しむだけで、皆、正体を隠すつもりなんて、さらさらないのだ。
「クロティルド! 来ていたの」
「もちろんよ! あら、フィリップ様もご機嫌よろしゅう」
クロティルドは最近結婚したばかりのミレイユの友人だ。横に立つのは新婚の旦那様。如才なくフィリップと握手を交わし、給仕が運んできた葡萄酒を取り、乾杯する。白葡萄酒で喉を潤して、クロティルドはミレイユの腕を取って、楽の音に紛らわすようにして、囁く。
「彼とは今日は約束しているの?」
夜会でラファエルと忍び逢う間、いつもクロティルドに協力してもらっていた。ミレイユは力なく首を振る。
「いいえ……今日も忙しくて来られないみたい」
「手紙だけ?」
「手紙もないわ。本当に忙しいらしくて」
クロティルドが何か言いたげに緑色の瞳を光らせる。
「さっき、ジロンド伯の馬車を見かけたわよ? 来ているのではないの?」
「まさか。彼が来るのなら、何か一言あると思うわ。――彼のお兄様か、お父様ではなくて?」
今まで、ラファエルがどこかの夜会に参加するときは、必ず事前に連絡をくれていた。ミレイユが同じ夜会に後から潜り込めるように手配したことも、一度や二度ではない。
「例の、出戻りの姫君が微行でいらっしゃるそうよ? その護衛として来るんじゃないの?」
「そうかしら。でもわたくしの方には特に連絡はないわ」
ミレイユの答えに、クロティルドが声を潜めるようにして、言った。
「ねえ、わたくし、こんな噂を聞いたのだけど……ミレイユは彼から、何か聞いてる?」
「最近、本当に忙しくて会えていないの。手紙もあまり……」
ミレイユはとても嫌な予感がして、それ以上聞きたくないと思った。だが、クロティルドはミレイユの気持ちには構わず、耳元で噂話を語る。
「……ジロンド伯爵の次男が王女の護衛に配置換えになったのは、陛下が王女の降嫁を考えているからだ、と――」
「まさか!」
思わず声が尖り、ミレイユははっとして口を掌で覆う。
「そんな馬鹿な。彼は次男で爵位も継げないし、いくら出戻りの姫君でもそんな――」
ミレイユは表情が凍ったのを見られたくなくて、さりげなく仮面を着ける。ミレイユが気分を害したのに気づいて、クロティルドが慌てて謝る。
「ごめんなさい、ミレイユ、無神経だったわ」
ミレイユは大きく息を吸って、クロティルドを仮面越しに見て言った。
「わたくしこそ、声をあらげたりして、ごめんなさい。きっとただの噂よ。彼は二股かけるような人じゃないわ」
「ずいぶん、信じているのね」
「信じるわよ。……結婚を申し込まれてもう、三年になるわ。お父様があんなに冷たく突き放しても、絶対に諦めないと言ってくださったもの。わたくしが信じなくて、どうするの」
「でも最近、話もできていないんでしょう?」
「それはそうだけど……」
ミレイユは睫毛を伏せる。はっきり言えば不安だったが、多忙で家にも帰れないという恋人に、無理に会いたいなんて我儘は言えなかった。
と、次の瞬間、クロティルドがミレイユの袖を強く引っ張った。
「ミレイユ、あれ! ラファエルじゃなくて?」
父のアギヨン侯爵と長兄夫妻は前夜から侯爵邸に招待されていて、ミレイユは次兄と二人で馬車で侯爵家に向かう。一応、王家の催す正式な会より格を落とすために、遊戯色の濃い仮面舞踏会という形を取っているが、仮面は着けても着けなくてもいいという、緩い会だ。ミレイユは顔の半ばを隠す金の仮面を着けて、視界が悪いので兄の腕に掴まってゆっくりと歩いていく。
大広間からは音楽が流れ、人々のさざめきが漏れてくる。夏の夜のことで、庭に向かって広く開け放たれ、あちこちに篝火が焚かれ、湖にも船を出して明かりが灯され、それが水面に反射して揺らめいている。
「今日もまた随分と盛況だな」
黒い仮面をつけたフィリップがミレイユの耳元でポツリと呟く。小さな仮面なので、目のあたりを辛うじて覆うだけだから、知り合いが見れば誰だかすぐにわかるだろう。
「あいつは、来るのか?」
フィリップはラファエルの友人で、ラファエルとミレイユの仲を応援してくれる、数少ない一人だ。ミレイユはゆるゆると首を振る。
「特に聞いていないわ。姫君の護衛で城を抜けられないって……」
「……相変わらず、生真面目な奴だなぁ……」
そんなことを話しながら広間を横切ると、前方から声がかかる。
「ミレイユ! ミレイユでしょう?……やっぱり!」
ミレイユが仮面をはずしてそちらを見ると、向こうでも持ち手のついた仮面を少しずらして、赤毛の少女が手を振っている。仮面舞踏会と言っても雰囲気を楽しむだけで、皆、正体を隠すつもりなんて、さらさらないのだ。
「クロティルド! 来ていたの」
「もちろんよ! あら、フィリップ様もご機嫌よろしゅう」
クロティルドは最近結婚したばかりのミレイユの友人だ。横に立つのは新婚の旦那様。如才なくフィリップと握手を交わし、給仕が運んできた葡萄酒を取り、乾杯する。白葡萄酒で喉を潤して、クロティルドはミレイユの腕を取って、楽の音に紛らわすようにして、囁く。
「彼とは今日は約束しているの?」
夜会でラファエルと忍び逢う間、いつもクロティルドに協力してもらっていた。ミレイユは力なく首を振る。
「いいえ……今日も忙しくて来られないみたい」
「手紙だけ?」
「手紙もないわ。本当に忙しいらしくて」
クロティルドが何か言いたげに緑色の瞳を光らせる。
「さっき、ジロンド伯の馬車を見かけたわよ? 来ているのではないの?」
「まさか。彼が来るのなら、何か一言あると思うわ。――彼のお兄様か、お父様ではなくて?」
今まで、ラファエルがどこかの夜会に参加するときは、必ず事前に連絡をくれていた。ミレイユが同じ夜会に後から潜り込めるように手配したことも、一度や二度ではない。
「例の、出戻りの姫君が微行でいらっしゃるそうよ? その護衛として来るんじゃないの?」
「そうかしら。でもわたくしの方には特に連絡はないわ」
ミレイユの答えに、クロティルドが声を潜めるようにして、言った。
「ねえ、わたくし、こんな噂を聞いたのだけど……ミレイユは彼から、何か聞いてる?」
「最近、本当に忙しくて会えていないの。手紙もあまり……」
ミレイユはとても嫌な予感がして、それ以上聞きたくないと思った。だが、クロティルドはミレイユの気持ちには構わず、耳元で噂話を語る。
「……ジロンド伯爵の次男が王女の護衛に配置換えになったのは、陛下が王女の降嫁を考えているからだ、と――」
「まさか!」
思わず声が尖り、ミレイユははっとして口を掌で覆う。
「そんな馬鹿な。彼は次男で爵位も継げないし、いくら出戻りの姫君でもそんな――」
ミレイユは表情が凍ったのを見られたくなくて、さりげなく仮面を着ける。ミレイユが気分を害したのに気づいて、クロティルドが慌てて謝る。
「ごめんなさい、ミレイユ、無神経だったわ」
ミレイユは大きく息を吸って、クロティルドを仮面越しに見て言った。
「わたくしこそ、声をあらげたりして、ごめんなさい。きっとただの噂よ。彼は二股かけるような人じゃないわ」
「ずいぶん、信じているのね」
「信じるわよ。……結婚を申し込まれてもう、三年になるわ。お父様があんなに冷たく突き放しても、絶対に諦めないと言ってくださったもの。わたくしが信じなくて、どうするの」
「でも最近、話もできていないんでしょう?」
「それはそうだけど……」
ミレイユは睫毛を伏せる。はっきり言えば不安だったが、多忙で家にも帰れないという恋人に、無理に会いたいなんて我儘は言えなかった。
と、次の瞬間、クロティルドがミレイユの袖を強く引っ張った。
「ミレイユ、あれ! ラファエルじゃなくて?」
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