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8、不完全なるもの

不完全なるもの

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 夜のとばりが下りた牢内に、いつもの足音が響く。
 また、あの男がやってきた――そう思うと、恭親王は無意識に溜息を洩らした。

 現れた男は、長身に黒いローブを纏い、朱い髪を露わにしている。彫りの深い西方の顔立ちに、紫紺の瞳。厚みのある唇には妙な色気まであったが、同性に興味のない彼には鬱陶しいだけだ。

「こんばんは。食事は、済みましたか?」
「済んだ。――私はもう寝る。帰れ」
「寝る前にすることがあるでしょう? そろそろ靡いてくれてもいいと思うのですが」
「誰が靡くかホモ野郎! とっとと帰れ!」

 恭親王が黒曜石の瞳でぎろりと睨みつける。昔から男にも好かれるが、迷惑なだけだった。

「あなたの兄上がたは、協力してくれましたのに」
「兄上?」
「そう、あなたのすぐ上の、親王……でしたっけ? 東は皇子にも階級があって、ややこしい」

 恭親王が眉を顰める。彼がこの魔術師に捕えられて数日経つけれど、兄たちもその手中に落ちていたのか。特別に仲がいいわけでもないので、正直なところどうでもいいが、兄貴たちとホモ穴兄弟というも勘弁してもらいたかった。

「じゃあ、彼らに遊んでもらえ。私はホモは嫌いだ」

 憎々し気に言い放つと、話はそれまでとばかりにぷいと横を向く。両腕は食事と用足しの時以外は後ろ手に拘束されて鉄枷が嵌められている。始め、この程度の鉄枷ならば、と魔力を込めて破壊しようと試みたが、この部屋全体に魔力障壁がかけられているのか、全く魔力を発揮することができなかった。食事や用足しの折にも周囲を伺ってはみたが、監視が厳し過ぎて脱出の機会は得られていない。

「実はね、私は、男じゃないんです」

 アタナシオスは黒いフードつきのローブを脱ぎ捨てる。その下の灰色の長衣は、襞がたくさん寄せてあって、胸の部分は二つの丘がはっきりと盛り上がっていた。恭親王がぎょっとする間もなく、アタナシオスは灰色の長衣も脱ぎ捨て、裸体を露わにする。

 目の前で揺れる豊満な二つの乳房に、恭親王が息を飲む。だがそれを支える体躯はがっしりとしていて、そして体の中心にはすでに半ば立ち上がった陽根がある。

「お前――」
「そう。私は男でもあり、女でもある。男の陽根と、女の女陰と、どちらも持っているのですよ。――男が嫌だというのなら、女の方で……」
「や……やめ、触るなっ!」

 恭親王は恐怖で血の気が引いていき、全身に震えが走る。
 ソリスティアの地下牢で見た、〈魔女〉の死体。二つの乳房と、男根、そして女陰。
 男であって男でなく、女であって女でない、両性具有者ヘルマプロディトス

 もうそれは恐怖であった。〈混沌カオス〉そのものを見せつけられたかのような、嫌悪感。

 我慢できないほどの吐き気が込み上げ、口の中に酸っぱい液が滲んできて、もう、胃の中のものを吐き出す寸前だった。口を塞ごうにも、両手に手枷が嵌められているのでどうにもならない。

「だめ、まじ、吐く……無理!」
「ええっ……なっちょっと!本気で?!」
「おええええ」  

 アタナシオスが事態を理解して避けるよりも早く、恭親王は盛大に彼に向かって嘔吐した。まともに吐瀉物としゃぶつを浴びたアタナシオスは茫然としている。えた臭いが充満する中で、恭親王はまだおさまらない吐き気にえづいている。

「……! なんてことをするんです!」
「……わざとじゃない。ちゃんと吐くって言ったのに、お前が避けないから……無理、気持ち悪い、年増もブスもデブも平気だけど、ふたなりは無理。ていうかさ、美眉かわいこちゃんにちんこついててもドン引きなのに、ムサい野郎におっぱいついてるとか、誰得なんだよ! あり得ない!」

 はっきり宣言されて、アタナシオスはさすがに気分を害したらしい。恭親王の顎を長い指で持ち上げ、正面からその瞳を見据えて、言った。

「あなたという人は、本当に……。何が不満です? 私はまだ若いし、不細工でもない。胸はそこらの女よりも大きいし、こっちの長さも太さもソコソコでしょう? 吐くほど嫌がるなんて、失礼にも程がある」
「自慢すんな気色悪い! 近づくなと言っているのに、無理強いするお前が悪い」

 アタナシオスは吐瀉物で汚れた恭親王の絹のシャツの釦を外し、脱がせながら途中でビリビリと破いて、その切れ端で吐瀉物を拭い、紫紺の瞳で彼を睨みつける。

「まったく……自分の置かれた状況が理解できていないようですね。あなたは逃げられない。私を怒らせたらどうなるか、わかっているのですか? 少しは手加減してあげようと思っていたのに。もう少し殊勝に憐れみを乞うとかしたらどうです?」
「……手加減も何も、吐きすぎて死ぬと思う。気持ち悪すぎて勃起しない」

 恭親王はまだ気分悪そうに顔を歪めている。

「……水をくれ。口ん中に胃液の味がする」

 アタナシオスは呆れたように溜息をつくと、立っていって壁際の水がめの蓋をとり、柄杓ひしゃくに一杯、水を汲んできた。柄杓の水を一口口に含み、恭親王の上から屈みこむようにして、彼の唇から口移しで水を飲ませる。豊かな胸が彼の胸に当たって、それだけでぞっと身体を震わせてしまう。

 恭親王が首を乱暴に振ってアタナシオスの顔を振り払い、口をもごもごとさせてブっと水を吐き出した。

「口移しとかやめろって。まじ気持悪い。直接柄杓から飲ませてくれ。そうじゃないと、また吐く。それからくっつくな」
「注文の多い人だ」
「嫌われてるんだって、いい加減に諦めろ」

 それでもアタナシオスは仕方ない、という風に柄杓を差し出す。それに口を付けてごくごく喉を鳴らして飲んで、恭親王はやっとはあと溜息をついた。何とか身体を支えて、漆喰の壁に背中を預けると、アタナシオスは寝台の空いた場所に腰を下ろし、彼の隣に座る形になる。

「ふたなりは初めて見ましたか?」

 少し汗ばんだ恭親王の黒髪を、アタナシオスが長い髪で掻き分け、丁寧に撫でつける。その仕草にすら不快そうに、咄嗟に眉を顰める様子を見て、アタナシオスは肩をすくめる。

「あなたは好みのタイプなんですがね。少しは友好的になっていただきたいのですが」
「私のタイプじゃない。……生きているふたなりは初めてだ。服を着てくれ。視界に入ると不快だ。……お前は、イフリート家のものだな」

 その言葉に、アタナシオスが可笑しそうに口角を上げ、仕方なく脱ぎ捨てた長衣を拾って羽織る。

「ええ……そうですよ?……なるほど、死んだ者の遺体を見たのですね。ソリスティアと言えば……ああ、〈魔女〉のフロリーサですね」
「婆さん、というのか、爺さんというのか知らんが……気持ち悪かったし、その時も吐いた」 
「……私たちも、好きでこの身体に生まれたわけではないのですよ? 失礼にもほどがある」  
「そこは悪いと思うが、どうにも我慢できない」

 不貞腐れたようにぷいっと顔を背ける恭親王の横顔を、アタナシオスはじっと見つめる。
 ふいに、恭親王がアタナシオスに尋ねる。

「……完全なる者とは、お前たちのことか?」

 アタナシオスの紫紺の瞳が、一瞬、丸く見開かれる。

「ほう……あなた方は、意外にも我々のことを掴んでいたのですね」
「やはり、そうなのか?」

 恭親王が気味悪そうにアタナシオスを眺める視線に苦笑して、アタナシオスが言った。

「いいえ――私たちは完全に近いけれど、不完全です」
「何が、足りない?」
「〈)〉――つまり、あなた方で言う〈王気〉に当たるものが足りません。両性具有の身体、つまり〈〉と、魔力である〈〉はあるけれど、〈気〉が足りない。それ故に、不完全なのです」
「〈器〉と〈鬼〉と〈気〉――」

 アタナシオスは恭親王のやや高い頬骨から滑らかな頬を愛おし気に長い指でなぞる。

「あなた方、金の龍種は男形の〈器〉と魔力である〈鬼〉、そして金色の〈気〉を持つ。それが故に龍種である。その眷属けんぞくの貴種は、〈器〉と〈鬼〉を持つけれど、〈気〉は持たない。西の龍種は女形の〈器〉と〈鬼〉、そして銀色の〈気〉を持つ。我々が信仰する泉神は、両性具有の〈器〉と、〈鬼〉、そして〈気〉を持つ――それが、〈完全なる者〉です」

 恭親王は黒曜石の瞳を見開いて、じっとアタナシオスを見つめる。

「つまり――アルベラ姫は違う」 
「もちろん、違う。女は、ただ形代に過ぎない。神殿に仕えて我々を生む。だが、生まれ落ちる子はいずれも不完全で、〈気〉を持たない。我らが主神の甦りとはなり得ない」

 アタナシオスが両手で恭親王の頬を包み、至近距離から紫紺の瞳で覗き込む。アタナシオスの紫紺の瞳に、恭親王の顔が映っていた。驚愕に見開かれた瞳――。

「だが――イフリート家は、〈完全なる者〉を得た」

 恭親王の言葉に、アタナシオスは少し目を眇める。

「ああ――完全テレイオスのことですね。どこで聞いたのか知りませんが……それは秘密ですよ」
「……そんな奴がいるのか」
「知りたいですか?……私の言う通りにしてくれるなら、教えてあげないこともありません」
「……いい。取引はしない」
「頑なですね」

 その表情を見て、恭親王は次に浮かぶ疑問をぶつける。

「お前は、イフリート家の血を引いているのか」

 アタナシオスは厚みのある唇を綻ばせる。

「私の父はイフリート公爵ウルバヌスで、母はその姉です」

 恭親王はあまりの不快さに顔を背ける。〈禁苑〉の教えは、近親相姦を嫌う。

「やっぱり無理。――両性具有も、近親相姦も、気持ち悪い」
「龍種は潔癖なまでに近親婚を嫌いますからね。でも、イフリート家は代々、兄妹姉弟で契るのは当然なのですよ。女子は他家に嫁がず、泉神殿に入るのです。――私のような者を生むためにね」
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