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8、不完全なるもの

たとえ心が砕けても

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 一晩中襲い来る快楽と苦痛に、彼の精神こころは確実に蝕まれていく。結局、その夜はアタナシオスを受け入れることなく、気を失った恭親王を見下ろして、アタナシオスは首を傾げる。

「――本当に強情ですね。そんなにあの女に操を立てるなんて……」

 吐くほど嫌われているのはショックではあったが、アタナシオスには勝算があった。
 さまざまな手段で調べ上げた、この男の性の遍歴は、一途さとは無縁だった。

 後宮の閨の指南者である閨女たちを皮切りに、後宮に集められた秀女たちや、例の〈処女殺し〉の一件で死んだ侍女など、十代前半から両手両足の指では足りない数の女たちと寝てきた男だ。はっきりとはしないが、死んだ正傅や、異母兄とも関係を持っていた形跡がある。北方の砦では部下の命と引き換えに、異民族の首長にその身を差し出しており、要するに男女どちらの経験もある。北方から帝都に戻った後に、正傅の妻を皮切りに、一夜限りの恋に溺れるように耽溺したのは、強要された同性愛に些か傷ついたからなのか。

 だがそんな同情など吹っ飛ぶほどの、女と見れば見境なしの乱行ぶりだった。二年ほど囲っていた商家の未亡人は、金と権力をチラつかせて、友人の廉郡王や詒 郡王と共有して嬲り者にしていたらしい。
 
 アタナシオスが皇太子の周辺から掴んだ情報では、この皇子は要するに浮気な女誑しで、息をするようにセックスをしていたとんでもない色情狂だ。

 そんな色狂いのくせに、どうやら死んだ正室にだけは指一本触れなかったらしい。代わりに、辺境の下級貴族出身の、秀女上がりの側室レイナを傍目にも眩しいほどに寵愛していたという。だがその寵姫は三年前に、嫉妬に狂った正室の折檻により、腹の子もろとも死亡した。その後はそれ以前の醜行を悔い改めたのか、やしき逼塞ひっそくし、ちょうど一年前の夏至の日に〈聖婚〉の皇子に卜定ぼくじょうされ、半年の婚約期間を置いて、冬至の夜に西の最後の龍種、アデライード姫と結婚する。その後は新妻を溺愛していると言うが――。

 一方、アタナシオスが聖地から逃れてきた〈黒影〉の女――つまり、アデライードを殺し損ねた〈エイダ〉のこと――から仕入れた、西の王女アデライードの為人ひととなりは、到底この類の男を満足させられるタイプではない。

 曰く、見かけだけは輝くように美しいが、脳みそは空っぽの白痴女だと。
 幼少時に誘拐されたショックで声を失い、普段からぼんやりとして、何を考えているのか――何か考えているのかすら――わからない。趣味は刺繍と、辛気臭い書道カリグラフィー。掛け値なしの処女で、処女が何たるかすら知らない、性の知識は皆無の箱入り。精神の成長もまた、誘拐された七歳の時点で止まってしまったかのようだ、と。

 最初は、物珍しさもあって、遊び慣れた男には、かえって新鮮に映るかもしれないが。

『悔しいけれど、十人の男が見れば、十二人が振り返るくらいの美少女だよ。中身は笑っちゃうくらいのポンコツだけどね。たぶんあれはさ、中身が空っぽだからこそ、綺麗なんだよ。白痴美っていうのは、あの女のためにある言葉だね』

 〈黒影〉の女が憎たらしそうに言ったものだが、多分に美少女への嫉妬が含まれていた。どのみち、庇護欲はそそるが、幼女趣味ロリコンか白痴女が好きだという男以外は、三日で飽きる美女の典型だと、あの女は言っていた。洒落た会話が楽しめるわけでなし、性の技量にけているわけでもなし、遊び慣れた若い男の愛情を繋ぎとめることなど、できそうもない女だということだ。

 ところが、ここ数日、この皇子と話してみて感じたことは、彼が心の底から、西の王女を愛しているらしいことだった。

 そもそも、皇子の雰囲気も何もかも、彼が皇太子周辺から聞いていた放蕩皇子の噂とはほど遠い。見惚れるような美貌はそのままだが、どこか潔癖で、誠実な印象さえ与えるではないか。

(――寵姫を失って、放蕩生活から足を洗ったというが、処女で子供のような王女の清純さに感化されでもしたのか――)
 
 浮気な放蕩皇子だと聞いていたから、簡単に快楽に堕ちてくれると思っていたのに、存外と王女に操立てして抵抗する。好みのタイプであるだけに、見たこともない王女に対して嫉妬心すら芽生えてくる。

「あるいは、それほどまでに、龍種のつがいの強制力は強いということなのか――」

 アタナシオスはふうっ、と息を吐いて、皇子の美しい顔を上から覗きこんだ。

 そう言えば、皇太子が言っていた「皇子の入れ替わり」の話が気になる。それによれば、この皇子は本物のユエリン皇子ではなく、太陽宮の沙弥しゃみだったシウリン――ユエリンとは双子であったというから、皇子であることには変わりがないのだが。

 沙弥のシウリンという名に、何となく引っ掛かりを覚えて、アタナシオスが首を傾げる。
 ――どこかで、聞いたような気がするのだが――。 
 しばらく考えても思い出せず、アタナシオスは諦めて首を振った。

 アタナシオスは疲れ切って眠る、恭親王の汗ばんだ額髪を手で掻き分け、形のよい額に指を滑らす。長く黒い睫毛が影を落とす、やや高い頬骨から、通った鼻筋、半ば開いた美しい唇をなぞり、そっと溜息を漏らす。男の周囲は金色の光が取り巻き、時折、龍の姿を取って躍動する。

 この美しい〈王気〉を、あの半ば狂った皇太子――新帝だが――に明け渡すつもりはなかった。

「私のものにおなりなさい。……美しい、皇子」

 アタナシオスの艶めいた唇が、小さく呟いた。





 ちらちらと初雪が降る森の中、常盤木の根元に二人寄り添うように座り、互いの体温と交わる甘い〈気〉を感じる。彼女の白金色の髪が、彼の肩から首筋のあたりで揺れ、ふわりと薔薇のような香りが漂う。

『大きくなったら、わたしの旦那様になって欲しいの。約束して?』

 甘ったるい、舌足らずな蜜のように甘い我儘に、彼の脳髄はとろりと溶けるように痺れて、抗うことができない。じーんと痺れたままの頭を背後の木に凭せ掛けながら、彼は思う。

(――これは、夢? しばらく見ていなかった、聖地の――あの日の、夢……)

 かつて、帝都で意に染まぬ日々を送っていた時は、頻繁に夢見たあの日の思い出。メルーシナと出会い、二人で初雪の降る中、常盤木の下で身を寄せ合い、結婚の約束をした。彼はあの日の思い出と、メルーシナとの約束だけを心のよすがとして、砂を噛むような日常を生きた。

 夢の中で、メルーシナの白金色の髪が揺れ、彼の手にかかる。鼻をくすぐる甘い、薔薇の香り。今にして思えば、それはメルーシナが愛用していた浴用の石鹸か香水か、そんなものの香りだったのだろうが、彼にとっては彼女のもつ〈気〉の香りそのものだった。
 
 彼の、脳まで蕩かす甘い〈気〉と、香り――。
 抱きしめることはおろか、手を繋ぐことすら思い浮かばなかった。何も知らなかった無垢なあの日。

『僕も……あなたがいい。他の人は、いらない……天と陰陽がそう望めば……』
『約束して。わたしと〈ケッコン〉するって』
『もし天と陰陽が望めば、あなたと結婚します。……あなた以外とは、結婚しません』

 腕に縋りつく小さな手のぬくもりを感じながら、熱に浮かされたように口にした約束。ただ一人の、生涯を誓った相手。彼の心はただ、彼女一人だけによって占められ、他の誰も受け入れる余地などなかった。けして結ばれることのない恋だと知りながら、他の相手をそれに置き換えることなど、できはしなかった。

 幾人もの女と関係を持ったけれど、それは全て身体だけの間柄。傍目には唯一の寵姫だったレイナですら、彼は愛することはなかった。
 
 心の奥の一番大切な場所は、ずっと、メルーシナ一人だけの場所だった。

 ――あの日の夢を見なくなったのは、夢に逃げる必要がなくなったからだ。もう二度と、会えないと思っていた彼女は、〈聖婚〉の王女として彼の目の前に現れた。そして――。

『たとえ離れても、わたしを同じところで待つと誓って。どれほど恐ろしい場所であっても、わたしを呼ぶと誓って』
『ああ、誓う――絶対に離れない……永遠に、あなただけ……』

 まだ明るい午後の陽の差す寝台で、二人で貪りあい、永遠を誓い合った。

 それなのに。自分は、シウリンだと、まだ告げていない。
 あの冬の森の出会いから、ずっとずっと、彼女だけを愛してきたと、言わなければ――。



 
 彼女は、名も過去も奪われたシウリンの、最後の自我。

 たとえ心が粉々に砕けても、最後の瞬間まで、彼は彼女だけを愛し続けるーー。
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