97 / 171
8、不完全なるもの
正統の女王
しおりを挟む
ユリウスとマニ僧都は、三日後の午、シルルッサの港近くにある領主館に入った。
シルルッサは周辺では最大の港街で、その領主の妻はユリウスの異母妹――つまり、アデライードの異母姉――ミリアムである。
ミリアムは四か月ほど前に出産した三人目の子を腕に抱いて、ユリウスを出迎えた。
「兄上もお元気そうですが、戦の方はどうなっていますか。すぐにもナキアが落ちるようなお話でしたのに」
ミリアムはユリウスと同じ真っ直ぐなダークブロンドを頭上で結い上げ、アデライードよりもやや濃い緑色の瞳をしている。アデライードは母親のユウラ女王に瓜二つで、普段はレイノークス伯家の血はほどんど感じさせないのだが、しかし、こうしてみるとミリアムとは何となく似通った面影があると、マニ僧都は思う。
「始めまして、太陽宮の僧都をしております、マニと申します。俗名はヴェスタ家のイスマニヨーラ、アデライードの母方の伯父にあたります」
丁寧に腰をかがめる僧侶に、ミリアムもにっこりと微笑む。
「まあ、ご挨拶が遅れました。シルルッサのヴェラド家に嫁いでおります、レイノークス家のミリアムと申します。……では、ユウラ様の兄上にあらせられるのでございますね」
シルルッサの領主カリストにも紹介され、マニ僧都が赤ん坊に癇の虫除けの呪法を行ったりしているうちに、近隣の領主たちも続々と集まってきた。彼らは戦争が膠着状態に陥ったことと、密かに出回る噂についてユリウスを問いただすために、シルルッサにつめかけたのだ。
ミリアムが赤ん坊を連れて広間から下がると、早速、カンダハルに一番近い港街、レヴェーネの領主が立ち上がってユリウスを糾弾した。レヴェーネには連合軍の艦隊も常駐しているので、経済的な負担も圧し掛かっているのだ。
「ユリウス卿、最初のお話では、総督はカンダハルから一気にナキアを制圧し、アデライード姫を女王即位を強行するということだった。だが、カンダハルを落としたのにもかかわらず、帝国軍はいっこうに動く気がなく、イフリート公はカンダハル奪還の兵を諸侯から召集し、明日にもカンダハルを再包囲するとも。噂によれば帝都では政変が起き、総督は解任されたと言うではないか。本当にこの後も、帝国はアデライード姫の即位を支援するつもりはあるのか?」
総督の解任と聞いて、広間がざわつく。だがそのざわめきの中をマニ僧都の笑い声が響き渡り、領主たちは口を噤む。
「あはははははは、誰に聞いたが知らないが、総督は〈聖婚〉の皇子。たとえ皇帝であっても解任など不可能だよ!」
「しかしっ!」
なおも食い下がるレヴェーネの領主に、マニ僧都が青い瞳を向けて微笑む。
「殿下は確かに今、帝都に帰っているが、それは皇帝の代替わりがあったためだ。父親の死とあれば、已むを得まい」
「だが、確かな筋の情報では……」
「たとえ総督が不在であっても、西の女王になるべき唯一の存在がアデライードであることは揺るがない。本来ならば帝国の干渉などなくとも、みずから率先してアデライード即位を働きかけて然るべきじゃないのかね? 〈王気〉のないアルベラ姫がまるで正統なる女王であるかの如き、イフリート公爵の専横を許して、西の諸侯たちは〈禁苑〉の教えを蔑ろにしていると非難されても、言い訳できないな」
「それは……」
マニ僧都の非難に、小国家の領主たちも口を噤まざるを得ない。西の女王は龍種に限られる。アルベラは女王の娘ではあるが〈王気〉を持たず、ゆえに龍種ではない。〈禁苑〉の教えから言えば、女王とはなり得ないのだ。
「だが、アデライード姫には何の力もない。我々、海辺の小国家にいったい何ができよう」
別の領主が立ち上がって言うのに、マニ僧都もまた、梔子色の袈裟をバサリと捌いて立ち上がる。
「ほう?――諸君はつい先日成し遂げた、偉大なる戦果を早くも忘れたのか? 二千年来の難攻不落を謳われた、〈海の神獣〉カンダハルを、ついに落としたのは誰だったか? 数に勝るカンダハルの海軍を、完膚なきまでに叩き潰したのは、誰だったか? 勝利を得たのは諸君の率いる海港都市の軍隊ではなかったか!」
そう指摘されれば、領主たちにも戦勝の興奮が甦る。
「確かにそうだ! だが!――我々だっていつまでも戦場に張り付いているわけには――」
言いさしたレヴェーネの領主を、マニ僧都が軽蔑したように顎を少し上げて見下ろす。
「諸君が戦うのは、何のためだ? 女王はどこの国を統べる? 帝国か? 違うだろう。西の国には、西の女王。二千年に渡って、我ら西の民が崇め、頂いてきたのは我々の女王だ。正統なる女王を得る戦いを、東の軍隊に頼りきりにするのかね? 情けないと思わないのか。いっそ帝国にひれ伏して、帝国の民になるかね?」
ぐうの音も出ない正論ではあったが、だが、領主たちにも言い訳したいことがある。
「仕方がないだろう! 我らが女王は弱い。常に大諸侯の掣肘下にあって、ナキアの元老院の言いなりになるしかない、何の力もない存在だ。たとえ正統なる女王を立てたところで――」
その言い訳をマニ僧都が遮る。
「何の力もない、ほう――女王に力がないなどと、いったい誰が言ったか。二千年に及んで世界の半分を支配してきた女王が、無力などということが、本当にあると信じていたのか?」
「しかし実際に――」
マニ僧都がしっと言うように人差し指を立てて唇に当てる。
「私は今日、この場にアデライード姫の来臨を願ったのだ。他ならぬこの館の主、カリスト卿は姫君の姉上の御夫君。快く応じてくださった。そろそろ約束の刻限だ」
そうしてマニ僧都は手首にかけた翡翠の数珠を両手でまさぐる。
「姫君はこの数珠を目印に、この場に参られると、拙僧と約していてね――」
広場にいた全員が、いったい何の話なのかと、じっと僧都の手にある翡翠の数珠を見つめる。そして――。
何もなかった広間の、モザイクタイルの床の上に、白い魔法陣が浮かび上がる。それが光り輝き、光の粒が床から沸き起こって煌めいた。その光の幕の中から、うっすらと足元から薄紫色の絹の長衣が浮かび上がる――。
白金色の長い髪が背中を覆う、ほっそりとした若い女。白いレースの肩衣を纏い、金銀糸の組紐を腰帯にして房を長く垂らしている。首元には真珠の首飾り。翡翠色の瞳に抜けるように白い肌を持つ、誰もが見惚れるほど美しい女。まだ少女と言ってもいい年齢ながら、何とも言えぬ儚さと色香が同居し、一座の何人かは思わず唾を飲み込んだ。
シルルッサは周辺では最大の港街で、その領主の妻はユリウスの異母妹――つまり、アデライードの異母姉――ミリアムである。
ミリアムは四か月ほど前に出産した三人目の子を腕に抱いて、ユリウスを出迎えた。
「兄上もお元気そうですが、戦の方はどうなっていますか。すぐにもナキアが落ちるようなお話でしたのに」
ミリアムはユリウスと同じ真っ直ぐなダークブロンドを頭上で結い上げ、アデライードよりもやや濃い緑色の瞳をしている。アデライードは母親のユウラ女王に瓜二つで、普段はレイノークス伯家の血はほどんど感じさせないのだが、しかし、こうしてみるとミリアムとは何となく似通った面影があると、マニ僧都は思う。
「始めまして、太陽宮の僧都をしております、マニと申します。俗名はヴェスタ家のイスマニヨーラ、アデライードの母方の伯父にあたります」
丁寧に腰をかがめる僧侶に、ミリアムもにっこりと微笑む。
「まあ、ご挨拶が遅れました。シルルッサのヴェラド家に嫁いでおります、レイノークス家のミリアムと申します。……では、ユウラ様の兄上にあらせられるのでございますね」
シルルッサの領主カリストにも紹介され、マニ僧都が赤ん坊に癇の虫除けの呪法を行ったりしているうちに、近隣の領主たちも続々と集まってきた。彼らは戦争が膠着状態に陥ったことと、密かに出回る噂についてユリウスを問いただすために、シルルッサにつめかけたのだ。
ミリアムが赤ん坊を連れて広間から下がると、早速、カンダハルに一番近い港街、レヴェーネの領主が立ち上がってユリウスを糾弾した。レヴェーネには連合軍の艦隊も常駐しているので、経済的な負担も圧し掛かっているのだ。
「ユリウス卿、最初のお話では、総督はカンダハルから一気にナキアを制圧し、アデライード姫を女王即位を強行するということだった。だが、カンダハルを落としたのにもかかわらず、帝国軍はいっこうに動く気がなく、イフリート公はカンダハル奪還の兵を諸侯から召集し、明日にもカンダハルを再包囲するとも。噂によれば帝都では政変が起き、総督は解任されたと言うではないか。本当にこの後も、帝国はアデライード姫の即位を支援するつもりはあるのか?」
総督の解任と聞いて、広間がざわつく。だがそのざわめきの中をマニ僧都の笑い声が響き渡り、領主たちは口を噤む。
「あはははははは、誰に聞いたが知らないが、総督は〈聖婚〉の皇子。たとえ皇帝であっても解任など不可能だよ!」
「しかしっ!」
なおも食い下がるレヴェーネの領主に、マニ僧都が青い瞳を向けて微笑む。
「殿下は確かに今、帝都に帰っているが、それは皇帝の代替わりがあったためだ。父親の死とあれば、已むを得まい」
「だが、確かな筋の情報では……」
「たとえ総督が不在であっても、西の女王になるべき唯一の存在がアデライードであることは揺るがない。本来ならば帝国の干渉などなくとも、みずから率先してアデライード即位を働きかけて然るべきじゃないのかね? 〈王気〉のないアルベラ姫がまるで正統なる女王であるかの如き、イフリート公爵の専横を許して、西の諸侯たちは〈禁苑〉の教えを蔑ろにしていると非難されても、言い訳できないな」
「それは……」
マニ僧都の非難に、小国家の領主たちも口を噤まざるを得ない。西の女王は龍種に限られる。アルベラは女王の娘ではあるが〈王気〉を持たず、ゆえに龍種ではない。〈禁苑〉の教えから言えば、女王とはなり得ないのだ。
「だが、アデライード姫には何の力もない。我々、海辺の小国家にいったい何ができよう」
別の領主が立ち上がって言うのに、マニ僧都もまた、梔子色の袈裟をバサリと捌いて立ち上がる。
「ほう?――諸君はつい先日成し遂げた、偉大なる戦果を早くも忘れたのか? 二千年来の難攻不落を謳われた、〈海の神獣〉カンダハルを、ついに落としたのは誰だったか? 数に勝るカンダハルの海軍を、完膚なきまでに叩き潰したのは、誰だったか? 勝利を得たのは諸君の率いる海港都市の軍隊ではなかったか!」
そう指摘されれば、領主たちにも戦勝の興奮が甦る。
「確かにそうだ! だが!――我々だっていつまでも戦場に張り付いているわけには――」
言いさしたレヴェーネの領主を、マニ僧都が軽蔑したように顎を少し上げて見下ろす。
「諸君が戦うのは、何のためだ? 女王はどこの国を統べる? 帝国か? 違うだろう。西の国には、西の女王。二千年に渡って、我ら西の民が崇め、頂いてきたのは我々の女王だ。正統なる女王を得る戦いを、東の軍隊に頼りきりにするのかね? 情けないと思わないのか。いっそ帝国にひれ伏して、帝国の民になるかね?」
ぐうの音も出ない正論ではあったが、だが、領主たちにも言い訳したいことがある。
「仕方がないだろう! 我らが女王は弱い。常に大諸侯の掣肘下にあって、ナキアの元老院の言いなりになるしかない、何の力もない存在だ。たとえ正統なる女王を立てたところで――」
その言い訳をマニ僧都が遮る。
「何の力もない、ほう――女王に力がないなどと、いったい誰が言ったか。二千年に及んで世界の半分を支配してきた女王が、無力などということが、本当にあると信じていたのか?」
「しかし実際に――」
マニ僧都がしっと言うように人差し指を立てて唇に当てる。
「私は今日、この場にアデライード姫の来臨を願ったのだ。他ならぬこの館の主、カリスト卿は姫君の姉上の御夫君。快く応じてくださった。そろそろ約束の刻限だ」
そうしてマニ僧都は手首にかけた翡翠の数珠を両手でまさぐる。
「姫君はこの数珠を目印に、この場に参られると、拙僧と約していてね――」
広場にいた全員が、いったい何の話なのかと、じっと僧都の手にある翡翠の数珠を見つめる。そして――。
何もなかった広間の、モザイクタイルの床の上に、白い魔法陣が浮かび上がる。それが光り輝き、光の粒が床から沸き起こって煌めいた。その光の幕の中から、うっすらと足元から薄紫色の絹の長衣が浮かび上がる――。
白金色の長い髪が背中を覆う、ほっそりとした若い女。白いレースの肩衣を纏い、金銀糸の組紐を腰帯にして房を長く垂らしている。首元には真珠の首飾り。翡翠色の瞳に抜けるように白い肌を持つ、誰もが見惚れるほど美しい女。まだ少女と言ってもいい年齢ながら、何とも言えぬ儚さと色香が同居し、一座の何人かは思わず唾を飲み込んだ。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
175
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる