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8、不完全なるもの

正統の女王

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 ユリウスとマニ僧都は、三日後のひる、シルルッサの港近くにある領主館に入った。
 シルルッサは周辺では最大の港街で、その領主の妻はユリウスの異母妹――つまり、アデライードの異母姉――ミリアムである。

 ミリアムは四か月ほど前に出産した三人目の子を腕に抱いて、ユリウスを出迎えた。
 
「兄上もお元気そうですが、戦の方はどうなっていますか。すぐにもナキアが落ちるようなお話でしたのに」

 ミリアムはユリウスと同じ真っ直ぐなダークブロンドを頭上で結い上げ、アデライードよりもやや濃い緑色の瞳をしている。アデライードは母親のユウラ女王に瓜二つで、普段はレイノークス伯家の血はほどんど感じさせないのだが、しかし、こうしてみるとミリアムとは何となく似通った面影があると、マニ僧都は思う。

「始めまして、太陽宮の僧都をしております、マニと申します。俗名はヴェスタ家のイスマニヨーラ、アデライードの母方の伯父にあたります」
 
 丁寧に腰をかがめる僧侶に、ミリアムもにっこりと微笑む。

「まあ、ご挨拶が遅れました。シルルッサのヴェラド家に嫁いでおります、レイノークス家のミリアムと申します。……では、ユウラ様の兄上にあらせられるのでございますね」

 シルルッサの領主カリストにも紹介され、マニ僧都が赤ん坊にカンの虫除けの呪法を行ったりしているうちに、近隣の領主たちも続々と集まってきた。彼らは戦争が膠着こうちゃく状態に陥ったことと、密かに出回る噂についてユリウスを問いただすために、シルルッサにつめかけたのだ。

 ミリアムが赤ん坊を連れて広間から下がると、早速、カンダハルに一番近い港街、レヴェーネの領主が立ち上がってユリウスを糾弾きゅうだんした。レヴェーネには連合軍の艦隊も常駐しているので、経済的な負担も圧し掛かっているのだ。

「ユリウス卿、最初のお話では、総督はカンダハルから一気にナキアを制圧し、アデライード姫を女王即位を強行するということだった。だが、カンダハルを落としたのにもかかわらず、帝国軍はいっこうに動く気がなく、イフリート公はカンダハル奪還の兵を諸侯から召集し、明日にもカンダハルを再包囲するとも。噂によれば帝都では政変が起き、総督は解任されたと言うではないか。本当にこの後も、帝国はアデライード姫の即位を支援するつもりはあるのか?」

 総督の解任と聞いて、広間がざわつく。だがそのざわめきの中をマニ僧都の笑い声が響き渡り、領主たちは口を噤む。

「あはははははは、誰に聞いたが知らないが、総督は〈聖婚〉の皇子。たとえ皇帝であっても解任など不可能だよ!」
「しかしっ!」

 なおも食い下がるレヴェーネの領主に、マニ僧都が青い瞳を向けて微笑む。

「殿下は確かに今、帝都に帰っているが、それは皇帝の代替わりがあったためだ。父親の死とあれば、むを得まい」
「だが、確かな筋の情報では……」
「たとえ総督が不在であっても、西の女王になるべき唯一の存在がアデライードであることは揺るがない。本来ならば帝国の干渉などなくとも、みずから率先してアデライード即位を働きかけて然るべきじゃないのかね? 〈王気〉のないアルベラ姫がまるで正統なる女王であるかの如き、イフリート公爵の専横を許して、西の諸侯たちは〈禁苑〉の教えを蔑ろにしていると非難されても、言い訳できないな」
「それは……」

 マニ僧都の非難に、小国家の領主たちも口を噤まざるを得ない。西の女王は龍種に限られる。アルベラは女王の娘ではあるが〈王気〉を持たず、ゆえに龍種ではない。〈禁苑〉の教えから言えば、女王とはなり得ないのだ。

「だが、アデライード姫には何の力もない。我々、海辺の小国家にいったい何ができよう」
 
 別の領主が立ち上がって言うのに、マニ僧都もまた、梔子くちなし色の袈裟けさをバサリと捌いて立ち上がる。

「ほう?――諸君はつい先日成し遂げた、偉大なる戦果を早くも忘れたのか? 二千年来の難攻不落を謳われた、〈海の神獣ケートス〉カンダハルを、ついに落としたのは誰だったか? 数に勝るカンダハルの海軍を、完膚なきまでに叩き潰したのは、誰だったか? 勝利を得たのは諸君の率いる海港都市の軍隊ではなかったか!」

 そう指摘されれば、領主たちにも戦勝の興奮が甦る。

「確かにそうだ! だが!――我々だっていつまでも戦場に張り付いているわけには――」
 
 言いさしたレヴェーネの領主を、マニ僧都が軽蔑したように顎を少し上げて見下ろす。

「諸君が戦うのは、何のためだ? 女王はどこの国を統べる? 帝国か? 違うだろう。西の国には、西の女王。二千年に渡って、我ら西の民が崇め、頂いてきたのは我々の女王だ。正統なる女王を得る戦いを、東の軍隊に頼りきりにするのかね? 情けないと思わないのか。いっそ帝国にひれ伏して、帝国の民になるかね?」

 ぐうの音も出ない正論ではあったが、だが、領主たちにも言い訳したいことがある。

「仕方がないだろう! 我らが女王は弱い。常に大諸侯の掣肘せいちゅう下にあって、ナキアの元老院の言いなりになるしかない、何の力もない存在だ。たとえ正統なる女王を立てたところで――」

 その言い訳をマニ僧都が遮る。
 
「何の力もない、ほう――女王に力がないなどと、いったい誰が言ったか。二千年に及んで世界の半分を支配してきた女王が、無力などということが、本当にあると信じていたのか?」
「しかし実際に――」

 マニ僧都がしっと言うように人差し指を立てて唇に当てる。

「私は今日、この場にアデライード姫の来臨を願ったのだ。他ならぬこの館の主、カリスト卿は姫君の姉上の御夫君。快く応じてくださった。そろそろ約束の刻限だ」

 そうしてマニ僧都は手首にかけた翡翠の数珠を両手でまさぐる。

「姫君はこの数珠を目印に、この場に参られると、拙僧と約していてね――」

 広場にいた全員が、いったい何の話なのかと、じっと僧都の手にある翡翠の数珠を見つめる。そして――。

 何もなかった広間の、モザイクタイルの床の上に、白い魔法陣が浮かび上がる。それが光り輝き、光の粒が床から沸き起こって煌めいた。その光の幕の中から、うっすらと足元から薄紫色の絹の長衣が浮かび上がる――。

 白金色の長い髪が背中を覆う、ほっそりとした若い女。白いレースの肩衣を纏い、金銀糸の組紐を腰帯にして房を長く垂らしている。首元には真珠の首飾り。翡翠色の瞳に抜けるように白い肌を持つ、誰もが見惚れるほど美しい女。まだ少女と言ってもいい年齢ながら、何とも言えぬ儚さと色香が同居し、一座の何人かは思わず唾を飲み込んだ。

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