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12、古き神の名のもとに

泉神殿

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 馬車に押し込まれるようにして、アルベラは泉神殿に連れ去られた。
 ナキアの西、近郊に広がる森の中に作られた泉神殿は、ナキアでは月神殿には及ばないものの、イフリート家の強い保護を受け、それなりの信仰を集めてはいる。だが、アルベラは数度、父に連れられて来たことがあるだけだった。

 その日、アルベラは視察を終えて普段着に着替えたままで、とても神殿の聖職者に挨拶するような服装ではなかった。襟ぐりと袖口には銀糸を使った縁飾りがついているだけの、シンプルなグレーの長衣に青いサッシュベルト、足元も茶の革のサンダルだ。髪はストロベリー・ブロンドのサイドを三つ編みにして後頭部で止めただけ。髪飾りすらつけていなかった。
 
「着きました」

 アルブレヒトは自分で馬車の扉を開け、アルベラが降りるのを補助する。恐る恐る神殿の方を見ると、年老いた女神官が数人、神殿の階段の上でアルベラの馬車を見下ろしていた。

「……神殿に押し込めるなんて、あんまりではないの?」
「閣下のご命令ですから。――最近、姫君の行いは目に余る。いずれ、こうなるとは思っていました」
 
 アルブレヒトは頬骨の出た細い、神経質そうな顔を冷酷に凍らせる。
 
「お待ちしておりました。アルベラ姫。――女王家の姫とはいえ、ここではイフリート家のご令嬢として、奉仕の日々を送っていただきます。まずは泉神にご挨拶をして、女神官長にお目通りを」

 階段から下りてきた老女が言う。黒い、伝統的な巻き付け式の長衣に、やはり黒いベールを頭に巻いている。

「突然のことで戸惑っているんです……お姉さまは、お元気でいらっしゃる?」

 アルベラの異母姉が数年前に泉神殿に入っていた。それほど親しくはなかったけれど、礼儀として聞くべきであろうと思い、尋ねる。老女はこれまた冷たい微笑みを浮かべ、言った。

「ええ、夕餉の折にでもお会いできましょう。その他の、おば君や、従姉妹たちともね。……わたくしも歳は離れておりますが、あなたの従姉なのですよ」
「そうだったのですか。それは存知あげずに失礼いたしました」

 そんなの知る訳ないじゃないの、と内心思いながらも、口先だけで謝る。老女に導かれてアルベラが階段を上り始めると、アルブレヒトは再び馬車に乗って出て行こうとした。

「帰るの? わたしを置いて?」
「私は閣下の副官です。閣下のお側に詰めるのが仕事ですから」

 門を出て行く馬車を茫然と見送るアルベラの前で、神殿の鉄の門がガシャンと締まる。――テセウスも、シリルもいない。

 アルベラが、完全な孤独を思い知ったのは、その瞬間だった。





 特に変哲もない泉神の祭壇に祈りを捧げてから、アルベラは父ウルバヌスの従姉だという女神官長に挨拶する。六十に近いやや太りじしの女神官長は、紫紺の瞳で頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするかのようにアルベラを眺めまわし、言った。

「瞳の色はともかく、髪は我らがイフリート家の血を、辛うじて引いているようですわね。イフリート家の女は二千年の長きにわたり、泉神の奉仕に生きてまいりました。あなたは結婚までの数月ということですが、同様に奉仕にその身を捧げて暮らすように」

 女神官長の部屋で、アルベラは異母姉カッサンドラと、従姉のミルラに挨拶をする。
 カッサンドラもミルラも、燃えるような緋色の髪に紫紺の瞳をしており、やはりどこか値踏みするような目でアルベラを眺めまわす。

 もともと、異母姉のカッサンドラとも年に数度会う程度だった。
 アルベラは母と王城に暮らし、母の死後も王城を出なかった。父も多くの時間は王城で過ごしていたが、ナキアの一等地に広壮なイフリート家の邸宅を構えていて、異母兄弟たちはみな、そちらに住んでいる。まだしも自由が効いて王城に出入りできる異母兄とはそれなりに交流があったけれど、基本、邸の内から出ることのない父の妻や姉妹、異母姉や従姉たちとはどうしても疎遠であった。もちろん、アルベラがイフリート家の邸宅を訪問することもあるけれど、滞在時間はいつも短く、またアルベラ自身、どこか一線を画した付き合いだったことは否定できない。

 イフリート公爵を父親とする女王は今まで誕生していない。もしかしたら、イフリート家としても、アルベラの待遇には迷うところがあったのかもしれない。

 そんなことを考えながら、姉と数年ぶりの差しさわりのない会話を交わす。
 アルベラの印象では、姉カッサンドラはもっと快活なタイプであったのに、神殿暮らしで落ち着きを得たというよりは、どこか陰鬱に沈んでいるように見えた。

「あなたがここに来るとは、正直言って意外だったわ。そのまま結婚するとばかり思っていたから」
「結婚するまで、イフリート家の娘としてこちらで神殿に奉仕するようにと、お父様が――」
「イフリート家の娘として――ねえ……」

 何か思うところがあるのか、カッサンドラは頷く。

「まあいいわ。ここの神殿はちょっと変わったところがあるけれど、慣れればなんてこともないわ。刺繍をしたり織物をしたり、家での生活とそれほど変わらないのよ」

 王城で刺繍やら織物などはほとんどしたことのない、アルベラは露骨に嫌そうな顔をしてしまう。

「わたし、刺繍は苦手なのですけど……別のことをするわけにはいきませんか?」
「何が得意なのよ」
「……遠乗りとか」
 
 その返事に、カッサンドラもミルラも、そして女神官長も呆れたような溜息をつく。

「良い機会だから、ここで覚えなさいな。刺繍もできないまま嫁に行くなんて、イフリート家の恥をさらすことになるわ」

 神殿でのアルベラの仕事が、決まったようであった。

 その後、アルベラは自分の部屋へと案内され、黒い長衣とベールを渡される。無表情な中年の修道女が、着替えを手伝うためにアルベラの部屋にやってきた。着てきた長衣を脱いで着替える途中、アルベラはその女に尋ねる。

「あなたが、わたしの世話をしてくださるの?」
「……ひとまず着換えのお手伝いはいたしますが、身の回りのこともご自分で出来るように、というのが神殿の教えです。長衣の畳み方などは、後ほどお教えいたします。水汲みのような仕事は、下女がいたしますが、それ以外は掃除も簡単にはご自分でなさってください」

 素っ気ない物言いに、アルベラは反射的に眉を顰めてしまう。王女だからと威張るつもりはないけれど、掃除なんてやったことはない。

(――アデライードも、聖地の修道院ではこんな風に暮らしていたのかしら)

 自分の人生とアデライードの人生は、あの〈聖婚〉を機にまるで逆転したみたいだと、アルベラは思う。自分がその立場に立たされて、ようやく理解する。――自分が、アデライードに強いていたのは何だったのか。

 結婚までの数か月だと父は言うが、夫という名の監視員が変わるだけのことだ。たまたま、アデライードは愛してくれる夫に嫁いだけれど、アルベラは望み薄だ。何とか、逃げ出すことはできないか。そう思ってから、アルベラは唇を噛んだ。――逃げても、行く場所なんてない。

 絶望だけがひしひしと沸き上がってくる。アルベラはいやでも思い知る。

 父にとって、自分は都合のいい駒でしかないのだ。
 アルベラだけが父を信じ、父を愛していたのに。――どうして、もっと早くに悟らなかったのか。

 着せられた黒い長衣とベールに、禍々しいものしか感じられず、アルベラは一人、硬い寝台に腰を下ろして溜息をついた。
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