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12、古き神の名のもとに
女王国震撼
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ウルバヌスは即日、カンダハル奪還の総攻撃を命令し、同時に月神殿の機能を停止する勅書を出す。
「月神殿への渡し場を封鎖し、月神殿への出入りを禁ずる。我々ナキア及び女王国政府は、〈禁苑〉の影響下から離脱する。――以後は、泉神殿をナキア及び女王国の主神として信仰し、〈禁苑〉の教えは奉じない」
ナキアの月神殿はその日、突如としてナキア近郊に残る王城騎士及びイフリート公爵家の直属騎士によって制圧され、月神殿の大神官以下、女神官長らの聖職者は全て月神殿内に拘禁され、巡礼者は月神殿のある島から放逐される。
ナキア周辺は大混乱に陥る。
東西陰陽の調和を司る陰の女王国の事実上のトップが、陰陽の信仰を廃棄すると宣言したのである。
このことは即座に、月神殿の魔法陣を通じて聖地・大陰宮の月神殿に伝えられ、〈禁苑〉三宮の長、太陽宮の大僧正ウル、太陰宮の大神官長ルキニウス、陰陽宮の管長ゼノンの連名によって、イフリート公爵及びイフリート家に対する破門が宣告される。もっとも、ウルバヌスにとって、破門など何の意味もない。ウルバヌスはついで、来たる秋分の日をもって、前々女王アライアの一子アルベラ王女の登極を宣言し、またアリオス侯爵嫡男パウロス公子との婚約を明らかにした。秋分の日に即位と同時に婚約式を行い、三か月後に結婚式を行うと――。
すべてが、アルベラの知らぬ場所で、知らぬうちに進められていく。泉神殿に囚われたアルベラは、父がそのような宣言を行い、〈禁苑〉から破門されたことすら知らされぬままであった。
そしてウルバヌスは全女王国に向けて宣言した。
「神聖なる女王国の国土を侵す、帝国の犬どもを駆逐し、〈禁苑〉の傀儡となって偽りの王権を要求するアデライードを逆賊として断罪せよ! 〈禁苑〉の押し付けた陰陽よりもさらに旧い、古えより西の大地を守り治めてきた、気高き泉神の名において宣言する。女王国の完全なる独立と、再生を!」
女王国は震撼した。
ナキアの、一部の反〈禁苑〉派の貴族・新興階級以外の、〈禁苑〉の教えを奉ずる地方の貴族、神殿、そして民衆は、ナキアの暴挙に茫然とし、また〈聖婚〉が偽りの皇子によって汚されたとするウルバヌスの言葉に騒然となった。
ナキア周辺の〈禁苑〉を奉ずる民の一部は、天と陰陽の怒りを恐れ、ナキアを逃れ、聖地に――つまりその玄関口であるソリスティアに――沈む船から逃げ出す鼠のように、流れ込み始めていた。
イフリート公爵と元老院による、アルベラの即位と婚約の布告を目の当たりにして、テセウスは衝撃を受ける。
アルベラが女王になる。――それはいい。たとえ父の傀儡にすぎないとしても、女王になるのはアルベラの夢ではあった。父親の頸木から逃れられないのは、ある種、子としての定めとも言える。だが――。
アルベラが嫁ぐ。
いつか、その日が来るのは理解していたはずだった。
女王家の姫として、そして健康な貴族女性の義務として、然るべき夫を迎え、子を生す。当然のことだ。
もとより、貴種でない伯爵家の次男坊には、望むことも許されない高嶺の花だった。
十四の歳から仕え続けた王女の護衛官の職を解かれ、二十九歳になって王城の警備隊に編入される。
そのことをいろいろと邪推する者もいた。常に影のようにアルベラに従っていたテセウスと、その主の密かな恋は、ナキア周辺では公然の噂になっていたからだ。だからアルベラの婚約の布告を知り、気の毒そうにテセウスを眺める視線もある。
現実には、テセウスとアルベラの間には何もなかった。テセウスがアルベラの肌に触れたのは、あの、仮面舞踏会のダンスの時だけだ。
そして今、アルベラと引き離されて、テセウスは狂おしいばかりの喪失と飢餓に襲われていた。
アルベラの側にいて、アルベラを守ることができない。
監禁されるように、泉神殿に押し込められてしまったアルベラ。自分の無力さに泣きたくなる。
そしてそのまま、彼女は嫁ぐのだ。彼ではない、他の男の元に。
考えようによれば、あのまま護衛官として側近く仕え続ければ、夫のものになるアルベラを間近に見続けなければならない。テセウスがそれに耐えられるとは思えなかった。
しかしたとえ他の男のものになったアルベラであっても、ただ、日々その姿を目にし、その安全を守ることができるのなら――。
懊悩するテセウスが王城の中を一人歩いていた時、背後から呼び止める声がした。
「テセウス――」
振り向けば、アルベラの異母兄の一人、シメオンが物陰から手招きしていた。
何となく辺りを憚る雰囲気を感じて、テセウスは周囲をさりげなく見回して、誰もいないことを確認して、シメオンの側に近づく。
「シメオン様。どうなさったのですか」
「テセウス、アルベラが――君は、アルベラのことを愛している?」
その問いに、テセウスはギクリとして一瞬、硬直する。その思いは、誰にも悟られてはならぬものだ。
「シメオン様、俺は――護衛官として、姫様を――」
「王女とか、主とか、そういうのではなくて、アルベラを女として愛しているかどうか、聞いているんだ」
「シメオン様――」
そんなことを肯定できるわけがない。テセウスはシメオンの意図がわからず、黒い眉を顰める。
「イフリート家の娘は泉神殿に仕え、他家に嫁がない。これは、我が家のとても忌まわしい習いと関わっている。イフリート家は、泉神の祭司の家系だ。泉神はね、兄妹で契って、互いへの執着のあまり合一してしまった両性具有の神なんだ。イフリート家の娘は、兄妹姉弟で契る義務を負っている」
「な――それは!!」
あまりのことにテセウスの息が止まる。つまり、今、アルベラが泉神殿にいるのは――。
「もともと、僕はアルベラにその役割を負わすことはないと思っていたが、この前の新月の夜、僕の相手を命じられたのが、アルベラだった――」
ほとんど反射的に、テセウスはシメオンに殴りかかっていた。寸前でシメオンが避けて、テセウスに言う。
「何もしてないよ! ほんとだ! 僕だって、彼女をそんな目に合わせたくない!……だから、この前の時は大丈夫だったんだ。でも――次の新月はわからない。相手が、僕じゃないかもしれないから」
「何だってそんな――! 閣下は、アルベラをパウロスに嫁がせると――」
「パウロスはたぶん種無しだろ? 父上はだからパウロスを選んだんだ。イフリート家の男以外の子を、孕まないように」
テセウスの胃が、嫌悪感とも怒りともつかぬ激情で滾り、吐き気が込み上げる。
彼の、ただ一人の神聖なアルベラが――。
「だからテセウス、アルベラを救って欲しい。君にしか頼めない。――期限は、次の新月の夜だ」
テセウスが、黒い瞳をギラギラさせてシメオンに言った。
「わかりました。必ず――今すぐにでも、彼女を救いだします!」
テセウスは宣言すると、シメオンには目もくれずに踵を返し、すぐにも辞表を提出しようと詰所に戻る。しかし、テセウスを待っていたのは、伯爵家の一員としてカンダハル包囲軍に加わるようにとの、元老院からの命令書であった。
王城の警備隊の騎士は、テセウスの自発意志のもとに就いてる職だ。それ故に辞することができる。しかし、元老院からの命令は軍役であり、貴族としての義務だ。家として断ることができないものだった。特に、テセウスの父、セレウコス家の当主は病身で、嫡子である兄が領地を預かっていた。テセウス以外に軍役を果たせる者がいないのだ。
ただでさえ、突然の護衛官解任で、テセウスも、そしてセレウコス家も厳しい目に曝されている。
(試されているのか――あるいは、俺をあくまでもアルベラから引き離すために――)
テセウスが王城の職を辞してアルベラの救出に向かうことを、すでにウルバヌスは読んでいたのかもしれない。
テセウスは唇を噛む。
(時間が――何もかもが足りない。準備も、金も、仲間も――今の俺が迎えに行ったところで、アルベラを守ることもできぬ)
いやそもそも、全てが無謀なのかもしれない。
だが、忌まわしい習いにアルベラがその身を穢されるのを、座して見ていることなどできはしない。
(シリルを――)
テセウスは、ただ一人の信頼できる協力者を思いつく。
(たとえすべてを失っても、俺はアルベラを救い出す!)
テセウスは元老院からの、女王家の紋章の透かし模様の入った命令書を硬く握り締め、心の中で誓った。
「月神殿への渡し場を封鎖し、月神殿への出入りを禁ずる。我々ナキア及び女王国政府は、〈禁苑〉の影響下から離脱する。――以後は、泉神殿をナキア及び女王国の主神として信仰し、〈禁苑〉の教えは奉じない」
ナキアの月神殿はその日、突如としてナキア近郊に残る王城騎士及びイフリート公爵家の直属騎士によって制圧され、月神殿の大神官以下、女神官長らの聖職者は全て月神殿内に拘禁され、巡礼者は月神殿のある島から放逐される。
ナキア周辺は大混乱に陥る。
東西陰陽の調和を司る陰の女王国の事実上のトップが、陰陽の信仰を廃棄すると宣言したのである。
このことは即座に、月神殿の魔法陣を通じて聖地・大陰宮の月神殿に伝えられ、〈禁苑〉三宮の長、太陽宮の大僧正ウル、太陰宮の大神官長ルキニウス、陰陽宮の管長ゼノンの連名によって、イフリート公爵及びイフリート家に対する破門が宣告される。もっとも、ウルバヌスにとって、破門など何の意味もない。ウルバヌスはついで、来たる秋分の日をもって、前々女王アライアの一子アルベラ王女の登極を宣言し、またアリオス侯爵嫡男パウロス公子との婚約を明らかにした。秋分の日に即位と同時に婚約式を行い、三か月後に結婚式を行うと――。
すべてが、アルベラの知らぬ場所で、知らぬうちに進められていく。泉神殿に囚われたアルベラは、父がそのような宣言を行い、〈禁苑〉から破門されたことすら知らされぬままであった。
そしてウルバヌスは全女王国に向けて宣言した。
「神聖なる女王国の国土を侵す、帝国の犬どもを駆逐し、〈禁苑〉の傀儡となって偽りの王権を要求するアデライードを逆賊として断罪せよ! 〈禁苑〉の押し付けた陰陽よりもさらに旧い、古えより西の大地を守り治めてきた、気高き泉神の名において宣言する。女王国の完全なる独立と、再生を!」
女王国は震撼した。
ナキアの、一部の反〈禁苑〉派の貴族・新興階級以外の、〈禁苑〉の教えを奉ずる地方の貴族、神殿、そして民衆は、ナキアの暴挙に茫然とし、また〈聖婚〉が偽りの皇子によって汚されたとするウルバヌスの言葉に騒然となった。
ナキア周辺の〈禁苑〉を奉ずる民の一部は、天と陰陽の怒りを恐れ、ナキアを逃れ、聖地に――つまりその玄関口であるソリスティアに――沈む船から逃げ出す鼠のように、流れ込み始めていた。
イフリート公爵と元老院による、アルベラの即位と婚約の布告を目の当たりにして、テセウスは衝撃を受ける。
アルベラが女王になる。――それはいい。たとえ父の傀儡にすぎないとしても、女王になるのはアルベラの夢ではあった。父親の頸木から逃れられないのは、ある種、子としての定めとも言える。だが――。
アルベラが嫁ぐ。
いつか、その日が来るのは理解していたはずだった。
女王家の姫として、そして健康な貴族女性の義務として、然るべき夫を迎え、子を生す。当然のことだ。
もとより、貴種でない伯爵家の次男坊には、望むことも許されない高嶺の花だった。
十四の歳から仕え続けた王女の護衛官の職を解かれ、二十九歳になって王城の警備隊に編入される。
そのことをいろいろと邪推する者もいた。常に影のようにアルベラに従っていたテセウスと、その主の密かな恋は、ナキア周辺では公然の噂になっていたからだ。だからアルベラの婚約の布告を知り、気の毒そうにテセウスを眺める視線もある。
現実には、テセウスとアルベラの間には何もなかった。テセウスがアルベラの肌に触れたのは、あの、仮面舞踏会のダンスの時だけだ。
そして今、アルベラと引き離されて、テセウスは狂おしいばかりの喪失と飢餓に襲われていた。
アルベラの側にいて、アルベラを守ることができない。
監禁されるように、泉神殿に押し込められてしまったアルベラ。自分の無力さに泣きたくなる。
そしてそのまま、彼女は嫁ぐのだ。彼ではない、他の男の元に。
考えようによれば、あのまま護衛官として側近く仕え続ければ、夫のものになるアルベラを間近に見続けなければならない。テセウスがそれに耐えられるとは思えなかった。
しかしたとえ他の男のものになったアルベラであっても、ただ、日々その姿を目にし、その安全を守ることができるのなら――。
懊悩するテセウスが王城の中を一人歩いていた時、背後から呼び止める声がした。
「テセウス――」
振り向けば、アルベラの異母兄の一人、シメオンが物陰から手招きしていた。
何となく辺りを憚る雰囲気を感じて、テセウスは周囲をさりげなく見回して、誰もいないことを確認して、シメオンの側に近づく。
「シメオン様。どうなさったのですか」
「テセウス、アルベラが――君は、アルベラのことを愛している?」
その問いに、テセウスはギクリとして一瞬、硬直する。その思いは、誰にも悟られてはならぬものだ。
「シメオン様、俺は――護衛官として、姫様を――」
「王女とか、主とか、そういうのではなくて、アルベラを女として愛しているかどうか、聞いているんだ」
「シメオン様――」
そんなことを肯定できるわけがない。テセウスはシメオンの意図がわからず、黒い眉を顰める。
「イフリート家の娘は泉神殿に仕え、他家に嫁がない。これは、我が家のとても忌まわしい習いと関わっている。イフリート家は、泉神の祭司の家系だ。泉神はね、兄妹で契って、互いへの執着のあまり合一してしまった両性具有の神なんだ。イフリート家の娘は、兄妹姉弟で契る義務を負っている」
「な――それは!!」
あまりのことにテセウスの息が止まる。つまり、今、アルベラが泉神殿にいるのは――。
「もともと、僕はアルベラにその役割を負わすことはないと思っていたが、この前の新月の夜、僕の相手を命じられたのが、アルベラだった――」
ほとんど反射的に、テセウスはシメオンに殴りかかっていた。寸前でシメオンが避けて、テセウスに言う。
「何もしてないよ! ほんとだ! 僕だって、彼女をそんな目に合わせたくない!……だから、この前の時は大丈夫だったんだ。でも――次の新月はわからない。相手が、僕じゃないかもしれないから」
「何だってそんな――! 閣下は、アルベラをパウロスに嫁がせると――」
「パウロスはたぶん種無しだろ? 父上はだからパウロスを選んだんだ。イフリート家の男以外の子を、孕まないように」
テセウスの胃が、嫌悪感とも怒りともつかぬ激情で滾り、吐き気が込み上げる。
彼の、ただ一人の神聖なアルベラが――。
「だからテセウス、アルベラを救って欲しい。君にしか頼めない。――期限は、次の新月の夜だ」
テセウスが、黒い瞳をギラギラさせてシメオンに言った。
「わかりました。必ず――今すぐにでも、彼女を救いだします!」
テセウスは宣言すると、シメオンには目もくれずに踵を返し、すぐにも辞表を提出しようと詰所に戻る。しかし、テセウスを待っていたのは、伯爵家の一員としてカンダハル包囲軍に加わるようにとの、元老院からの命令書であった。
王城の警備隊の騎士は、テセウスの自発意志のもとに就いてる職だ。それ故に辞することができる。しかし、元老院からの命令は軍役であり、貴族としての義務だ。家として断ることができないものだった。特に、テセウスの父、セレウコス家の当主は病身で、嫡子である兄が領地を預かっていた。テセウス以外に軍役を果たせる者がいないのだ。
ただでさえ、突然の護衛官解任で、テセウスも、そしてセレウコス家も厳しい目に曝されている。
(試されているのか――あるいは、俺をあくまでもアルベラから引き離すために――)
テセウスが王城の職を辞してアルベラの救出に向かうことを、すでにウルバヌスは読んでいたのかもしれない。
テセウスは唇を噛む。
(時間が――何もかもが足りない。準備も、金も、仲間も――今の俺が迎えに行ったところで、アルベラを守ることもできぬ)
いやそもそも、全てが無謀なのかもしれない。
だが、忌まわしい習いにアルベラがその身を穢されるのを、座して見ていることなどできはしない。
(シリルを――)
テセウスは、ただ一人の信頼できる協力者を思いつく。
(たとえすべてを失っても、俺はアルベラを救い出す!)
テセウスは元老院からの、女王家の紋章の透かし模様の入った命令書を硬く握り締め、心の中で誓った。
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