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13、世界樹
神殿の泉
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五日目の朝に二人は繭を出た。アデライードが繭を消していくのを、シウリンはぼんやり眺めながら、大理石の柱の間を吹き抜ける、渇いた風を吸い込む。頭上には、夏の青空がどこまでも広がっていた。
「――ここが、ええっと、西南辺境の、へパルトス?」
シウリンは太古の神殿の跡地らしい場所から、崖の下に広がる風景を見回している。アデライードは頷いた。
「イスマニヨーラ伯父様――マニ僧都様の魔力追跡によれば、そうです」
かつて、イフリート家が守る泉神殿があった場所。よりにもよってそんな場所に転移してしまうなんて、偶然にしても何という巡り合わせかとアデライードは思ったが、記憶を失っているシウリンは、何の感慨も抱かないらしい。
「ここから、ソリスティアまで歩くとどのくらいかかるのかな?」
「……さあ。ホーヘルミアの月神殿まで行けば、転移門がありますから……」
「転移門! そんなの、僕みたいな見習い僧侶は使わせてもらえないよ?」
「……一応、あなたは今、ソリスティア総督なんですけど……」
すっかり皇子としての自覚も知識も吹っ飛んでしまっているシウリンは、ソリスティアまで全行程を歩いて帰るつもりでいるようなのだ。アデライードにも、ここからの距離とかかる日数など、見当もつかない。
「冬至の前には結界を張り直したいのです」
「結界?」
アデライードが白大理石の列柱に触れながら言った。天井が崩れ、虚しく天を突きあげている柱は、シウリンの長い腕でも抱えられないくらいの太さだ。
「始祖女王ディアーヌが、女王国を魔物から守るために張っていた結界が、夏至の日に綻びてしまいました。東西どちらの皇王も不在で、陰陽の和が崩れたので。今、西にも東にもちゃんとした君主がいない状態です。これが冬至の夜まで続くともしかしたら――」
「もっと、ひどいことになるって言うの?」
シウリンもまたアデライードの後について、列柱の間を歩いていく。
「わたしの魔力はあなたの魔力と繋がることで、ようやく制御できる。わたし一人の力では、結界を張り直すのは無理なんです」
「でも、僕は今、何もできないよ。全部忘れてしまったから」
アデライードは神殿の跡地から眼下に広がる風景を見下ろす。見渡す限りに草原と森が点在し、人の気配が微塵も感じられなかった。当然、道も通ってはいない。
「そうなんですよね……わたしが……ドジばっかりしたから……」
何もかも、自分が悪いのだ。俯いて溜息をつくアデライードを見て、シウリンは困ったように眉尻を下げている。アデライードは、気を取り直したように微笑みかけた。
「ああそうだ、殿下……じゃなくてシウリン、下に、泉があるの。降りて食事にしましょう」
繭に籠っている数日は、アデライードが一人で、泉まで往復していたのだった。くさくさしてもしょうがない。あの、泉の端でご飯を食べて、後のことはそれから考えよう。風呂敷にパンや干した果物、チーズなどを包み、連れ立って大理石の階段を降りていく。アデライードは革のサンダル履きで、シウリンは長靴は暑いので、裸足だった。途中、アデライードが崩れた階段で足を踏み外し、よろめく。
「危ない!」
シウリンがすかさずその細い腰を抱き込んで、その身体を支えてくれた。
「……ありがとう」
「そそっかしいね、気を付けて――ああもう、僕に捕まって」
シウリンはごく自然に、アデライードの腰に手を回して支えながら階段を降りた。こういうところは、記憶を失う前と変わらない。細身だけれど見かけよりもしっかりした身体は、いつもアデライードを護ってくれる。――目が覚めてからは、あまりアデライードに触れてくれないシウリンに、アデライードは少し傷ついていた。照れているというより、何か怯えているようだった。
「ここも……神殿の跡地?」
階段を降りきり、シウリンと二人、泉の周囲の石組みに腰を下ろす。
「たぶん。……へパルトスには大きな泉神殿があったはずだから、きっと、その跡地です」
「どうしてさびれてしまったのかな」
シウリンがポツリと言うのに、アデライードは風呂敷を開いて、食べ物を並べながら答えた。
「泉神殿の祭司をしていたイフリート家が、ナキアに領地を得て移ったからです。今は、ナキアの街の外れに大きな泉神殿があります」
「イフリート家……」
彼ら二人が結婚するに至る、女王家とイフリート家の因縁については、アデライードから掻い摘んで説明してはいたが、シウリンはよく理解できないようだった。どこからか二人の様子を見ていたらしい、黒い鷹がひらりと舞い降り、餌をねだる。繭の中には入らなかったので、シウリンは鷹をびっくりして見ている。
「殿下の……シウリンが飼っている鷹の、エールライヒです。彼の餌もあるの」
アデライードが小袋に入った肉を取り出して、シウリンに渡す。シウリンがこわごわ差し出す肉を、鷹は彼の手を傷つけることなく、器用に食べた。
「利口な鷹だね」
「ええ、とっても」
エールライヒは満腹すると、再び森の方に飛んで行く。その飛翔を見送って、二人も食事を取る。胡桃と干し葡萄が入ったパンと、こってりと濃厚な山羊乳のチーズ。
「たしかに、綺麗な水だね」
そう言って、シウリンは泉に直接口をつけてごくごくと水を飲んだ。彼の喉ほとけが大きく動き、彼の身体は大人の男性のものだとアデライードに教える。泉に口をつけて飲む、野生の獣のような仕草が妙に艶めかしく、アデライードはドギマギした。
赤くなった顔を誤魔化そうと、アデライードも真似して泉に直接口を付けようとしたが、バランスを崩して頭から水の中に突っ込んでしまう。
「うわああああっ! ドジすぎるよ、アデライード!」
予想もしない失敗に茫然とするアデライードを、シウリンは力強い腕で泉の中から抱き起した。顔も髪もびっしょりだが、長衣の胸のあたりが水に濡れて、ピッタリと肌に張り付いている。見下ろすと、薄い絹の布地が透けて胸の形が露わになっていた。シウリンが息を飲む。
「……何それ、どうしたの!」
「どうって、濡らしてしまって……」
「服のことじゃなくて……その、……何でそんなに腫れてるの!」
アデライードは翡翠色の瞳を見開いてシウリンを見、それから自分の、薄い布地に透ける二つのふくらみを見下ろす。小さな乳首の形まで、はっきりとわかってしまう。
さすがに恥ずかしくて咄嗟にそれを両腕で隠して、火照る顔を俯けがちにして、上目遣いにシウリンを窺う。彼は驚愕の表情で、だがその目は胸に釘付けだった。
腫れてる……?
アデライードははっとして、シウリンの顔を改めて見る。
「もしかして、胸のことも忘れちゃったの?」
「む、胸ぇ? それは瘤じゃなくて、胸なの? 僕にはそんなものないけど!」
「当たり前です!」
瘤だなんて言われ、アデライードのなけなしのプライドが傷ついて、アデライードはつい、胸を彼の方に誇らしげに突き出して、言った。
「殿下はわたしの胸が大好きだって仰ってたのに!好きすぎて、生まれ変わったら小人になって、この谷間で暮らしたいとまで、おっしゃってたのに!」
「な、な、な、なにそれ! ぼ、ぼ、僕がそんなことを?」
胸を誇示するようにシウリンに向け、何となく腰が引け気味になるシウリンに抱き着けば、シウリンは動転して身を捩り、揉みあううちにバランスを失って、二人とも泉の中に落ちてしまった。
バシャン!
二人して泉の中で座り込み、茫然と見つめ合う。二人とも頭からずぶ濡れだった。シウリンが、不意に笑い出した。
「ぶぶっ、ぷはははははは! 小人になりたいって、その人頭おかしいよ!」
「殿下が仰ったんですってば! しみじみと、〈ここに住みたい〉って! 確かに、時々変なこと仰ったわ、うふふふふふふふ!」
その言葉を聞いた時は、たぶんそれどころじゃない状態だったから聞き流したけれど、よく考えればずいぶんとおかしなことを言っている。――普段は、冷静で酷薄そうな雰囲気さえあるのに、アデライードにだけは、ちぎれんばかりに尻尾を振った犬みたいだった。ある意味、今の十二歳のシウリンとあまり変わっていない。
どちらからともなく笑い出し、そのまま笑い過ぎて水の中に倒れ込みそうになるアデライードをシウリンが慌てて抱きとめ、結局アデライードはシウリンに抱き着いて、二人、水の中で抱き合って笑い転げる。
「あははは、あはははははは!」
「うふふふふふ、あはははははははは!」
ふいに、どちらからともなく笑うのをやめ、水の中で無言で抱き合い、冷たい水と互いの体温を感じる。布地ごしに伝わる、互いの肌の感触。心臓の音、呼吸音。
「でん……じゃなくて、シウリン?」
「なに、アデライード……」
目が覚めてから、この人はまだ一度も、自分を求めてくれない。いきなり記憶を失って、戸惑っているんだと、アデライードは何とはなしに拒絶されるのも仕方ないと、堪えてきた。でも――それでも。
「シウリン?……お願いがあるの」
「お願い……?」
シウリンの黒曜石の瞳と、アデライードの翡翠色の瞳が交わる。
「……キス、して……」
囁くように、勇気を奮って告げた言葉に、シウリンが黒い瞳を見開いた。
暫しの躊躇の後に、シウリンはアデライードの両の頬を両手で包むと、唇ではなく、アデライードの額に彼の唇の柔らかい感触が降りた。
《シウリンは大きいのに、キスも知らないの?……ほら、こうするのよ》
アデライードの脳裏に、あの日の、常盤木の下の会話が甦る。
あの時、アデライードは彼の額に口づけた。キスとは、そういうものだと思っていたから――。
アデライードの全身に、電撃が走った。
シウリン――!
目の前にいるのは、シウリンなのだ。紛れもなく、あの日の記憶を持った、この世でただ一人の、シウリン。アデライードが、ずっと想い続けた人。声も人生も何もかも、ただあの思い出だけに捧げようと決めていた人――。
死んだと告げられていた彼が、目の前にいる。
自分は、裏切っていたわけではなかった。彼だと知らなくても、彼ではないと知りながら、アデライードはいつしかこの人を愛していた。
それは全て、この人こそがシウリンだったから――。
アデライードの中で何かが堰を切ったように溢れ出し、シウリンの肩に縋りついて大声を上げて泣いていた。
「――ここが、ええっと、西南辺境の、へパルトス?」
シウリンは太古の神殿の跡地らしい場所から、崖の下に広がる風景を見回している。アデライードは頷いた。
「イスマニヨーラ伯父様――マニ僧都様の魔力追跡によれば、そうです」
かつて、イフリート家が守る泉神殿があった場所。よりにもよってそんな場所に転移してしまうなんて、偶然にしても何という巡り合わせかとアデライードは思ったが、記憶を失っているシウリンは、何の感慨も抱かないらしい。
「ここから、ソリスティアまで歩くとどのくらいかかるのかな?」
「……さあ。ホーヘルミアの月神殿まで行けば、転移門がありますから……」
「転移門! そんなの、僕みたいな見習い僧侶は使わせてもらえないよ?」
「……一応、あなたは今、ソリスティア総督なんですけど……」
すっかり皇子としての自覚も知識も吹っ飛んでしまっているシウリンは、ソリスティアまで全行程を歩いて帰るつもりでいるようなのだ。アデライードにも、ここからの距離とかかる日数など、見当もつかない。
「冬至の前には結界を張り直したいのです」
「結界?」
アデライードが白大理石の列柱に触れながら言った。天井が崩れ、虚しく天を突きあげている柱は、シウリンの長い腕でも抱えられないくらいの太さだ。
「始祖女王ディアーヌが、女王国を魔物から守るために張っていた結界が、夏至の日に綻びてしまいました。東西どちらの皇王も不在で、陰陽の和が崩れたので。今、西にも東にもちゃんとした君主がいない状態です。これが冬至の夜まで続くともしかしたら――」
「もっと、ひどいことになるって言うの?」
シウリンもまたアデライードの後について、列柱の間を歩いていく。
「わたしの魔力はあなたの魔力と繋がることで、ようやく制御できる。わたし一人の力では、結界を張り直すのは無理なんです」
「でも、僕は今、何もできないよ。全部忘れてしまったから」
アデライードは神殿の跡地から眼下に広がる風景を見下ろす。見渡す限りに草原と森が点在し、人の気配が微塵も感じられなかった。当然、道も通ってはいない。
「そうなんですよね……わたしが……ドジばっかりしたから……」
何もかも、自分が悪いのだ。俯いて溜息をつくアデライードを見て、シウリンは困ったように眉尻を下げている。アデライードは、気を取り直したように微笑みかけた。
「ああそうだ、殿下……じゃなくてシウリン、下に、泉があるの。降りて食事にしましょう」
繭に籠っている数日は、アデライードが一人で、泉まで往復していたのだった。くさくさしてもしょうがない。あの、泉の端でご飯を食べて、後のことはそれから考えよう。風呂敷にパンや干した果物、チーズなどを包み、連れ立って大理石の階段を降りていく。アデライードは革のサンダル履きで、シウリンは長靴は暑いので、裸足だった。途中、アデライードが崩れた階段で足を踏み外し、よろめく。
「危ない!」
シウリンがすかさずその細い腰を抱き込んで、その身体を支えてくれた。
「……ありがとう」
「そそっかしいね、気を付けて――ああもう、僕に捕まって」
シウリンはごく自然に、アデライードの腰に手を回して支えながら階段を降りた。こういうところは、記憶を失う前と変わらない。細身だけれど見かけよりもしっかりした身体は、いつもアデライードを護ってくれる。――目が覚めてからは、あまりアデライードに触れてくれないシウリンに、アデライードは少し傷ついていた。照れているというより、何か怯えているようだった。
「ここも……神殿の跡地?」
階段を降りきり、シウリンと二人、泉の周囲の石組みに腰を下ろす。
「たぶん。……へパルトスには大きな泉神殿があったはずだから、きっと、その跡地です」
「どうしてさびれてしまったのかな」
シウリンがポツリと言うのに、アデライードは風呂敷を開いて、食べ物を並べながら答えた。
「泉神殿の祭司をしていたイフリート家が、ナキアに領地を得て移ったからです。今は、ナキアの街の外れに大きな泉神殿があります」
「イフリート家……」
彼ら二人が結婚するに至る、女王家とイフリート家の因縁については、アデライードから掻い摘んで説明してはいたが、シウリンはよく理解できないようだった。どこからか二人の様子を見ていたらしい、黒い鷹がひらりと舞い降り、餌をねだる。繭の中には入らなかったので、シウリンは鷹をびっくりして見ている。
「殿下の……シウリンが飼っている鷹の、エールライヒです。彼の餌もあるの」
アデライードが小袋に入った肉を取り出して、シウリンに渡す。シウリンがこわごわ差し出す肉を、鷹は彼の手を傷つけることなく、器用に食べた。
「利口な鷹だね」
「ええ、とっても」
エールライヒは満腹すると、再び森の方に飛んで行く。その飛翔を見送って、二人も食事を取る。胡桃と干し葡萄が入ったパンと、こってりと濃厚な山羊乳のチーズ。
「たしかに、綺麗な水だね」
そう言って、シウリンは泉に直接口をつけてごくごくと水を飲んだ。彼の喉ほとけが大きく動き、彼の身体は大人の男性のものだとアデライードに教える。泉に口をつけて飲む、野生の獣のような仕草が妙に艶めかしく、アデライードはドギマギした。
赤くなった顔を誤魔化そうと、アデライードも真似して泉に直接口を付けようとしたが、バランスを崩して頭から水の中に突っ込んでしまう。
「うわああああっ! ドジすぎるよ、アデライード!」
予想もしない失敗に茫然とするアデライードを、シウリンは力強い腕で泉の中から抱き起した。顔も髪もびっしょりだが、長衣の胸のあたりが水に濡れて、ピッタリと肌に張り付いている。見下ろすと、薄い絹の布地が透けて胸の形が露わになっていた。シウリンが息を飲む。
「……何それ、どうしたの!」
「どうって、濡らしてしまって……」
「服のことじゃなくて……その、……何でそんなに腫れてるの!」
アデライードは翡翠色の瞳を見開いてシウリンを見、それから自分の、薄い布地に透ける二つのふくらみを見下ろす。小さな乳首の形まで、はっきりとわかってしまう。
さすがに恥ずかしくて咄嗟にそれを両腕で隠して、火照る顔を俯けがちにして、上目遣いにシウリンを窺う。彼は驚愕の表情で、だがその目は胸に釘付けだった。
腫れてる……?
アデライードははっとして、シウリンの顔を改めて見る。
「もしかして、胸のことも忘れちゃったの?」
「む、胸ぇ? それは瘤じゃなくて、胸なの? 僕にはそんなものないけど!」
「当たり前です!」
瘤だなんて言われ、アデライードのなけなしのプライドが傷ついて、アデライードはつい、胸を彼の方に誇らしげに突き出して、言った。
「殿下はわたしの胸が大好きだって仰ってたのに!好きすぎて、生まれ変わったら小人になって、この谷間で暮らしたいとまで、おっしゃってたのに!」
「な、な、な、なにそれ! ぼ、ぼ、僕がそんなことを?」
胸を誇示するようにシウリンに向け、何となく腰が引け気味になるシウリンに抱き着けば、シウリンは動転して身を捩り、揉みあううちにバランスを失って、二人とも泉の中に落ちてしまった。
バシャン!
二人して泉の中で座り込み、茫然と見つめ合う。二人とも頭からずぶ濡れだった。シウリンが、不意に笑い出した。
「ぶぶっ、ぷはははははは! 小人になりたいって、その人頭おかしいよ!」
「殿下が仰ったんですってば! しみじみと、〈ここに住みたい〉って! 確かに、時々変なこと仰ったわ、うふふふふふふふ!」
その言葉を聞いた時は、たぶんそれどころじゃない状態だったから聞き流したけれど、よく考えればずいぶんとおかしなことを言っている。――普段は、冷静で酷薄そうな雰囲気さえあるのに、アデライードにだけは、ちぎれんばかりに尻尾を振った犬みたいだった。ある意味、今の十二歳のシウリンとあまり変わっていない。
どちらからともなく笑い出し、そのまま笑い過ぎて水の中に倒れ込みそうになるアデライードをシウリンが慌てて抱きとめ、結局アデライードはシウリンに抱き着いて、二人、水の中で抱き合って笑い転げる。
「あははは、あはははははは!」
「うふふふふふ、あはははははははは!」
ふいに、どちらからともなく笑うのをやめ、水の中で無言で抱き合い、冷たい水と互いの体温を感じる。布地ごしに伝わる、互いの肌の感触。心臓の音、呼吸音。
「でん……じゃなくて、シウリン?」
「なに、アデライード……」
目が覚めてから、この人はまだ一度も、自分を求めてくれない。いきなり記憶を失って、戸惑っているんだと、アデライードは何とはなしに拒絶されるのも仕方ないと、堪えてきた。でも――それでも。
「シウリン?……お願いがあるの」
「お願い……?」
シウリンの黒曜石の瞳と、アデライードの翡翠色の瞳が交わる。
「……キス、して……」
囁くように、勇気を奮って告げた言葉に、シウリンが黒い瞳を見開いた。
暫しの躊躇の後に、シウリンはアデライードの両の頬を両手で包むと、唇ではなく、アデライードの額に彼の唇の柔らかい感触が降りた。
《シウリンは大きいのに、キスも知らないの?……ほら、こうするのよ》
アデライードの脳裏に、あの日の、常盤木の下の会話が甦る。
あの時、アデライードは彼の額に口づけた。キスとは、そういうものだと思っていたから――。
アデライードの全身に、電撃が走った。
シウリン――!
目の前にいるのは、シウリンなのだ。紛れもなく、あの日の記憶を持った、この世でただ一人の、シウリン。アデライードが、ずっと想い続けた人。声も人生も何もかも、ただあの思い出だけに捧げようと決めていた人――。
死んだと告げられていた彼が、目の前にいる。
自分は、裏切っていたわけではなかった。彼だと知らなくても、彼ではないと知りながら、アデライードはいつしかこの人を愛していた。
それは全て、この人こそがシウリンだったから――。
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