88 / 170
10、女狐来襲
木っ端役人の意地
しおりを挟む
「サウラ様、殿下はただ今、その……ご正室であらせられるアデライード姫様のご実家、レイノークス辺境伯領へのご旅行に同行されていて、ソリスティアにはおいでになりません」
「なんと!ご正室のお里帰りに畏れ多くも殿下が直々に付き合わされるなんて、なんてお気の毒な。いかな〈聖婚〉の王女とはいえ、あまりにもお考えが足りないのではないの?」
「殿下がぜひにとのことで、また、レイノークス辺境伯閣下は殿下のご友人でもあらせられますので……」
「郷に入っては郷に従えとは申しても、あまりに殿下がおいたわしい。本来ならば、かような辺境でお暮しになられる方ではないのに……」
わざとらしく絹の手巾で目頭を拭うサウラの仕草にも、エンロンはむかむかした。帝都から見ればソリスティアは西の辺境だが、聖地の対岸、大陸の臍と言われる大陸でも最大クラスの交易都市だ。世間知らずの貴族女に馬鹿にされるような街じゃない。
エンロンの目から見ても、恭親王はエンロンと同様、ソリスティアの暮らしを満喫している。帝都よりもソリスティアの水が肌に合うのだ。そしてこの典型的な貴族女を、絶対に追い返せと言い置いていた主の命令を、エンロンは心から納得した。彼自身、一刻も早くこの貴族女を総督府から追い出したくて堪らなかった。
「しかし、お留守ということなら致し方ありませぬ。殿下がご帰還になるまで、部屋に控えさせていただきますわ」
「ですが……」
もともと気の弱い性格で、貴族社会の柵にどっぷりつかっているゲルは、皇后のお気に入りでしかも主の子を孕んでいるサウラを追い出す勇気がない。もともと妻が子を産んだばかりのゲルは、妊婦に同情的である。これは、このままなし崩しに入り込まれるな、と判断したエンロンは、話に割り込むように口を出した。
「なりませぬ。総督閣下である恭親王殿下より直々に、サウラ殿を中に入れるなとのご命令を承っております。ここは、事前に準備しております邸宅にお移りいただきますように」
断固として言い張るエンロンに対し、サウラは少しばかり品を作ってゲルに言う。
「でも、仮にも側室であったわたくしを、市井の屋敷などに押し込むなんて、皇后陛下のお耳に入ったらなんて思し召しになられるか……ねえ、傅役どの」
皇后、と言われてゲルが青くなる。
「恭親王府の総責任者は傅役どのでしょう?その責任を後で問われてもよろしいの?」
「それは……」
エンロンは皇后の威を借るサウラに対し、ついに伝家の宝刀を抜いた。
「総督不在の折りの、総督府の全権は拙官、副総督に委任されております。副総督は皇帝陛下よりの勅任官、後宮の勢を理由に、皇帝陛下の官を凌ぐことは国法によって固く戒められております。以後、拙官に対して皇后陛下の御名を出すことは、皇帝陛下に対する不敬とみなします。拙官には皇帝陛下に直接、吏民を告発する権限が与えられておりますが、サウラ様も当然、その対象となり得ます。それをお心に御留め置きくださいますように」
「エンロン殿……それは……」
ゲルはエンロンの強硬な態度に驚いた。たかが皇后の威を振りかざす親王の側室のわがままを、皇帝勅任官への侮辱とみなし告発も辞さない構えに、ゲルはエンロンが一歩も引くつもりがないのだと悟る。普段、長いものには巻かれるタイプのエンロンが、なぜ、ここまでサウラを拒絶するのだろうか。
サウラはサウラで、これまで皇后の名をチラつかせれば世の中のことは大概何とでもなったのに、この目の前の木っ端役人は皇帝を持ち出して彼女を拒否しようとする。サウラは今までと勝手の違う相手に戸惑う。
「しかし、わたくしは皇后陛下の御意を受けて……」
「あなたが皇后陛下の御意を受けておられるならば、私は皇帝陛下の命を奉じてソリスティアを預かっている。皇后陛下に告げ口したいなら、すればよろしい。たとえそれが皇帝陛下のお耳に届いたとしても、鼻で笑われておしまいでしょうな。私は何より皇帝陛下の官吏であり、その皇子にしてソリスティア総督である恭親王殿下の侍従文官だ。それ以外の方の命令に従う義務はござらん」
エンロンの黒い瞳にありありと浮かぶ、蔑むような視線に、サウラはカッとなった。
「……わ、わたくしを追い払って、もし万一、御子に何かあったら何とされるとおつもりなのです。その責任をすべて負われる覚悟はございますの?」
「覚悟? 皇帝陛下の官吏としてソリスティアの内政を預かってきた拙官に覚悟を問われるか? たとえトカゲの尻尾よろしく切られる身であっても、官吏としての筋を通すのが木っ端役人の意地と申すもの。だいたい、ご命令に従って何かあったときの責任と、ご命令に背いて何かあった時の責任、どちらの罪が重いと思われますか? 子供でもわかることです。伊達に二十年も木っ端役人をやっておりませんのでね。お役所主義を舐めないでいただきたい。……仕事も押して迷惑なのですよ。つべこべ言わずに屋敷にお移りいただきたいのですが」
その気になれば恭親王の命令など、屁理屈を捏ねてあっさりと反故にするようなエンロンが、皇帝の名まで出してサウラの排除にかかっているのである。こうなるともう、いかにゲルに縋ってもどうにもならない。
「殿下がお戻りになられましたら、すぐにご面会を設定いたしますので、どうかここは今しばらく、城下の邸宅にてご静養いただくのが得策かと存じます」
温厚なゲルは強硬なエンロンに逆らうことができず、深く頭を下げてサウラを城下に準備した屋敷に送り届けたのであった。
「なんと!ご正室のお里帰りに畏れ多くも殿下が直々に付き合わされるなんて、なんてお気の毒な。いかな〈聖婚〉の王女とはいえ、あまりにもお考えが足りないのではないの?」
「殿下がぜひにとのことで、また、レイノークス辺境伯閣下は殿下のご友人でもあらせられますので……」
「郷に入っては郷に従えとは申しても、あまりに殿下がおいたわしい。本来ならば、かような辺境でお暮しになられる方ではないのに……」
わざとらしく絹の手巾で目頭を拭うサウラの仕草にも、エンロンはむかむかした。帝都から見ればソリスティアは西の辺境だが、聖地の対岸、大陸の臍と言われる大陸でも最大クラスの交易都市だ。世間知らずの貴族女に馬鹿にされるような街じゃない。
エンロンの目から見ても、恭親王はエンロンと同様、ソリスティアの暮らしを満喫している。帝都よりもソリスティアの水が肌に合うのだ。そしてこの典型的な貴族女を、絶対に追い返せと言い置いていた主の命令を、エンロンは心から納得した。彼自身、一刻も早くこの貴族女を総督府から追い出したくて堪らなかった。
「しかし、お留守ということなら致し方ありませぬ。殿下がご帰還になるまで、部屋に控えさせていただきますわ」
「ですが……」
もともと気の弱い性格で、貴族社会の柵にどっぷりつかっているゲルは、皇后のお気に入りでしかも主の子を孕んでいるサウラを追い出す勇気がない。もともと妻が子を産んだばかりのゲルは、妊婦に同情的である。これは、このままなし崩しに入り込まれるな、と判断したエンロンは、話に割り込むように口を出した。
「なりませぬ。総督閣下である恭親王殿下より直々に、サウラ殿を中に入れるなとのご命令を承っております。ここは、事前に準備しております邸宅にお移りいただきますように」
断固として言い張るエンロンに対し、サウラは少しばかり品を作ってゲルに言う。
「でも、仮にも側室であったわたくしを、市井の屋敷などに押し込むなんて、皇后陛下のお耳に入ったらなんて思し召しになられるか……ねえ、傅役どの」
皇后、と言われてゲルが青くなる。
「恭親王府の総責任者は傅役どのでしょう?その責任を後で問われてもよろしいの?」
「それは……」
エンロンは皇后の威を借るサウラに対し、ついに伝家の宝刀を抜いた。
「総督不在の折りの、総督府の全権は拙官、副総督に委任されております。副総督は皇帝陛下よりの勅任官、後宮の勢を理由に、皇帝陛下の官を凌ぐことは国法によって固く戒められております。以後、拙官に対して皇后陛下の御名を出すことは、皇帝陛下に対する不敬とみなします。拙官には皇帝陛下に直接、吏民を告発する権限が与えられておりますが、サウラ様も当然、その対象となり得ます。それをお心に御留め置きくださいますように」
「エンロン殿……それは……」
ゲルはエンロンの強硬な態度に驚いた。たかが皇后の威を振りかざす親王の側室のわがままを、皇帝勅任官への侮辱とみなし告発も辞さない構えに、ゲルはエンロンが一歩も引くつもりがないのだと悟る。普段、長いものには巻かれるタイプのエンロンが、なぜ、ここまでサウラを拒絶するのだろうか。
サウラはサウラで、これまで皇后の名をチラつかせれば世の中のことは大概何とでもなったのに、この目の前の木っ端役人は皇帝を持ち出して彼女を拒否しようとする。サウラは今までと勝手の違う相手に戸惑う。
「しかし、わたくしは皇后陛下の御意を受けて……」
「あなたが皇后陛下の御意を受けておられるならば、私は皇帝陛下の命を奉じてソリスティアを預かっている。皇后陛下に告げ口したいなら、すればよろしい。たとえそれが皇帝陛下のお耳に届いたとしても、鼻で笑われておしまいでしょうな。私は何より皇帝陛下の官吏であり、その皇子にしてソリスティア総督である恭親王殿下の侍従文官だ。それ以外の方の命令に従う義務はござらん」
エンロンの黒い瞳にありありと浮かぶ、蔑むような視線に、サウラはカッとなった。
「……わ、わたくしを追い払って、もし万一、御子に何かあったら何とされるとおつもりなのです。その責任をすべて負われる覚悟はございますの?」
「覚悟? 皇帝陛下の官吏としてソリスティアの内政を預かってきた拙官に覚悟を問われるか? たとえトカゲの尻尾よろしく切られる身であっても、官吏としての筋を通すのが木っ端役人の意地と申すもの。だいたい、ご命令に従って何かあったときの責任と、ご命令に背いて何かあった時の責任、どちらの罪が重いと思われますか? 子供でもわかることです。伊達に二十年も木っ端役人をやっておりませんのでね。お役所主義を舐めないでいただきたい。……仕事も押して迷惑なのですよ。つべこべ言わずに屋敷にお移りいただきたいのですが」
その気になれば恭親王の命令など、屁理屈を捏ねてあっさりと反故にするようなエンロンが、皇帝の名まで出してサウラの排除にかかっているのである。こうなるともう、いかにゲルに縋ってもどうにもならない。
「殿下がお戻りになられましたら、すぐにご面会を設定いたしますので、どうかここは今しばらく、城下の邸宅にてご静養いただくのが得策かと存じます」
温厚なゲルは強硬なエンロンに逆らうことができず、深く頭を下げてサウラを城下に準備した屋敷に送り届けたのであった。
23
あなたにおすすめの小説
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
借金まみれで高級娼館で働くことになった子爵令嬢、密かに好きだった幼馴染に買われる
しおの
恋愛
乙女ゲームの世界に転生した主人公。しかしゲームにはほぼ登場しないモブだった。
いつの間にか父がこさえた借金を返すため、高級娼館で働くことに……
しかしそこに現れたのは幼馴染で……?
兄様達の愛が止まりません!
桜
恋愛
五歳の時、私と兄は父の兄である叔父に助けられた。
そう、私達の両親がニ歳の時事故で亡くなった途端、親類に屋敷を乗っ取られて、離れに閉じ込められた。
屋敷に勤めてくれていた者達はほぼ全員解雇され、一部残された者が密かに私達を庇ってくれていたのだ。
やがて、領内や屋敷周辺に魔物や魔獣被害が出だし、私と兄、そして唯一の保護をしてくれた侍女のみとなり、死の危険性があると心配した者が叔父に助けを求めてくれた。
無事に保護された私達は、叔父が全力で守るからと連れ出し、養子にしてくれたのだ。
叔父の家には二人の兄がいた。
そこで、私は思い出したんだ。双子の兄が時折話していた不思議な話と、何故か自分に映像に流れて来た不思議な世界を、そして、私は…
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
男として王宮に仕えていた私、正体がバレた瞬間、冷酷宰相が豹変して溺愛してきました
春夜夢
恋愛
貧乏伯爵家の令嬢である私は、家を救うために男装して王宮に潜り込んだ。
名を「レオン」と偽り、文官見習いとして働く毎日。
誰よりも厳しく私を鍛えたのは、氷の宰相と呼ばれる男――ジークフリード。
ある日、ひょんなことから女であることがバレてしまった瞬間、
あの冷酷な宰相が……私を押し倒して言った。
「ずっと我慢していた。君が女じゃないと、自分に言い聞かせてきた」
「……もう限界だ」
私は知らなかった。
宰相は、私の正体を“最初から”見抜いていて――
ずっと、ずっと、私を手に入れる機会を待っていたことを。
男女比がおかしい世界の貴族に転生してしまった件
美鈴
ファンタジー
転生したのは男性が少ない世界!?貴族に生まれたのはいいけど、どういう風に生きていこう…?
最新章の第五章も夕方18時に更新予定です!
☆の話は苦手な人は飛ばしても問題無い様に物語を紡いでおります。
※ホットランキング1位、ファンタジーランキング3位ありがとうございます!
※カクヨム様にも投稿しております。内容が大幅に異なり改稿しております。
※各種ランキング1位を頂いた事がある作品です!
【完結】異世界召喚 (聖女)じゃない方でしたがなぜか溺愛されてます
七夜かなた
恋愛
仕事中に突然異世界に転移された、向先唯奈 29歳
どうやら聖女召喚に巻き込まれたらしい。
一緒に召喚されたのはお金持ち女子校の美少女、財前麗。当然誰もが彼女を聖女と認定する。
聖女じゃない方だと認定されたが、国として責任は取ると言われ、取り敢えず王族の家に居候して面倒見てもらうことになった。
居候先はアドルファス・レインズフォードの邸宅。
左顔面に大きな傷跡を持ち、片脚を少し引きずっている。
かつて優秀な騎士だった彼は魔獣討伐の折にその傷を負ったということだった。
今は現役を退き王立学園の教授を勤めているという。
彼の元で帰れる日が来ることを願い日々を過ごすことになった。
怪我のせいで今は女性から嫌厭されているが、元は女性との付き合いも派手な伊達男だったらしいアドルファスから恋人にならないかと迫られて
ムーライトノベルでも先行掲載しています。
前半はあまりイチャイチャはありません。
イラストは青ちょびれさんに依頼しました
118話完結です。
ムーライトノベル、ベリーズカフェでも掲載しています。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる