上 下
38 / 39
無能生産者編

第35話 カステラ牧場での初仕事

しおりを挟む
「だから、こうやって親指と人差し指をつかって丸をつくるんだって!それでお乳の根元でぎゅっとするの」





「わかってる。わかってるけどあの突起物にわたしはどうしても触れたくないの!」





「そんなこと言わずに、やるったらやる!ほらわたしが一緒に手を握ってやってあげる。だから怖がることはないよ」





 今彼女らは牛の乳しぼりを行っている最中だ。再三にわたってミーヤーはペトラルカから牛の乳しぼりのレクチャーを受けていた。しかしそもそも牛の突起物に触れること自体をかたくなに拒んでいたミーヤーのこともあって、レクチャーがなかなか前に進まない。





「大丈夫!ミーヤー。牛さんの突起物が牙をむいて襲いかかってくるわけじゃないんだから!」





「わたしはパス!代わりにペトラルカだけ乳しぼりをやっといてよ。やっぱわたし、これを触るの無理だわ」





「そんなことを言わないで、実際にやってみようよ!ほら勇気を出して!」





 ペトラルカはミーヤーの手をとって、無理やり牛の突起物に触れさせようとする。





「や・・・やめろー!・・・わ・・・わたしにそれを触らせようとするな~!」





 ミーヤーはペトラルカの手を振り払い、牛舎からピューっと一目散に逃げだした。





「あ~待ってよ~!逃げちゃいや!」





 ペトラルカはミーヤーをすかさず追いかける。そこから広大な牧場を舞台とした彼女たちの追いかけっこがはじまった。





「連れ戻されてたまるものか!」





 ミーヤーは牧場という広野を必死に駆け抜けていった。





「ミーヤーってば!神妙におなわにかかりなさい!」





 まさに今、2人が繰り広げているのはケイドロそのものだ。さしずめペトラルカがケイドロのケイで、ミーヤーがケイドロのドロというところだろう。





 相変わらず仲の良さそうなことで、こっちとしても見ているだけで微笑ましい。強制労働させられていたときには味わえなかった穏やかな日常風景だ。





 ・・・ずっとこうして2人を眺めているだけで幸せだ。そう思った。3年間クズニートとして家に籠り続けてきたあの時間よりも、こっちで過ごしている時間の方が断然充実している。





「さてと。まずはわたしがお手本を見せるから、ちゃんとそこで見てなさいよ」





 自分は牧場のとある一角まで来ていた。そこには体毛がこんもりとついていたヒツジが一匹いた。体毛をずっと伸ばしっぱなしにしていたのだろうか?大変モッフモフであった。そのヒツジはカステラおばさんにだるーんっとして寄りかかっている。とても素直だった。今からバリカンでそのヒツジ君の体毛とやらものが、バリバリ刈られるというのに、一向に怖がる素振りを見せなかった。



 そしてカステラおばさんは見事な手さばきで、毛を刈っていく。そしてそのヒツジ君の羊毛の半分を刈り取ったところで、自分にバリカンを手渡し、バトンタッチしてきた。





「さあこれを受け取って。次はあなたの番ざます」





 カステラおばさんの語尾が急に高価なアクセサリーを買いあさる夫人のような口調になったのに対し、一瞬戸惑いつつも、ひとまず見よう見まねでヒツジの毛刈りをやってみた。



 そしていざ毛刈りをやってみたものの、カステラおばさんのように手際よくできなかった。



 しょっちゅうバリカンの刃に羊毛が詰まり、そのせいで滑らかに作業ができない。何度も何度もそれを繰り返していたため、このヒツジ君もさぞかし「ぐずぐずしてないで、早いとこ僕の体毛を刈り取ってよ。すっとこどっこい」とかなんとかをヒツジ君の身でありながら、心の中で思っているに違いない。



 時折カステラおばさんから、毛刈りがスムーズに行えるコツみたいなのを伝授してもらいつつ、なんとか全工程を終えることが出来た。要した時間は40分余り。カステラおばさんの10倍もかかってしまった。



 そんな調子で2匹目、3匹目のヒツジの毛刈り作業に入っていった。そして3匹目の毛刈りを終えるとカステラおばさんは、





「あとはよろしく頼むわね」





 とだけを言い残して、その場を立ち去り、1人家の方向に帰っていった。そうしてまもなくして、カステラおばさんはコミュニティーの街へと出かけていった。おそらく統領セバスティアーノに対し、自分がこの牧場で働けるようにするために、わざわざセバスティアーノ邸に出向いていったのだと思われる。



 カステラおばさんにその場を後にされてしまい、おばさんがまた帰ってくるまで1人で毛刈り作業をしなければならなくなってしまった。ひとまずおばさんに先程言われたことをそのまま実行にうつしていくしかない。



 果たしてあのセバスティアーノが無能生産者の自分に牧場労働を認めてくれるのか?不安だが仕方ない。仮に認められなかったとしたら、またあの強制労働の日々に戻るだけのこと。このペトラルカさんとミーヤーに出会えた2日間は、永遠に忘れない。強制労働生活にまた返り咲いたとしても、彼女らとの思い出は消えることはなく、むしろ今後の労働に従事する際の活力になるに違いない。それだけ彼女たちと過ごしてきた時間と言うものは、感慨深いものだったのだ。



 自分にこれから待ち受けている宿命、ないしに天運は流れに委ねるしかない。今はそんな先の事を考えず、与えられた環境で物事をやっていくしかない。



 そう心の中で思いながら、カステラおばさんが不在の中、引き続きヒツジたちの毛刈り作業を行っていった。









 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~









 あっという間に夜も更けていった。毛刈りを行っている最中に、時折ペトラルカさんたちの様子を一瞥していた。ミーヤーはあまりにも素早く、なかなかペトラルカさんもそんな彼女を引っ捕らえることができていなかった。



 ペトラルカさんもやがて自分1人では到底ミーヤーを捕らえることができないと思ってか、牧場にいる牛やヒツジたちとタッグを組み、その動物たちと一緒になって、縦横無尽に走り回るミーヤーを取り囲い込んでいた。



 ペトラルカさんはまるで動物の調教師のようにして、牧場に居る無数の動物たちを見事に従えさせ、それらの動物たちの数の力でもって、ミーヤーをうまく柵の方へ柵の方へと誘導していった。



 元々動物が苦手なミーヤーは無数の動物たちが彼女自身の方に向かって、突っ込んでくるものだから、それにすっかりおびえきってしまい、動きもだんだん鈍くなっていた。その隙をペトラルカさんに見事につかれ、何度も引っ捕らえては牛舎に連れ帰っていた。





 ミーヤーが牛の突起物を触るのを嫌い、また牛舎から逃げ出すたびに、ペトラルカさんは牧場の動物たちを操り、ミーヤーを何度も何度も連れ戻した。



 そんなこんなをしているうちにミーヤーもようやく観念したのか、ついに彼女は牛の乳に触れたのであった。ペトラルカさんはミーヤーに牛の乳を触れさせたその瞬間、ブイサインしてはしゃいでいた。



 ミーヤーは牛の乳に触れてもなお、動物の苦手意識を払拭できていない様子だったが、ひとまず動物に触れるといったミーヤーにとっての最大難関はそれでもってようやく突破したのであった。





「ペトラルカさんすげーや。どうやってあの動物たちと意思疎通をしてるんだか・・・・今度教えてもらおうっと」





 ペトラルカさんは崩壊前の世界では、サーカス団か何かに所属していたのだろう。そこで猛獣のトラなりライオンを調教でもしていて、動物たちと心を通わす術すべを得たに違いない。その経験がなければ牧場の動物たちを素直に従えさせることなどできるはずがない。今度じっくりとそのサーカス団の調教師として得た術すべを教わることにしよう。





 陽が沈み始めた頃合いになって、カステラおばさんが牧場へと帰ってきた。まず自分の元に来て開口一番に伝えられたことがあった。





「おめでとうベルシュタイン君。あなたを正式にこの牧場で迎い入れることが決定しました。これからはここがあなたの住処すみかになるわ」





 その報告を受け、自分は飛び上がるほど喜んだ。自分のそばで、そのカステラおばさんの話をじっと聞いていたペトラルカさんとミーヤーも、まるで自分のことのように喜びを分かち合ってくれた。





「晴れてベルシュタイン君がわたしの家族の一員となったところで、今日は盛大にごちそうを振る舞わせてもらうわ」





「「やったー!」」





 ペトラルカさんとミーヤーはごちそうと聞くや否や、腕を振り上げながら、飛び跳ねて喜びを体現した。



 自分もそんな彼女たちと一緒になって腕を振り上げ、飛び跳ねようと思ったが、冷静に考えて男の自分が女の子のテンションで一緒になって、飛び跳ねるのはさすがに気色悪い。なので自分は軽くガッツポーズをして、喜びを体現するにとどまった。





「さあさあ家に入って、入って。さっそくみんなでお祝いの準備をするわよ」





 カステラおばさんは3人にそう告げ、牧場の柵のはずれにあるログハウスへと向かった。
しおりを挟む

処理中です...