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一 掃把星
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――私達は姉妹の契りを結んだ仲でしょう? だから喜びだって、苦しみだって分かち合うの……。
しきりに揺れる馬車の中、薛紅鴛の脳裏に、遠い昔の言葉が響いた。
それから、またもう一人の男の言葉も。
――武当派の高弟でも、ただの平凡な娘でも、君を思い慕う気持ちは変わらない……。
ちくりと胸が痛み、さざ波のように震えが全身を伝わった。もう何度も味わっているのに、まだ慣れない。二十歳の若い自分には、打撃が大きすぎたのだろうか。
人生の苦楽を分かち合うと約束した義妹と、一生を共にすると決めた男。
その二人が自分を裏切るなんて、どうして想像出来ただろうか。
「師姐、今日はこのへんで休みましょうか?」
気遣わしげに声をかけてきたのは、向かいに座っている弟弟子・楊楓だった。紅鴛より三つ下の十七歳。歳の割に、どこか幼さの残る顔立ちだ。
「外は雪です。この先、山道ですから、馬車も進みがはかどらないかも。ちょうど、旅籠も見えます」
紅鴛は唇をきつく結んで頷いた。この旅は、全て彼女自身にまつわるもの。何が起きてもこの身で引き受けると決めていた。弟弟子は師匠の命令でついてきただけ、弱音を見せたくはない。
ほどなく、旅籠に到着した。粉のような雪が降り続いている。
馬車を降りて、楊楓が戸を叩いた。
反応が無い。もう一度戸を叩きかけた楊楓を、紅鴛は押しとどめた。
「待って。中で誰かが待ち構えてる」
「え?」
「気配を感じるの。それと、血の臭いも」
紅鴛はすっと息を吸い、右の掌を打ち込んだ。奥の閂を割って、戸が勢いよく開かれる。
と、中から飛刀、針、手裏剣、鉄丸……数十の飛び道具が放たれた。微塵も容赦の無い、命取りの奇襲だ。
紅鴛は素早く両手を交差させ、左右の腰に挿した長剣と短剣を同時に引き抜いた。
抜くと同時に、縦横へ振るい、飛び道具をことごとく弾く。反応の遅れた楊楓は危うく右肩に飛刀を食らいかけたが、それも紅鴛が長剣で叩き落とした。
「師姐、すみま――」
「礼は後にして!」
雪崩のように、刀を手にした黒装束が十人がかりで襲ってくる。頭巾の奥から覗く瞳は、追い詰められた虎狼のごとく殺気立っていた。
紅鴛は踏み込んで、先頭にいた相手の手首を突いた。呻き声と共に、刀が床へ落ちる。立て続けに九剣繰り出し、一つも外さなかった。ほどなく、全ての手が血を流し、得物が床を転がっていた。
紅鴛は剣を振って血払いをすると、一歩引いて声を張り上げた。
「私は武当の弟子です。名乗りもせず、こちらの素性を確かめもせず、いきなり攻めかかるのはどんな了見があってのことですか」
「本当に、武当派の者か?」
頭目らしき男が聞き返す。紅鴛は剣を掲げて示した。剣身に「武当薛紅鴛」の五字が刻まれている。
まじまじとそれを見た頭目は、やがて憑きものが落ちたかのように息を吐き出した。
「これは、大変な思い違いをいたしました。我らはこの周辺で用心棒稼業を営む金華鏢局の者でして……。湖南の富豪・唐尭に依頼を受けて宝物を幾つか別荘へ運ぶ仕事を請け負ったのですが……」
途中から言葉も折り目正しくなる。楊楓が我慢出来ない様子で口を挟んだ。
「まさか、我々を強盗の類だとでも?」
「滅相もございません。実は、こういうわけなのです。ここ七日あまり、宝物を狙って一人の賊が我らをつけ回しておりまして。そいつは神出鬼没のうえ変装の達人、武芸も並外れております。道中で仲間が十人やられ、最初は七箱あった宝物も、今や三つを残すのみ。これ以上被害を増やすまいと、大きく道を迂回し強行軍で進んでいたのですが、もはや兄弟たちも心身の限界、すっかり賊の襲撃にびくつき、それであなた方の馬車が見えた途端、先手をかけるよりほかなかったのです。こんな辺鄙な旅籠へ夜中にやってくるのだから、きっとあの賊に違いあるまいと……」
口を開きかけた楊楓を遮り、紅鴛が尋ねた。
「その賊の名はご存じですか?」
「確か掃把星と名乗っておりました」
紅鴛もその名を聞いたことがあった。江南で悪名高い泥棒だ。掃把星というのは渾名で、本当の名前は知られていない。軽功と刀術の達人で、もとは名門の弟子だったが破門されて泥棒に落ちぶれたらしい。この掃把星、金品には対して興味は無く、盗まれた相手が苦しんだり悔しがったりするのを喜びとする、性質の悪い人物だった。盗みを働く時も、一度に全部は奪わず、じわじわ少しずつ手を出すことが多い。
道理で、この用心棒達が逼迫した様子だったわけだ。
「事情はわかりました。身を守るためとはいえ、こちらも傷を負わせて申し訳ありません」
紅鴛は一門の塗り薬を懐から出して、頭目に渡した。相手は喜んで、深く一礼した。
「とんでもございません。しかし、さすがは名門のお弟子ですな。武芸の腕も器量も人並み外れている。その……図々しいお願いと承知してはおるのですが、我らにお力添えをしていただけませんでしょうか。荷物の届け先まではあと十里、しかし疲弊した兄弟達だけでは、とてもたどり着けそうにない……」
楊楓が身を寄せ、耳打ちしてきた。
「師姐。掃把星は、厄介な相手ですよ。関わり合いになったら面倒です」
「そうだけど、このまま見過ごしにも出来ない。我が一門の掟を忘れたの」
「でも今は、大事な師命を授かって旅に出ている身ではありませんか。何より、師姐のためにも……」
楊楓の言葉は気遣いに満ちていた。紅鴛は、微かに心がたじろぐのを感じながら、言い張った。
「私自身のことだからこそ、後回しでいいの。人助けを先にしなくては」頭目に向き直ると、笑みを浮かべた。「江湖では助け合いが大事です。この私でよろしければ、力になります」
「有難い、有難い! これで、掃把星が現れても仕事を果たせまする!」
その時、背後で冷ややかな声が響いた。
「俺様なら、もうとっくに来てるぜ」
しきりに揺れる馬車の中、薛紅鴛の脳裏に、遠い昔の言葉が響いた。
それから、またもう一人の男の言葉も。
――武当派の高弟でも、ただの平凡な娘でも、君を思い慕う気持ちは変わらない……。
ちくりと胸が痛み、さざ波のように震えが全身を伝わった。もう何度も味わっているのに、まだ慣れない。二十歳の若い自分には、打撃が大きすぎたのだろうか。
人生の苦楽を分かち合うと約束した義妹と、一生を共にすると決めた男。
その二人が自分を裏切るなんて、どうして想像出来ただろうか。
「師姐、今日はこのへんで休みましょうか?」
気遣わしげに声をかけてきたのは、向かいに座っている弟弟子・楊楓だった。紅鴛より三つ下の十七歳。歳の割に、どこか幼さの残る顔立ちだ。
「外は雪です。この先、山道ですから、馬車も進みがはかどらないかも。ちょうど、旅籠も見えます」
紅鴛は唇をきつく結んで頷いた。この旅は、全て彼女自身にまつわるもの。何が起きてもこの身で引き受けると決めていた。弟弟子は師匠の命令でついてきただけ、弱音を見せたくはない。
ほどなく、旅籠に到着した。粉のような雪が降り続いている。
馬車を降りて、楊楓が戸を叩いた。
反応が無い。もう一度戸を叩きかけた楊楓を、紅鴛は押しとどめた。
「待って。中で誰かが待ち構えてる」
「え?」
「気配を感じるの。それと、血の臭いも」
紅鴛はすっと息を吸い、右の掌を打ち込んだ。奥の閂を割って、戸が勢いよく開かれる。
と、中から飛刀、針、手裏剣、鉄丸……数十の飛び道具が放たれた。微塵も容赦の無い、命取りの奇襲だ。
紅鴛は素早く両手を交差させ、左右の腰に挿した長剣と短剣を同時に引き抜いた。
抜くと同時に、縦横へ振るい、飛び道具をことごとく弾く。反応の遅れた楊楓は危うく右肩に飛刀を食らいかけたが、それも紅鴛が長剣で叩き落とした。
「師姐、すみま――」
「礼は後にして!」
雪崩のように、刀を手にした黒装束が十人がかりで襲ってくる。頭巾の奥から覗く瞳は、追い詰められた虎狼のごとく殺気立っていた。
紅鴛は踏み込んで、先頭にいた相手の手首を突いた。呻き声と共に、刀が床へ落ちる。立て続けに九剣繰り出し、一つも外さなかった。ほどなく、全ての手が血を流し、得物が床を転がっていた。
紅鴛は剣を振って血払いをすると、一歩引いて声を張り上げた。
「私は武当の弟子です。名乗りもせず、こちらの素性を確かめもせず、いきなり攻めかかるのはどんな了見があってのことですか」
「本当に、武当派の者か?」
頭目らしき男が聞き返す。紅鴛は剣を掲げて示した。剣身に「武当薛紅鴛」の五字が刻まれている。
まじまじとそれを見た頭目は、やがて憑きものが落ちたかのように息を吐き出した。
「これは、大変な思い違いをいたしました。我らはこの周辺で用心棒稼業を営む金華鏢局の者でして……。湖南の富豪・唐尭に依頼を受けて宝物を幾つか別荘へ運ぶ仕事を請け負ったのですが……」
途中から言葉も折り目正しくなる。楊楓が我慢出来ない様子で口を挟んだ。
「まさか、我々を強盗の類だとでも?」
「滅相もございません。実は、こういうわけなのです。ここ七日あまり、宝物を狙って一人の賊が我らをつけ回しておりまして。そいつは神出鬼没のうえ変装の達人、武芸も並外れております。道中で仲間が十人やられ、最初は七箱あった宝物も、今や三つを残すのみ。これ以上被害を増やすまいと、大きく道を迂回し強行軍で進んでいたのですが、もはや兄弟たちも心身の限界、すっかり賊の襲撃にびくつき、それであなた方の馬車が見えた途端、先手をかけるよりほかなかったのです。こんな辺鄙な旅籠へ夜中にやってくるのだから、きっとあの賊に違いあるまいと……」
口を開きかけた楊楓を遮り、紅鴛が尋ねた。
「その賊の名はご存じですか?」
「確か掃把星と名乗っておりました」
紅鴛もその名を聞いたことがあった。江南で悪名高い泥棒だ。掃把星というのは渾名で、本当の名前は知られていない。軽功と刀術の達人で、もとは名門の弟子だったが破門されて泥棒に落ちぶれたらしい。この掃把星、金品には対して興味は無く、盗まれた相手が苦しんだり悔しがったりするのを喜びとする、性質の悪い人物だった。盗みを働く時も、一度に全部は奪わず、じわじわ少しずつ手を出すことが多い。
道理で、この用心棒達が逼迫した様子だったわけだ。
「事情はわかりました。身を守るためとはいえ、こちらも傷を負わせて申し訳ありません」
紅鴛は一門の塗り薬を懐から出して、頭目に渡した。相手は喜んで、深く一礼した。
「とんでもございません。しかし、さすがは名門のお弟子ですな。武芸の腕も器量も人並み外れている。その……図々しいお願いと承知してはおるのですが、我らにお力添えをしていただけませんでしょうか。荷物の届け先まではあと十里、しかし疲弊した兄弟達だけでは、とてもたどり着けそうにない……」
楊楓が身を寄せ、耳打ちしてきた。
「師姐。掃把星は、厄介な相手ですよ。関わり合いになったら面倒です」
「そうだけど、このまま見過ごしにも出来ない。我が一門の掟を忘れたの」
「でも今は、大事な師命を授かって旅に出ている身ではありませんか。何より、師姐のためにも……」
楊楓の言葉は気遣いに満ちていた。紅鴛は、微かに心がたじろぐのを感じながら、言い張った。
「私自身のことだからこそ、後回しでいいの。人助けを先にしなくては」頭目に向き直ると、笑みを浮かべた。「江湖では助け合いが大事です。この私でよろしければ、力になります」
「有難い、有難い! これで、掃把星が現れても仕事を果たせまする!」
その時、背後で冷ややかな声が響いた。
「俺様なら、もうとっくに来てるぜ」
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