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二 武当剣法
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その場にいた全員が、驚いて振り向く。
卓上でふてぶてしく座り、酒瓢箪を片手に冷笑を浮かべている男がいた。藍色の着物に身を包み、腰には短い刀を挿している。いつ入ってきたのか、紅鴛ですらわからなかった。
男は顎先を動かし、旅籠の小窓を示した。
「そこの窓が開いてたんで、入らせてもらったよ」
「貴様か!」頭目が怒声をあげた。「殺せ!」
用心棒達が一斉に数十の飛び道具をなげうつ。男はへっと笑い、足先で手近な椅子を蹴り上げた。鉄丸も手裏剣もことごとくその椅子に防がれ、一つも男には達しなかった。
大した手並みだ。紅鴛は、一歩進み出た。
「あなたが、掃把星?」
「そちらさんは、武当の弟子だったか?」
気怠そうに伸びをしたかと見るや、恐るべき速さで飛び出し、紅鴛の腰の剣へ手を伸ばしてきた。紅鴛は身をよじり、逆につかみ技で相手の腕を捕らえようとした。掃把星が床を蹴り、弾かれたように背後へ飛んで、再び卓上へ着地する。
「はは、あんたもすげえ手の速さだな。その腕なら、泥棒やれるぜ」
紅鴛は淡々と言った。
「この人達をつけ狙うのはやめて。奪った荷物も返して」
「そりゃ無理な相談だ。そんなことしたら、あの金持ちが喜んじまう。少しずつ、全部奪い取ってやらなきゃあな」
「関わりも罪もない相手を傷つけて、何が楽しいの」
「関りならちっとあるし、金にものを言わせて貧乏人を何度か虐めたこともあるから、罪が無いとはいえんね」
「それなら、必要な宝だけ奪って終わりにして。なぶるようなやり方は道義にもとるでしょう」
掃把星は足をばたつかせて笑った。
「泥棒へ道理を説こうって? あんた面白いなぁ。武当の弟子ってのは、みんなあんたみたいなのか? 是非尊名をうかがいたいね」
「私は薛紅鴛。武当派の弟子は、誰もが道義を重んじ、人助けを第一とするのが務めです」
「薛……紅鴛……?」掃把星は紅鴛をしばらく凝視していたが、ふと思い切り膝を打ち、げらげらと笑った。「あっはっは! ということは、あんたが最近江湖で評判になってる、妹弟子に男を盗まれた武当の次期掌門か! こりゃ傑作だ! 自分が盗難にあったんだから、泥棒を見て説教したくなるのは道理だな! ハッハッハ……」
どうにか顔色には出さなかったが、紅鴛の心は激しく動揺した。袖中の手がわななき、拳を握り締める。
楊楓が激怒して、剣を引き抜く。
「おい、三下の盗人! それ以上ほざいたら、貴様の喉へ穴を開けてやる!」
掃把星が一変し、凶悪な色を浮かべる。瞬間、その体は目にも留まらぬ速さで動き、楊楓を床へ蹴倒していた。右足で胸を踏みつけながら吐き捨てる。
「今、三下と言ったか? 悪いが、腕には自信があるんでね。バカにされるのは許せねえ。それに、薛紅鴛のこたぁ、俺だけじゃねえ、江湖の大勢が知ってるんだぜ。俺だけが口にしちゃならねえってのかよ、えぇ?」
尽きるところの無い侮辱に、紅鴛の抑制の糸は切れた。
「言いたいなら、好きなだけ言い続けて構わない」紅鴛は声を震わせ、掃把星を睨みつけた。「だけど、盗人は廃業するのね」
言い終えるや否や、両腰から光がほとばしった。長短一対の剣が空を裂き、一瞬の後、また鞘へおさまる。
掃把星が瞬きした。鈍い音を立てて、何かが落ちる。
それから、遅れてやってきた痛みに気がつき、視線を手元へ落とした。手首から鮮血がしたたっている。
盗人家業に欠かせない命――右手が床を転がっていた。
掃把星は目を見開き、苦痛に顔を歪めた。
「き、貴様……! よくも……!」
周囲の用心棒達が刀を構える。怪我に乗じてとどめを刺す構えだ。不利を悟った掃把星は、憎々しげに紅鴛を一瞥すると、素早く窓から逃げ出していった。
紅鴛の両手は、まだ鞘におさまった剣の柄を握り締め続けている。視線は、血だまりの右手に釘付けだった。
怒りは、まだ捌け口を求めているかのようだった。そんな自分に、言い知れぬ嫌悪も感じた。
――やってしまった。怒りに駆られて、自分を抑えられなかった。
――いいえ、手を出したのは、楊師弟を助けるため。あの泥棒に八つ当たりをしたかったわけじゃない。
――どのみち、こんなことじゃ駄目だわ。誰かから罵倒される度に、剣で口封じをするというの?
色んな感情がせめぎ合う。少しずつ息を吐き出しながら、指をほどいて、ようやく柄から手を下ろした。
頭目が歩み寄り、喝采した。
「さすがは武当派! 素晴らしい腕ですな! あの盗人もまったく歯が立たなかった」
用心棒達も賛同の声をあげる。
紅鴛はその賞賛を曖昧な笑みで受け止め、ちらっと目を伏せた。確実に言えるのは、彼らのために手を出したわけではないことだ。
倒れている楊楓のそばへ屈み、手を伸ばす。弟弟子は、急いで身体を起こした。
「だ、大丈夫です。自分で立てます」
口ではそう言ったものの、胸元を抑え、歯を食いしばっている。
紅鴛は用心棒達を振り向き、抱拳の礼をとった。
「しばらく、あの賊も現れないでしょう。夜も遅いので、私達はこれで」
旅籠の番頭は、一連の騒動の間、帳台の背後にずっと身を縮めていた。紅鴛が金を渡し、空き部屋を二つ借りる。
楊楓は自室の扉の前で、深々と頭を下げた。
「師姐、すみません。私が役立たずで、あんな泥棒に好き放題言わせてしまいました」
「いいの。あなたが悪いんじゃない。私のために飛び出してくれたんだもの」
「でも、師姐。あいつ、腕を切られた恨みで、もっと師姐の悪口を言いふらしますよ」
紅鴛は淡い笑みを浮かべた。内心は、早くこの話題を打ち切りたかった。
「どのみちもう、噂は広まりきってる。今更気にしたって……」紅鴛は弟弟子の襟元を整えてやりながら言った。「もう休みましょう。明日は早く発ちたいから」
「はい、師姐。お休みなさい」
弟弟子を見送ると、紅鴛は隣の部屋に入った。両腰の剣を鞘ごと卓へ置き、倒れるように寝床へ身を投げる。
――薛紅鴛のこたぁ、俺だけじゃねえ、江湖の大勢が知ってるんだぜ。
掃把星の言葉が響く。紅鴛は瞳を閉じ、蒲団の端を握りしめた。どうしようもない感情が溢れ、胸をかきむしりたくなった。
日が経つほどに、紅鴛の存在が武当派の評判に傷を深く刻んでいく。
全ては、半年前の、あの事件から……。
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「そこの窓が開いてたんで、入らせてもらったよ」
「貴様か!」頭目が怒声をあげた。「殺せ!」
用心棒達が一斉に数十の飛び道具をなげうつ。男はへっと笑い、足先で手近な椅子を蹴り上げた。鉄丸も手裏剣もことごとくその椅子に防がれ、一つも男には達しなかった。
大した手並みだ。紅鴛は、一歩進み出た。
「あなたが、掃把星?」
「そちらさんは、武当の弟子だったか?」
気怠そうに伸びをしたかと見るや、恐るべき速さで飛び出し、紅鴛の腰の剣へ手を伸ばしてきた。紅鴛は身をよじり、逆につかみ技で相手の腕を捕らえようとした。掃把星が床を蹴り、弾かれたように背後へ飛んで、再び卓上へ着地する。
「はは、あんたもすげえ手の速さだな。その腕なら、泥棒やれるぜ」
紅鴛は淡々と言った。
「この人達をつけ狙うのはやめて。奪った荷物も返して」
「そりゃ無理な相談だ。そんなことしたら、あの金持ちが喜んじまう。少しずつ、全部奪い取ってやらなきゃあな」
「関わりも罪もない相手を傷つけて、何が楽しいの」
「関りならちっとあるし、金にものを言わせて貧乏人を何度か虐めたこともあるから、罪が無いとはいえんね」
「それなら、必要な宝だけ奪って終わりにして。なぶるようなやり方は道義にもとるでしょう」
掃把星は足をばたつかせて笑った。
「泥棒へ道理を説こうって? あんた面白いなぁ。武当の弟子ってのは、みんなあんたみたいなのか? 是非尊名をうかがいたいね」
「私は薛紅鴛。武当派の弟子は、誰もが道義を重んじ、人助けを第一とするのが務めです」
「薛……紅鴛……?」掃把星は紅鴛をしばらく凝視していたが、ふと思い切り膝を打ち、げらげらと笑った。「あっはっは! ということは、あんたが最近江湖で評判になってる、妹弟子に男を盗まれた武当の次期掌門か! こりゃ傑作だ! 自分が盗難にあったんだから、泥棒を見て説教したくなるのは道理だな! ハッハッハ……」
どうにか顔色には出さなかったが、紅鴛の心は激しく動揺した。袖中の手がわななき、拳を握り締める。
楊楓が激怒して、剣を引き抜く。
「おい、三下の盗人! それ以上ほざいたら、貴様の喉へ穴を開けてやる!」
掃把星が一変し、凶悪な色を浮かべる。瞬間、その体は目にも留まらぬ速さで動き、楊楓を床へ蹴倒していた。右足で胸を踏みつけながら吐き捨てる。
「今、三下と言ったか? 悪いが、腕には自信があるんでね。バカにされるのは許せねえ。それに、薛紅鴛のこたぁ、俺だけじゃねえ、江湖の大勢が知ってるんだぜ。俺だけが口にしちゃならねえってのかよ、えぇ?」
尽きるところの無い侮辱に、紅鴛の抑制の糸は切れた。
「言いたいなら、好きなだけ言い続けて構わない」紅鴛は声を震わせ、掃把星を睨みつけた。「だけど、盗人は廃業するのね」
言い終えるや否や、両腰から光がほとばしった。長短一対の剣が空を裂き、一瞬の後、また鞘へおさまる。
掃把星が瞬きした。鈍い音を立てて、何かが落ちる。
それから、遅れてやってきた痛みに気がつき、視線を手元へ落とした。手首から鮮血がしたたっている。
盗人家業に欠かせない命――右手が床を転がっていた。
掃把星は目を見開き、苦痛に顔を歪めた。
「き、貴様……! よくも……!」
周囲の用心棒達が刀を構える。怪我に乗じてとどめを刺す構えだ。不利を悟った掃把星は、憎々しげに紅鴛を一瞥すると、素早く窓から逃げ出していった。
紅鴛の両手は、まだ鞘におさまった剣の柄を握り締め続けている。視線は、血だまりの右手に釘付けだった。
怒りは、まだ捌け口を求めているかのようだった。そんな自分に、言い知れぬ嫌悪も感じた。
――やってしまった。怒りに駆られて、自分を抑えられなかった。
――いいえ、手を出したのは、楊師弟を助けるため。あの泥棒に八つ当たりをしたかったわけじゃない。
――どのみち、こんなことじゃ駄目だわ。誰かから罵倒される度に、剣で口封じをするというの?
色んな感情がせめぎ合う。少しずつ息を吐き出しながら、指をほどいて、ようやく柄から手を下ろした。
頭目が歩み寄り、喝采した。
「さすがは武当派! 素晴らしい腕ですな! あの盗人もまったく歯が立たなかった」
用心棒達も賛同の声をあげる。
紅鴛はその賞賛を曖昧な笑みで受け止め、ちらっと目を伏せた。確実に言えるのは、彼らのために手を出したわけではないことだ。
倒れている楊楓のそばへ屈み、手を伸ばす。弟弟子は、急いで身体を起こした。
「だ、大丈夫です。自分で立てます」
口ではそう言ったものの、胸元を抑え、歯を食いしばっている。
紅鴛は用心棒達を振り向き、抱拳の礼をとった。
「しばらく、あの賊も現れないでしょう。夜も遅いので、私達はこれで」
旅籠の番頭は、一連の騒動の間、帳台の背後にずっと身を縮めていた。紅鴛が金を渡し、空き部屋を二つ借りる。
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「でも、師姐。あいつ、腕を切られた恨みで、もっと師姐の悪口を言いふらしますよ」
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