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七 郭玄生
しおりを挟む足音の主は、十二、三歳の娘だった。
土埃だらけのぼろをまとい、裸足で、髪もぼさついている。手には食べかけた鳥の足を握っていた。明らかに乞食の類だ。けれども、よく街で見かけるような乞食と違い、表情は生気に溢れ、足取りも軽やかだった。
娘は廟内を見回し、感嘆の声をあげた。
「あらら、人がいなくなるどころか、また増えてるみたい! 誰が誰だか知らないけれど、もし峨眉五峰の人がいたら、聞いてくださいな。おじいちゃんから伝言を預かってきたの!」
奥の方に座っていた五人が、一斉に立ち上がる。
紅鴛も腰を上げながら、密かに思った。あの五人、やはり峨眉派の門人なのだろうか。でも、峨眉五峰という名は聞いたことが無い。
五人は足早に娘へ近づいていった。年配の男が尋ねる。
「伝言の主は、天耳老丐か?」
「そうよ」
「よし。伝言とやらを聞こう」
「ここはおじいちゃんのおうち代わりだから、よその人達に居座られると困るんですって。もう半月もいたんだから、そろそろどこかへ行ってちょうだい」
紅鴛と楊楓は、ちらりと視線をかわした。先ほど話した時は、ここに留まって三日目だと言っていたが、あれは嘘だったのか。
年配の男は、冷ややかに娘を見下ろした。
「それだけか?」
「それだけよ」
男は宙へ視線を泳がせると、叫んだ。
「天耳老丐、もし近くにいるのであれば、こそこそせずに姿を現せ!」
声が天井に反響した。答えは無い。
娘がけらけらと笑う。
「おじいちゃんが近くに来ていたら、あたしを遣いに寄越す意味なんかないでしょ?」
「なるほど。それも道理だ。では、こちらもお前に言伝を頼もうか。これ以上我らに居座られたくなければ、とっとと姿を見せろ、とな」
「伝えてもいいけど、おじいちゃんがその気になるかはわからないよ」
男の口端が、邪悪に歪んだ。
「なるとも」
紅鴛が殺気を感じ取った時には、もう遅かった。
鞘から剣光が噴いて、娘の左肩へ落ちた。血がしぶき、腕が宙を飛んだ。
鋭い悲鳴が廟内を満たした。
血だまりへうずくまる娘へ、剣を納めた男が冷ややかに告げた。
「遣いが腕を置き忘れてきたと知れば、天耳老丐も少しは来る気が起きるだろう」
娘は痛みに身を震わせていたが、ふと歯を食いしばり、それから覚悟を決めたように笑みを浮かべた。
「思い出した……。お、おじいちゃんが……もう一つ言ってたの」
「何をだ?」
娘が精一杯体を起こし、声を張り上げた。
「郭の小便小僧は、ちゃんと自分の間違いを正して、お行儀よくしてろ、って!」
男の瞳に、再び殺気が宿る。
紅鴛は微かにひらめいた。
――郭……。まさか、峨眉派の掌門・郭玄生のこと? 間違いを正して……お行儀よく……。
郭玄生は当代における一流の剣客だ。紅鴛も面識がある。温厚な人柄で、物事に対しては公平無私、武林でも彼を慕う者は多い。あまり後ろ暗い噂など、聞いたことは無かったが……。
男が再び剣へ手をかける。
「余計なことまで知っているようだな。言わなければ、腕だけで済んだものを」
深く思案している暇は無かった。紅鴛は素早く躍り出ると、両手を広げて立ちはだかった。
「お待ちください。ご先輩」
男が忌々しげに紅鴛を見据える。
「何の真似だ。武当の小娘」
「命をとるおつもりですか? 相手はまだ子供ではありませんか」
「天耳老丐を呼び出すためだ。娘の死体を見れば、奴も姿を現すだろう」
「お控えください。峨眉派は武林の名門。このような行いはその名に傷をつけます」
「我らは峨眉派から引退してもう長いのだ。何をしたところで、一門と関わりはない」
「ですが、江湖の道義に反します。どうかお見逃しを」
男のやや後ろへ控えていた峨眉派の夫人が、苛立たしげに言った。
「武当の弟子は、そうやって他人様のことにいちいち嘴を突っ込むのかい! これ以上邪魔立てするなら、もう容赦しないよ!」
この女は血気盛んだ。下手に刺激してはまずい。一門を退いたと言っているが、まるきり無関係の様子でも無さそうだし、五人の腕前から考えても、かつては門内でそれなりの地位だったに違いない。戦う羽目になれば武当・峨眉両派の関係にもひびが入る。何とか穏便に話し合いで決着をつけたかった。
抱拳の礼をとりながら、紅鴛は慎重に話し始めた。
「思うに、天耳老丐が姿を見せないので、ご先輩方は焦っておられるのでしょう。急いてはことを仕損じます。ここは落ち着いて、別の手立てを考えませんか。もしこの娘を殺して天耳老丐が現れなければ、死人を余計に増やすだけで、相手もますます態度を硬化させるかもしれません」
婦人は鼻を鳴らした。
「腕だけじゃなくて、口も達者ときた。天耳老丐の身内をそこまで庇うとは、もしかして武当派はあいつと結託してるのかい!」
まったく。どうしてそう、嫌な方向に話をかき回そうとするのだ。
紅鴛は内心腹を立てながらも、懸命に言葉を続けた。
「私は天耳老丐に知恵をお借りしたいだけです。いいでしょう。何も隠し立てすることはございませんから、皆さんの疑いを解くべく、ありのままを申し上げます。私は武当の弟子で、薛紅鴛と申します。半年前、我が派は江南の柯家に縁談を申し込まれ、婚礼を間近に控えておりましたが……」
話半ばで、婦人が腹を抱えて笑い出した。
「あはっ……あっはっは、なぁんだ! じゃ、あんたがあの有名な、妹弟子に夫を盗まれた武当の次期掌門だったんだね! ほら、みんなも知ってるだろ。あの「紅袖仙子」さ。武当を継いで、いい男も手に入れて、万事が順風満帆だったのにねぇ」
紅鴛は真っ赤になって俯いた。掃把星の過ちを思い出せ。冷静にならなくては。沸々と湧き上がってくる怒りを必死に抑え、声が震えないように続けた。
「その通りです。私は今、行方知れずになった妹弟子の白翠繡と、柯六侠を探している最中なのです。二人が湖南のあたりを通ったという消息を得たので、天耳老丐なら何かを知っているだろうと、訪ねてきたのです。これが全てです。そこの娘を庇ったのは、単に武当の教えと、江湖の道義を守りたい気持ちゆえです」
女は笑って手を振り、それから真顔になった。
「わかったよ。ご立派なこった。だけど、男を盗まれ、門派を貶められたあんたならわかるはずだよ。武林で名のある門派が声望を守り抜くには、時に血を流すことも躊躇わずやらなきゃいけない。そこの娘と天耳老丐は、峨眉派のためにも生きてもらっちゃ困るのさ。これだけ言えば、じゅうぶんだろ?」
「天耳老丐の命を奪うおつもりだったのですか?」
「安心おし。やつが姿を見せたら、先にあんたが求めてる消息を聞くといいさ。だけど、そこから先、私達の用事には首を突っ込まないでおくれ」
「ですが――」
「くどいよ! あんただって、その妹弟子を探すのは、結局殺すためだろ! もしあんたの男を奪ったのが、よその門派の女でも、やっぱりあんたは探して殺そうとするさ。それが、あたしらの口封じと何が違うんだい。身内だろうが他人だろうが、一門の名を傷つける奴は生かしちゃおけない。そうだろう?」
紅鴛は、咄嗟に反論出来なかった。女の言葉にも一理あると思ったのだ。もし、柯六侠と逃げたのが翠繡じゃなくて、他の女だったとしたら。自分は何の葛藤も無かったかもしれない。師に命じられれば、一門の名誉のため躊躇わず相手の命を奪おうとしたのではないか。翠繡は同門の弟子で、そのうえ義妹だから情がある。でも、関係の無い赤の他人だったら……。
「何が同じものか!」
力強い声が、沈黙を破った。
叫んだのは他でもない、楊楓だった。
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