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十五 義妹
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薛紅鴛と白翠繡。姉妹は一丈余りの距離を置いて見つめ合った。
半年ぶりに会った義妹は、痩せていた。肌は血の気が失せ気味だった。着ているものも継ぎはぎだらけ、髪もいたんでいるように見える。潤んだ瞳には、得も言われぬ感情が浮かんでいた。
どちらも立ち尽くしたまま、言葉を発しなかった。
背後で剣を引き抜く音がして、この沈黙を打ち破った。楊楓の憎々しげな声が聞こえる。
「この裏切り者――」
紅鴛は目が覚めたように、自分の務めを思い出した。片手をあげて、鋭く弟弟子を制す。
「待って、楊師弟」彼だけではなく、自分にも言い聞かせるように続けた。「これは私の務め。あなたは手を出さないで」
楊楓は唇をきつく真一文字に結び、翠繡を凝視していたが、やがてゆっくり剣を納めた。
紅鴛は冷静に状況を見極めようとした。この毒園に義妹がいるということは、洞窟に住んでいるのも彼女なのか。柯士慧も一緒なのか。蜈蚣大尊は本当に存在するのか。
「姉さん」翠繡が先に口を開いた。「来てくれたのね……」
声が微かに震えている。それから、ゆっくり足を踏み出してきた。
「それ以上近づかないで」
紅鴛はぴしゃりと言った。
微かに身を震わせて、翠繡が動きを止める。
「ここへ来たのは、あなたの罪を清算するため。師匠から受けた命を果たすためよ」紅鴛は長剣を抜き放って言った。「武当の姉弟子として命じます。白翠繡、そこに跪きなさい」
翠繡は思いのほか従順だった。大人しく両ひざを着くと、抱拳礼をとって頭を垂れた。
「師姐のお言葉を承ります」
「あなたは師の許しも得ず山を下り、そのまま戻らなかった。既に決まっていた柯家との縁談を破談させ、武当派の名誉を深く傷つけた……!」言葉と一緒に、剣先が震えていた。改めて口にすると、義妹の行いはとても許されることでは無かった。「何か弁明は?」
翠繡は目を伏せたまま、小さく首を振った。
「ありません」
「では、罪を認めるの?」
「はい」
義妹は小さいが、はっきり聞こえる声で答えた。
「師匠は私に命じた。命を以て償わせるべしと。あなたの首を武当山へ持ち帰り、始祖の墓前へ捧げ、武林への弁明の証とします」
言いながら、紅鴛は少し息苦しくなった。
自らの手で義妹を斬らねばならないのだ。例え武当のためでも、躊躇いがある。
そんな彼女の気持ちもよそに、義妹は深く頭を垂れた。
「どんな罰もお受けします」
話は終わった。
後は罪人の首を落とすだけだ。
けれども、紅鴛の心はまるで成り行きに納得していなかった。もっと翠繡に弁明して欲しかった。武当の掟に照らし、極力罪を軽く出来るのであれば、そうしたかった。続けて尋ねた。
「何故、こんなことをしたの? あっさり認めるなら……間違いだとわかっていたなら、どうして?」
翠繡は黙っている。殆ど首を差し出す前の、無抵抗な罪人そのものだった。
たまりかねて、紅鴛が声を荒げた。
「答えなさい!」
「……柯士慧様のためです」翠繡が、ぽつりと言った。「あの方をお慕いしていたから。あの方も、私を受け入れてくれたから。だから二人で逃げました」
その答えは、決して青天の霹靂というわけではなかった。
翠繡と士慧が失踪して以来、その理由について紅鴛も嫌というほど考えてきたのだ。良い方向にも悪い方向にも。その理由が何であれ、受け入れなければならなかったから。
義妹と婚約者が駆け落ちした。これは、数ある予想のうちの一つだった。
けれども、こうして目の前で告白されると、たとえようもない脱力感に襲われた。この世で一番親しい義理の妹が、自分の婚約者に横恋慕していた。一生を託すと心を預けていた婚約者もまた、自分との約束に背いていた。そんな二人を、この半年間必死に追いかけてきたのか。
まるで道化だ。こんな馬鹿げた話は無かった。笑うに笑えず、泣くに泣けない。
いや、もしかしたらとっくに心の底ではそんな気がしていたのかもしれない。だから、蜈蚣大尊という悪人が本当に存在して、二人がやむにやまれず湖南の奥底へ逃げたのなら、という無茶苦茶な憶測を信じたくなったのかもしれない。
握った剣の先が力無く垂れる。紅鴛は落ち着きなく視線をさまよわせ、茫然と頷いた。
「そう……。そうだったの」
「ごめんなさい。姉さん」
武当次期掌門としての顔はもう保てなかった。ぐったり膝を着きそうになるのを辛うじて堪えたが、足は殆ど棒になっていた。
「いつから、士慧さんのことを?」
「三年前。姉さんが奥義の修行で裏山にこもっていた時から。私、山で育てた野菜を売りに街へ出かけて、そこで士慧さんと知り合ったの。それから、ずっと文通して……」
紅鴛が柯士慧と知り合ったのは二年前だ。それよりも先に、翠繡は密かに彼と交際していたのか。自分は、何一つ知らなかった。
「私や師匠に黙っていたのは、何故なの?」
翠繡は暗い声で言った。
「士慧さんは世家の跡継ぎで将来有望な剣客。私は武当の平凡な弟子で、姉さんとは違う。とても身分が釣り合わないもの。結婚したくても、柯家も武当派も許してくれるわけがない」
「あなたを想っていたのなら、彼はどうして私と縁談なんか……」
「隠れ蓑に使ったの。姉さんと士慧さんが正式に交際すれば、彼も武当山を訪れやすくなるから。私は未熟で、山をなかなか下りれないから、彼とは殆ど会えなかった。婚礼の直前に逃げたのも、前々からそう決めていたの。お祝い事で一門全員の気が緩むから、連れ出してもらうにはこれ以上ない機会だったの」
紅鴛は愕然とした。にわかには信じがたい話だった。義妹の話が真実なら、紅鴛が柯士慧と過ごした二年間は、全てが芝居、偽りだったということになる。細やかな好意も、将来を誓う言葉も……。
浮かぶ限りの思い出が、頭に溢れてくる。
初めて士慧と剣を交え意気投合した冬の日。文通を重ねた日々。一ヵ月ぶりに再会して、互いの趣味や悩みの語りに没頭した夜。それからしばらく続いた、師匠にも弟子達にも秘密の逢瀬。正式に縁談が決まった時、雨の降る関帝廟で聞いた甘い囁き……。それが全部、嘘だったなんて。
怒りと悲しみ、他にも色んな感情の波が押し寄せて、紅鴛の心をかき乱した。吐き気と頭痛、それと激しい震えに襲われた。涙の筋がいくつも頬を伝っていることも、いつの間にか剣を取り落としていることにも気づかなかった。
半年ぶりに会った義妹は、痩せていた。肌は血の気が失せ気味だった。着ているものも継ぎはぎだらけ、髪もいたんでいるように見える。潤んだ瞳には、得も言われぬ感情が浮かんでいた。
どちらも立ち尽くしたまま、言葉を発しなかった。
背後で剣を引き抜く音がして、この沈黙を打ち破った。楊楓の憎々しげな声が聞こえる。
「この裏切り者――」
紅鴛は目が覚めたように、自分の務めを思い出した。片手をあげて、鋭く弟弟子を制す。
「待って、楊師弟」彼だけではなく、自分にも言い聞かせるように続けた。「これは私の務め。あなたは手を出さないで」
楊楓は唇をきつく真一文字に結び、翠繡を凝視していたが、やがてゆっくり剣を納めた。
紅鴛は冷静に状況を見極めようとした。この毒園に義妹がいるということは、洞窟に住んでいるのも彼女なのか。柯士慧も一緒なのか。蜈蚣大尊は本当に存在するのか。
「姉さん」翠繡が先に口を開いた。「来てくれたのね……」
声が微かに震えている。それから、ゆっくり足を踏み出してきた。
「それ以上近づかないで」
紅鴛はぴしゃりと言った。
微かに身を震わせて、翠繡が動きを止める。
「ここへ来たのは、あなたの罪を清算するため。師匠から受けた命を果たすためよ」紅鴛は長剣を抜き放って言った。「武当の姉弟子として命じます。白翠繡、そこに跪きなさい」
翠繡は思いのほか従順だった。大人しく両ひざを着くと、抱拳礼をとって頭を垂れた。
「師姐のお言葉を承ります」
「あなたは師の許しも得ず山を下り、そのまま戻らなかった。既に決まっていた柯家との縁談を破談させ、武当派の名誉を深く傷つけた……!」言葉と一緒に、剣先が震えていた。改めて口にすると、義妹の行いはとても許されることでは無かった。「何か弁明は?」
翠繡は目を伏せたまま、小さく首を振った。
「ありません」
「では、罪を認めるの?」
「はい」
義妹は小さいが、はっきり聞こえる声で答えた。
「師匠は私に命じた。命を以て償わせるべしと。あなたの首を武当山へ持ち帰り、始祖の墓前へ捧げ、武林への弁明の証とします」
言いながら、紅鴛は少し息苦しくなった。
自らの手で義妹を斬らねばならないのだ。例え武当のためでも、躊躇いがある。
そんな彼女の気持ちもよそに、義妹は深く頭を垂れた。
「どんな罰もお受けします」
話は終わった。
後は罪人の首を落とすだけだ。
けれども、紅鴛の心はまるで成り行きに納得していなかった。もっと翠繡に弁明して欲しかった。武当の掟に照らし、極力罪を軽く出来るのであれば、そうしたかった。続けて尋ねた。
「何故、こんなことをしたの? あっさり認めるなら……間違いだとわかっていたなら、どうして?」
翠繡は黙っている。殆ど首を差し出す前の、無抵抗な罪人そのものだった。
たまりかねて、紅鴛が声を荒げた。
「答えなさい!」
「……柯士慧様のためです」翠繡が、ぽつりと言った。「あの方をお慕いしていたから。あの方も、私を受け入れてくれたから。だから二人で逃げました」
その答えは、決して青天の霹靂というわけではなかった。
翠繡と士慧が失踪して以来、その理由について紅鴛も嫌というほど考えてきたのだ。良い方向にも悪い方向にも。その理由が何であれ、受け入れなければならなかったから。
義妹と婚約者が駆け落ちした。これは、数ある予想のうちの一つだった。
けれども、こうして目の前で告白されると、たとえようもない脱力感に襲われた。この世で一番親しい義理の妹が、自分の婚約者に横恋慕していた。一生を託すと心を預けていた婚約者もまた、自分との約束に背いていた。そんな二人を、この半年間必死に追いかけてきたのか。
まるで道化だ。こんな馬鹿げた話は無かった。笑うに笑えず、泣くに泣けない。
いや、もしかしたらとっくに心の底ではそんな気がしていたのかもしれない。だから、蜈蚣大尊という悪人が本当に存在して、二人がやむにやまれず湖南の奥底へ逃げたのなら、という無茶苦茶な憶測を信じたくなったのかもしれない。
握った剣の先が力無く垂れる。紅鴛は落ち着きなく視線をさまよわせ、茫然と頷いた。
「そう……。そうだったの」
「ごめんなさい。姉さん」
武当次期掌門としての顔はもう保てなかった。ぐったり膝を着きそうになるのを辛うじて堪えたが、足は殆ど棒になっていた。
「いつから、士慧さんのことを?」
「三年前。姉さんが奥義の修行で裏山にこもっていた時から。私、山で育てた野菜を売りに街へ出かけて、そこで士慧さんと知り合ったの。それから、ずっと文通して……」
紅鴛が柯士慧と知り合ったのは二年前だ。それよりも先に、翠繡は密かに彼と交際していたのか。自分は、何一つ知らなかった。
「私や師匠に黙っていたのは、何故なの?」
翠繡は暗い声で言った。
「士慧さんは世家の跡継ぎで将来有望な剣客。私は武当の平凡な弟子で、姉さんとは違う。とても身分が釣り合わないもの。結婚したくても、柯家も武当派も許してくれるわけがない」
「あなたを想っていたのなら、彼はどうして私と縁談なんか……」
「隠れ蓑に使ったの。姉さんと士慧さんが正式に交際すれば、彼も武当山を訪れやすくなるから。私は未熟で、山をなかなか下りれないから、彼とは殆ど会えなかった。婚礼の直前に逃げたのも、前々からそう決めていたの。お祝い事で一門全員の気が緩むから、連れ出してもらうにはこれ以上ない機会だったの」
紅鴛は愕然とした。にわかには信じがたい話だった。義妹の話が真実なら、紅鴛が柯士慧と過ごした二年間は、全てが芝居、偽りだったということになる。細やかな好意も、将来を誓う言葉も……。
浮かぶ限りの思い出が、頭に溢れてくる。
初めて士慧と剣を交え意気投合した冬の日。文通を重ねた日々。一ヵ月ぶりに再会して、互いの趣味や悩みの語りに没頭した夜。それからしばらく続いた、師匠にも弟子達にも秘密の逢瀬。正式に縁談が決まった時、雨の降る関帝廟で聞いた甘い囁き……。それが全部、嘘だったなんて。
怒りと悲しみ、他にも色んな感情の波が押し寄せて、紅鴛の心をかき乱した。吐き気と頭痛、それと激しい震えに襲われた。涙の筋がいくつも頬を伝っていることも、いつの間にか剣を取り落としていることにも気づかなかった。
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