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第一部 嫉妬と情愛の狭間
第35話 前兆
しおりを挟む夜陰に紛れるからいいだろうと、奥座敷の入り口の前に、紫雨は白虎を呼び付けていた。白虎のふわりとした柔らかい毛並みを、どこか名残惜しそうに撫でて騎乗する。
蒼竜屋敷に説明にしに行くだけだと、紫雨は言っていた。だが事態はどう動くのかわからない。大司徒としての『力』と四神を、香彩に継承させるということは、紫雨にとってずっと支えて貰っていた、四神達との別れを意味していた。
白虎が紫雨の手に応えるように、唸り声を上げる。それはどこか紫雨を慰めるようであり、叱咤するようでもあった。
その『力』と四神が香彩を救い、国の祀りを救うことになるのだ。国はともかく香彩の救いになるのなら、複雑な想いを抱えながらも紫雨は、喜んで『力』を差し出すだろう。
譬えそれが、契りという形になっても。
やがて宙を駆けるそれを、療はひらひらと手を振って見送る。
見えなくなっていく背中に、さらさらと背に落ち揺れる金糸の髪に、何故か心が痛む。
(……複雑だなぁ……)
自分が何に対して痛いと思うのか、わからない。
重い蓋をしている感情を、見て見ぬ振りをしている自覚はある。
みんな大事なのだ。
香彩も竜紅人もそして、紫雨も。
みんなみんな大事なのだ。
だが紫雨の心情を垣間見た今、甘える振りをしてあの大きな背中に抱き付けば良かったかと、療は思う。
(……体格差で背中というか胴? 腰あたりにしがみつく感じになるんだろうけど)
それで少しでもぬくもりを感じて欲しかった。貴方が大事なのだと伝えられたら良かったのにと、今更になって思うのだ。
やがて紫雨の気配が遠い所へ行ったことを確認して、療は再び奥座敷の中へと入る。
漁ったあとの残る衣装櫃を綺麗に片付けようと思った。すでに用のないこの部屋だったが、桜香の私品だけが散乱していたら、さすがに楼主や紅麗の頭の印象は良くないだろうと思ったからだ。
一歩踏み出して。
ふわりと甘く香るのは、神桜の香。
それも濃厚な香。
まるで自分の『御手付き』が側にいるようだと療は思った。
噎せ返るような香りに、療の意識が朦朧となる。
ふと気付けば視界は紅麗の奥座敷ではなく、暗然たる世界を映し出していた。
──それはまるで真っ暗な空間にひとり、放り出されたかのようで……。
「……え」
発した声が自身の頭に響く。
何が起こったのか分からなかった。
紅麗の奥座敷にいたはずの自分が、光の届かない暗闇の世界に立っていた。
まるで『誰かの領域』に引き摺り込まれたかのようだと、療は頭の片隅でそう認識する。
濃厚な神桜の香りに包まれ、浸されたこの空間は果たして一体『何』なのか。
視界の効かないこの闇を、探ろうとすればするほど。
自分の持つ記憶の知識を用いて、考えれば考えようとするほど。
香りは更に増して、療から考える力を奪っていく。
(……自分の『御手付き』がいるって、こんな感じなのかな)
何者かわからない領域にいるというのに、こんなことを考えてしまう自分がおかしくて、療は自身を嗤う。
だが何か考えていないと、この神桜の香りに療の自我そのものが、拐われてしまいそうだった。
決して嫌いな香りではない。
寧ろ本能を擽る、好ましい香りだ。
神桜の香と『御手付き』の香りはとてもよく似ている。
自分の『御手付き』にしてもいいと思える情を掛けた者が、自分の為だけにこの香りを振り撒くのだ。翻弄されて真竜の本能を曝け出しても良いと思える程の、香りの甘やかさが堪らないと療は思った。
(……竜ちゃんが我慢足りないんだって、ずっと思ってたけど……)
擬似香ですら、頭に霞みが掛かったようにぼぉうとして、本能を引き摺り出されそうになるのだ。目の前に好いた者がいて、その者は自分のことが好きで好きで堪らないのだという香りを出しているのに、素直ではない、そっけない態度を見せていたのなら、竜紅人も堪ったものではなかっただろう。
絡み付くような香りに捕らわれる。
思考すら、奪われて。
その心地良さに揺蕩いそうになる意識は。
「──……!!」
耳を劈くような女性の叫び声によって、引き戻される。
断末魔を思わせるそれに療は、思わず耳を塞いだ。だが内から生じているものなのか、譬え耳を塞いでいても、声は療を追い掛けてくる。
「……っ!!」
無駄だと分かっていても、ぎゅっと目を閉じて耐えるしかなかった。
幾度となく聞こえてくる、常軌を逸した金切り声と同時に襲ってくるのは、痛い苦しい悲しいといった、激しい感情の波だ。
本当に一体何が起こっているのか。
この声は誰なのか。
この闇の空間に引き摺り込んだのは、誰なのか。
何もかもがわからないまま、療はひたすら耐える。
やがて。
その声は遠ざかり。
恐る恐る目を開ければ、見えるのは奥座敷の桜香の部屋だった。
深く深く安堵の息をついた療は、自身の背中が冷たい汗で濡れていることにようやく気付き、身を震わせる。
まるで自分の『力』を身の内から、根こそぎ持っていかれたような気がした。力が入らない足を何とか動かして、椅子に座る。
荒々しく息を吐けば、喉が渇きを覚える。
卓子に置かれていた、香茶の入った茶器を掴んで飲もうとして、療は目を見張った。
「えっ……!」
桜香の淹れてくれた香茶だった。
確かこれは香彩が好きな、神桜の葉を使った香茶だ。神桜の咲く時期ならば、花片を数枚浮かべて飲むのが好きなのだと、香彩の好きな飲み方を知っていた桜香。そして療もまたこの香茶が好きだった為か、今回もまた同じ淹れ方をしてくれていた。
そんな香茶に浮かぶ、薄紫色の花片が。
何かに呼応し、仄かに光っていたそれは。
まるで初めから幻であったかのように、光の軌跡を描きながら、ゆっくりと消えてしまったのだ。
療はただ茫然と、その様子を見ていることしか出来なかった。
もしもこの場に紫雨や香彩がいてくれたなら、専門的な目で見てくれただろう。あの光の軌跡の気配を深く読み取って、状況を理解できたかもしれない。
神桜の花片が消えた。
そのことが何を意味するのかわからないまま、療は喉の渇きに負けて、その香茶を一気に飲み干す。
療は気付いていなかった。
濃厚で強い神桜の香りに隠れ、紛れるようにして漂う土の香りを。
──その死臭を……。
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