蒼竜は泡沫夢幻の縛魔師を寵愛する

結城星乃

文字の大きさ
35 / 409
第一部 嫉妬と情愛の狭間

第35話 前兆

しおりを挟む

 夜陰に紛れるからいいだろうと、奥座敷の入り口の前に、紫雨むらさめは白虎を呼び付けていた。白虎のふわりとした柔らかい毛並みを、どこか名残惜しそうに撫でて騎乗する。
 蒼竜屋敷に説明にしに行くだけだと、紫雨は言っていた。だが事態はどう動くのかわからない。大司徒だいしととしての『力』と四神を、香彩かさいに継承させるということは、紫雨にとってずっと支えて貰っていた、四神達との別れを意味していた。
 白虎が紫雨の手に応えるように、唸り声を上げる。それはどこか紫雨を慰めるようであり、叱咤するようでもあった。
 その『力』と四神が香彩を救い、国の祀りを救うことになるのだ。国はともかく香彩の救いになるのなら、複雑な想いを抱えながらも紫雨は、喜んで『力』を差し出すだろう。

 譬えそれが、契りという形になっても。

 やがて宙を駆けるそれを、りょうはひらひらと手を振って見送る。
 見えなくなっていく背中に、さらさらと背に落ち揺れる金糸の髪に、何故か心が痛む。


(……複雑だなぁ……)


 自分が何に対して痛いと思うのか、わからない。
 重い蓋をしている感情を、見て見ぬ振りをしている自覚はある。
 みんな大事なのだ。
 香彩も竜紅人りゅこうともそして、紫雨も。
 みんなみんな大事なのだ。
 だが紫雨の心情を垣間見た今、甘える振りをしてあの大きな背中に抱き付けば良かったかと、療は思う。


(……体格差で背中というか胴? 腰あたりにしがみつく感じになるんだろうけど)


 それで少しでもぬくもりを感じて欲しかった。貴方が大事なのだと伝えられたら良かったのにと、今更になって思うのだ。





 やがて紫雨の気配が遠い所へ行ったことを確認して、療は再び奥座敷の中へと入る。
 漁ったあとの残る衣装櫃いしょうひつを綺麗に片付けようと思った。すでに用のないこの部屋だったが、桜香おうかの私品だけが散乱していたら、さすがに楼主や紅麗のとうの印象は良くないだろうと思ったからだ。


 一歩踏み出して。
 ふわりと甘く香るのは、神桜の香。
 それも濃厚な香。
 まるで自分の『御手付みてつき』が側にいるようだと療は思った。


 噎せ返るような香りに、療の意識が朦朧となる。
 ふと気付けば視界は紅麗の奥座敷ではなく、暗然たる世界を映し出していた。


 ──それはまるで真っ暗な空間にひとり、放り出されたかのようで……。




「……え」


 発した声が自身の頭に響く。
 何が起こったのか分からなかった。
 紅麗の奥座敷にいたはずの自分が、光の届かない暗闇の世界に立っていた。
 まるで『誰かの領域』に引き摺り込まれたかのようだと、療は頭の片隅でそう認識する。
 濃厚な神桜の香りに包まれ、浸されたこの空間は果たして一体『何』なのか。
 視界の効かないこの闇を、探ろうとすればするほど。
 自分の持つ記憶の知識を用いて、考えれば考えようとするほど。
 香りは更に増して、療から考える力を奪っていく。


(……自分の『御手付みてつき』がいるって、こんな感じなのかな)


 何者かわからない領域にいるというのに、こんなことを考えてしまう自分がおかしくて、療は自身を嗤う。
 だが何か考えていないと、この神桜の香りに療の自我そのものが、拐われてしまいそうだった。

 決して嫌いな香りではない。
 寧ろ本能を擽る、好ましい香りだ。

 神桜の香と『御手付みてつき』の香りはとてもよく似ている。
 自分の『御手付みてつき』にしてもいいと思える情を掛けた者が、自分の為だけにこの香りを振り撒くのだ。翻弄されて真竜の本能を曝け出しても良いと思える程の、香りの甘やかさが堪らないと療は思った。


(……竜ちゃんが我慢足りないんだって、ずっと思ってたけど……)


 擬似香ですら、頭に霞みが掛かったようにぼぉうとして、本能を引き摺り出されそうになるのだ。目の前に好いた者がいて、その者は自分のことが好きで好きで堪らないのだという香りを出しているのに、素直ではない、そっけない態度を見せていたのなら、竜紅人りゅこうとも堪ったものではなかっただろう。


 絡み付くような香りに捕らわれる。
 思考すら、奪われて。
 その心地良さに揺蕩いそうになる意識は。


「──……!!」 


 耳をつんざくような女性の叫び声によって、引き戻される。
 断末魔を思わせるそれに療は、思わず耳を塞いだ。だが内から生じているものなのか、譬え耳を塞いでいても、声は療を追い掛けてくる。


「……っ!!」


 無駄だと分かっていても、ぎゅっと目を閉じて耐えるしかなかった。
 幾度となく聞こえてくる、常軌を逸した金切り声と同時に襲ってくるのは、痛い苦しい悲しいといった、激しい感情の波だ。

 本当に一体何が起こっているのか。
 この声は誰なのか。
 この闇の空間に引き摺り込んだのは、誰なのか。
 何もかもがわからないまま、療はひたすら耐える。
 
 やがて。
 その声は遠ざかり。
 恐る恐る目を開ければ、見えるのは奥座敷の桜香おうかの部屋だった。
 深く深く安堵の息をついた療は、自身の背中が冷たい汗で濡れていることにようやく気付き、身を震わせる。
 まるで自分の『力』を身の内から、根こそぎ持っていかれたような気がした。力が入らない足を何とか動かして、椅子に座る。
 荒々しく息を吐けば、喉が渇きを覚える。
 卓子つくえに置かれていた、香茶の入った茶器を掴んで飲もうとして、療は目を見張った。


「えっ……!」


 桜香の淹れてくれた香茶だった。
 確かこれは香彩が好きな、神桜の葉を使った香茶だ。神桜の咲く時期ならば、花片を数枚浮かべて飲むのが好きなのだと、香彩の好きな飲み方を知っていた桜香。そして療もまたこの香茶が好きだった為か、今回もまた同じ淹れ方をしてくれていた。

 そんな香茶に浮かぶ、薄紫色の花片が。

 何かに呼応し、仄かに光っていたそれは。
 まるで初めから幻であったかのように、光の軌跡を描きながら、ゆっくりと消えてしまったのだ。

 療はただ茫然と、その様子を見ていることしか出来なかった。
 もしもこの場に紫雨や香彩がいてくれたなら、専門的な目で見てくれただろう。あの光の軌跡の気配を深く読み取って、状況を理解できたかもしれない。
 
 神桜の花片が消えた。

 そのことが何を意味するのかわからないまま、療は喉の渇きに負けて、その香茶を一気に飲み干す。



 療は気付いていなかった。
 濃厚で強い神桜の香りに隠れ、紛れるようにして漂う土の香りを。

 


 ──その死臭を……。


しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい

マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。 最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡) 世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。

過保護な父の歪んだ愛着。旅立ちを控えた俺の身体は、夜ごとに父の形で塗り潰される

中山(ほ)
BL
「パックの中、僕の形になっちゃったね」 夢か現か。耳元で囁かれる甘い声と、内側を執拗に掻き回す熱。翌朝、自室で目覚めたパックに、昨夜の記憶はない。ただ、疼くような下腹部の熱だけが残っていた。 相談しようと向かった相手こそが、自分を侵食している張本人だとも知らずに、パックは父の部屋の扉を開く。 このお話はムーンライトでも投稿してます〜

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

【完結】幼馴染から離れたい。

June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。 βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。 番外編 伊賀崎朔視点もあります。 (12月:改正版) 8/16番外編出しました!!!!! 読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭 1/27 1000❤️ありがとうございます😭 3/6 2000❤️ありがとうございます😭 4/29 3000❤️ありがとうございます😭 8/13 4000❤️ありがとうございます😭 12/10 5000❤️ありがとうございます😭 わたし5は好きな数字です💕 お気に入り登録が500を超えているだと???!嬉しすぎますありがとうございます😭

薔薇摘む人

Kokonuca.
BL
おじさんに引き取られた男の子のお話。全部で短編三部作になります

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

黒の執愛~黒い弁護士に気を付けろ~

ひなた翠
BL
小野寺真弥31歳。 転職して三か月。恋人と同じ職場で中途採用の新人枠で働くことに……。 朝から晩まで必死に働く自分と、真逆に事務所のトップ2として悠々自適に仕事をこなす恋人の小林豊28歳。 生活のリズムも合わず……年下ワンコ攻め小林に毎晩のように求められてーー。 どうしたらいいのかと迷走する真弥をよそに、熱すぎる想いをぶつけてくる小林を拒めなくて……。 忙しい大人の甘いオフィスラブ。 フジョッシーさんの、オフィスラブのコンテスト参加作品です。

処理中です...