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第一部 嫉妬と情愛の狭間
第62話 休憩処にて 其の四
しおりを挟む「──……ああ。そうだ」
少しの間を開けて、低めの声でそう応えを返した竜紅人は、器用にも櫛一本で髪を纏め始めた。
自身が使う為に持っていた、何の装飾もない紐を仮止め代わりにして括り付ける。
「紫雨が……どうして……?」
香彩には分からなかった。
何をどうしたら療が用意した荷物を、紫雨がこの蒼竜屋敷に持ってくることになったのか。
そもそも紫雨がどこまで知っているのか、どこまで関わっているのか、香彩はよく知らなかった。
「……最近おっさんの仕事、忙しくなってただろう?」
こくりと香彩が頷く。
ある時から紫雨が、香彩と同じ私室に戻らず、もうひとつの政務私室に泊まり込むことが多くなった。
戻れなくなった紫雨の代わりに、竜紅人が同室になったのは記憶に新しい。
「地上で生まれ落ちて、すぐに気配を消してしまった真竜がいる。しかも唐突な消え方に堕ちたのではと、ずっと探していたらしい」
「……それってもしかして」
「──ああ、桜香だ」
そこで繋がるのかと香彩は思った。
又聞きだが、と竜紅人は話を続ける。
紫雨は桜香の居場所を突き止め、麾下を張らせていたという。竜紅人が頻繁にその場所に訪れていたことも、そして療と香彩までもがその場所に現れたことも、紫雨は知っていたのだ。
「きっと報告の兼ね合いもあったんだろう。桜香を『中』に還しに行く際、療が紫雨を誘ったと聞いている」
紫雨は国の祀り事を行う『大司徒』であるのと同時に、国の六つの機関である六司《りくし》の統括でもある『大宰』を兼任していた。
六司の大司官達は、一日の政務の終わりに大宰政務室に集まり、報告をする義務がある。
本来なら療は、真竜を『中』へ還した件のみを、直属の上司に報告するだけでよかったのだ。
だが紫雨もまた、桜香のことで麾下を張らせ、経過報告を受けている。それに今回のことは香彩も絡んでいる為、報告だけよりも実際に紫雨に見て貰った方が良いと、療は判断したのだろう。
療と共に紅麗の奥座敷を訪れ、桜香に会ったということは、どのような理由で桜香が療の『中』に還るのか、紫雨に知られたということだ。
それがどういうことなのか心の中にすとんと落ちた時、何とも言えない居た堪れない気持ちが胸を占めて、香彩は顔を赤らめた。
しかも丁寧に衣着を脱がせているはずがないと、あの明け透けな物言いで療が言ったことを、紫雨が聞いていたということだ。
本当に居た堪れない。
決して悪いことをしているわけではないのに、後ろめたい気持ちになってしまうのは、何故だろう。
(……それに)
いま着ている衣着を、持って来て貰っているのだ。
情事の痕の濃い、この蒼竜屋敷に。
(……っ!)
恥ずかしさと居た堪れなさのあまり、ふわりと身体を包む森の香りを押し退けるように、『竜紅人の御手付きという名の鎖』である甘い香りが辺りに漂い始める。
それに気付かない竜紅人ではなかった。
「ん……」
すぐ耳元に竜紅人の唇を感じて、香彩は擽ったそうに、くぐもった声を上げた。この香りも全て自分のものだと言わんばかりに、嗅いでは吸い込む竜紅人に、一種の独占欲のようなものを感じてしまう。
この距離でこの香りを感じていいのは貴方だけなのだと、そんな気持ちが心を占めていく。
「……っ」
名残惜しそうに、そして嫉妬する気持ちを込めるかのように、耳輪に甘噛みし、接吻を落として竜紅人が離れる。
紫雨のことを考えて出してしまった香りだというのに、昨日ほどの激情を感じないのは、昨夜から先程まで心と身体で、お互いの想いを確かめ合ったからだろうか。
(……心内にある焔を隠しているんだろうか)
それとも別の何かを。
瞳を見れば何か分かるかもしれない。
だが仮結された髪の軽い縺れを解すように、丁寧に櫛を使われている為、彼の方を振り向くことが出来ない。姿見越しの竜紅人は、今は自分の身体に隠れてしまっている。
「……紫雨、何か……言ってた?」
彼の表情が分からぬまま、香彩が小さな声で竜紅人にそう聞いた。
譬え療に頼まれたからといって、紫雨がわざわざ着替えだけを持って、蒼竜屋敷を訪れるだろうか。
どういう状況の後なのかを知りながら。
普段から猥りがわしい発言が多い人だ。華こそ買わないが非番の前夜には、なじみの紅麗の遊楼で、遊姫を侍らせて酒を呑むこともある。
濃厚な情事の気配の残る屋敷など、対して気にも止めていないのかもしれない。
(……確かに嫌がらせ半分、ひやかしに来るって、あの人ならやりかねそうだけど)
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