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第一部 嫉妬と情愛の狭間

第72話 不安に揺らめく焔

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 そんな状態で蒼竜に横抱きにされて、空から中庭へ降りて来たとあれば、一体どんな話になるか分かったものではない。
 蒼竜は香彩かさいが心内で心配していることなど、全く気にする様子も見せず、尾で均衡を保ちながら、器用にも二足歩行で歩き出した。
 
 中庭から渡床わたりどのに入り、向かう先は。


(……ああ、やっぱり)


 入り口の引き戸が見えてきて、香彩は顔を赤らめる。
 こんな時に限って渡床わたりどのを歩く人の姿はない。もし誰か通ってくれれば、竜紅人りゅこうとは思い返してくれるかもしれない。そう香彩は思ったが、蒼竜と蒼竜に横抱きにされた自分に、声を掛けられる者など限られている。大概の者は、ばったりと会ってしまったが最後、挨拶もそこそこに踵を返し、内緒話と称して身近な者に話してしまうだろう。尾鰭に羽鰭が付いて一体どんな噂に上るのか、本当に分かったものではない。
 それに人に見られた程度で、竜紅人が思い直して自分を降ろし、六層の私室へ向かうだろうか。
 そこまで考えて香彩は、心の中でかぶりを振った。

 絶対にない。
 そう断言出来る。
 
 ぐるぐると蒼竜の唸り声が聞こえてくる。
 その声色に潜むものを、香彩もよく分かっていた。


「──りゅ……、ねぇ待って……!」 


 香彩を抱えたまま蒼竜は、尾の先端を器用に曲げて、部屋の引き戸を開ける。
 そこは第一層目にある、竜紅人の私室だった。
 戸を開けた瞬間に見えるのは、彼らしい飾り気のない部屋だ。
 姿見に椅子に卓子つくえ
 そして衣装櫃いしょうひつに、寝台。
 それらを目にした途端、香彩の背中をぞくりと粟立つものが、駆け上がった気がした。
 もう見ることもないだろうと思っていた、竜紅人の私室の中だ。


(……この場所で、僕は……)


 眠り薬を飲ませた竜紅人を、文字通り襲った。そしてその様子は、半覚醒だった竜紅人に全て知られていたのだ。
 また彼が紅麗に行ってしまった日の夜、いないと分かっていながらも彼の部屋を訪れ、彼を想いながら入口で立ち尽くして泣いた場所も、ここだった。
 

「りゅう……!」


 居た堪れない気持ちと諌める気持ちが、複雑に絡み合いながら、香彩が竜紅人の名前を呼ぶ。
 蒼竜は香彩を抱えたまま、部屋の中に入ったと同時に尾を使って、引き戸をぴしゃりと閉めた。
 その音に、もう何度感じたのか分からない程の粟立つものが、ぞくりと香彩の背筋を駆け上がり、尾骶を鈍く疼かせる。
 気付けば卓子つくえに手を付くように降ろされたと思いきや、背後から蒼竜が香彩に覆い被さった。
 竜紅人と。
 諌める口調で香彩が名前を呼びながら、身体を少し捻らせて蒼竜の顔を見る。


「……りゅう……だめだよ。まずは……報告に、行か……なきゃ、んっ……」 


 蒼竜の長い舌が、透明な蜜を滴らせながら、香彩の唇を這った。
 その味を。
 その甘さを散々教え込まされた香彩の身体は、蜜を求めて色付いた唇を、薄っすらと開こうとする。
 香彩自身も、竜紅人の私室に連れ込まれた時点で分かっていた。

 蒼竜が自分を求めているのだと。

 竜紅人の私室は、彼が真竜ということもあるのか、遠慮して訪れる人はほとんどいない。気安く彼の私室を訪れ、遠慮なく入るのは、りょうと香彩ぐらいだろう。
 対して香彩の私室は、色んな人が訪れる。それに今は別の私室に泊まり込んでいるが、実は紫雨むらさめの私室でもある部屋だ。
 そんな部屋では求めても応じてくれないと、蒼竜は判断したのだろう。


「……りゅう……!」


 少し強めに声を出せば、ぐぅと少し高めの蒼竜の声が返ってくる。


『──もう終業時刻から、随分と過ぎた。報告なら明日の早朝でも問題ないだろう?』
「それは……あれから特に何も起こってないけど……でも……っ、ん!」


 香彩にとって神桜の花片の喪失は、気掛かりなことに相違なかった。何より一番失いたくなかったものを失ってしまった衝撃は大きく、今すぐにでも報告をして、何があったのか調べたかった。
 神桜は、この中枢楼閣にもある。
 それが無事なのかどうかも調べて置きたかった。
 それに。


(……竜紅人は気にならないんだろうか?)


 分身ともいえる神桜を喪った、同朋のことを。


『それに……雨は止んだ。あいつらも同朋のこととなれば、多少の猶予はくれる様だな。勝手なことだ』


 雨。
 猶予。


(……それは一体、何のこと?)


 問いたかったそれは、しゅるりと帯を解く音によって遮られる。
 竜の尾の先端をくねらせて、器用にも帯を掴んで結び目を解けば、帯と袴は私室の木床に落ちた。


「……りゅ……! っ、んんっ…」


 これ以上は何も言わせないとばかりに、唇を這っていた竜の舌が香彩の口腔に入る。舌の先端で上顎の襞の弱い所を責められて、香彩はくぐもった艶声を上げた。
 香彩の背後から覆い被さっていた蒼竜は、卓子つくえに香彩の身体を押し付けるようにして、その竜身を密着させる。
 より蒼竜の顔が近くなったことを確認して香彩は、お手上げだとばかりに、身体を捻らせて蒼竜の首を抱き締めた。
 再び、ぐるぐると蒼竜の唸る声が聞こえてくる。
 口の中を責めていた竜の舌が離れるのと同時に、その口吻こうふんに軽く口付けて、香彩は透き通った綺麗な蒼竜の瞳を覗き込んだ。
 目は思念以上に、心内を語る。
 欲を孕んだ熱の向こうに見える不安に揺らめく焔は、四神の門をくぐる前の人形ひとがたであった時から見えていたものだ。


 
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