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第一部 嫉妬と情愛の狭間
第94話 不穏 其の一
しおりを挟む療にしか聞こえない程度の、小さな掠れた声色で香彩が言った。
療の隠された気持ちに気付いてしまった今、療に酷いことを言わせてしまっているのだという自覚はある。
だが療は、なんで香彩が謝るの? と、感情を割り切った上で、交わしてはぐらかせてしまう。
「──そんなことよりも、香彩!」
療は少し勢いを付けて、首に抱き付いている香彩を剥がし、両方の二の腕を掴んだ。
「今夜、夜半過ぎぐらいでいいかな? 中枢楼閣を出ること、ちゃんと竜ちゃんに伝えてよね! 何ならもう強制でもいいから同行させてよね! オイラあとで変な八つ当たりされるの、本当ご免だし、鬱陶しいし、嫌だからね!」
腕を掴み、香彩の身体を揺すりながら療が言う。
香彩は、分かった分かったからと、返事をしながらも、身体を揺すられるのが嫌で、咄嗟に療の腕を掴んだ、その時だ。
少憩室の引き戸を叩く音が聞こえたのは。
「──香彩様、少し宜しいで……──」
寧の伺いを立てる声が聞こえた気がした。
だがまるで壊れてもいいと思える程の勢いで、開けられる引き戸。
その音の大きさに香彩と療は、お互いの腕を掴んだまま、驚きのあまり固まった。
ゆらり、ゆらり。
ゆらり、ゆらり、と。
引き戸を開けた尾が、反動で揺れる。
その動きが、やけにゆっくりと見えたのは気のせいだろうか。
「……あっちゃ~……」
まず先に我に返ったのは療だった。香彩の腕を離し、額を手で覆う仕草をした。
療が腕を離したことで自然と香彩の腕も下がるが、その表情は固まったまま、引き戸の方を見ている。
今朝、この陰陽屏に見送りという名の牽制を行った時と、同じ大きさの蒼竜が宙に浮いていた。
張り詰めた空気と静けさの中、はたはたと、普段ならあまり聞こえることのない竜翼の羽ばたく音が、やけに大きく聞こえる。
どうして六層目にと、香彩が心内で思ったその時だ。
竜の低く唸る声がした。その声の振動に合わせるかのように、少憩室の空気が重くなる。胸の奥に鉛が溜まり、支えているような嫌な気分がしたと思いきや、重い衝撃がこの辺り一帯に広がった。
蒼竜が抑えていた神気を解放したのだ。
「──りゅ……!」
療が前に出ようとするところを、香彩が手で制する。
しゅるりと空気を切る音がした。
蒼竜の尾の先端が、制していた香彩の手首を捉え、くるりと巻き付く。何とか解こうと香彩が手を動かすが、それは全くびくともしなかった。そして宙に浮く蒼竜もまた、小さな姿であるのにも関わらず、香彩の手の動きに対して、びくともしなかったのだ。
『──『来いよ』、かさい』
まさしくそれは竜の聲だった。
戸惑いながらも、蒼竜の行いに腹立だしさを感じる。
なのにこの身体は、蒼竜に従おうとする。従うことに悦びを感じている。その何とも言えない矛盾に、心と身体が引き離されそうだと香彩は思った。
尾によって引き寄せられて、蒼竜の身体に近付く。
その時だ。
どさりと重い音がした。
何かと思い香彩は、音のした方へ向く。
「……っ、寧……っ!」
自分の副官が苦しそうに息を吐きながら、胸を押さえて倒れていた。
強い神気を身近で浴び、当てられたのだ。
駆け寄ってその身体を支えて起こしたい。頭の中でそう考え、自分の身体を動かそうとして香彩は、改めて竜の聲というものを、竜紅人の制約というものを感じ取った。
蒼竜は『来い』と言った。
その言葉の『力』は継続されている。蒼竜は香彩をどこかへ連れていきたいのだ。
だからそれ以外の行動を取ることが出来ない。
まさに存在そのものを、竜紅人という鎖で繋がれている。
そんな香彩の状況と寧の状態に、療が気付いた。
「──竜……!」
「駄目っ、名前呼んじゃ駄目だよ療! 僕が……僕が何とかするから……だから」
駄目だよと香彩が言う。
療が竜紅人の名前を呼べばそれはもう、今の香彩と同じ『縛り』だ。療はずっと言っていたのだ。竜紅人を『力』で縛りたくないのだと。
(……療には一度)
蒼竜に拐われる前に『力』を使って貰っている。だからこれ以上、自分達のことで療に『力』を使ってほしくない。
「だから……療、寧をお願い」
香彩のその言葉に、療が少し険しい表情を見せながらも、無言で頷いた。
療が寧に近付き、話かける。
荒い息を吐きながらも、寧がそれに応える様子を見ていると、見るなとばかりに手首をぐいっと更に引っ張られた。
腹立だしい気持ちを、ため息の中に籠めて吐き出す。
「……付いていく。ちゃんと従うから……その神気を抑えてよ。竜紅人」
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