ハイ拝廃墟

eden

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動物園⑤

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「ふんふん、臭いますね~。夏は臭いがきつくてかないません」

 コツコツと靴音を鳴らしながら、その声の主は迷わずバックヤードに入って来た。

「ねえ、中村さん?」

 かんは藤田の顔を見るなり、店員から離れて裏口に進んだ。冷凍庫や従業員の簡易ロッカー、廃棄食品や商品の在庫で雑多なバックヤードである。藤田は、すぐにかんのそばに行くことができなかった。

 かんは、ペットボトル飲料のケースを適当に床にぶちまけて、裏口から外に出た。どの方向に行くか迷う時間はない。闇夜の中駆け出した。


 どこまで走っただろうか。かんはもう、走る気力を失って、人気のない道路をとぼとぼと歩いた。足が棒のようになっている。

 生暖かい風が吹いた。潮の香りがした。疲れ切ったかんの目の前にあったのは、埠頭であった。何隻か、小舟がつないである。

 かんはしめたと思い、すっかり色あせた小舟に乗り込んで、舟に置いてあったブルーシートを被って身を隠した。

 ここならきっと、簡単には見つからないだろう。希望的観測である。が、かんはもう、何も考えられなかった。極度の疲労と、安心感から、簡単に意識を手放した。


 陽が昇れば、地上は灼熱の世界になる。ブルーシートの中にいたかんは、むせかえるような暑さに不快感を覚えて目を覚ました。全身、汗だくである。潮の匂いと自分の体臭とで鼻がおかしくなりそうだ。

 かんは、ブルーシートをそっとめくって、辺りに人がいないことを確認して船から降りた。路上には誰もいない。暑くて猫一匹、外にいることができないようだ。

 しばらく歩くと、漢はバス停を見つけた。一時間に1本あるかどうかという路線バスのバス停だった。

 かんはバス停の横にしゃがみこんだ。しばらくぼうっとしていると、頭上が暗くなってきた。空を見上げると、いつのまにか灰色の雲で覆われていた。

 雨が降る。すぐにわかったが、あたりに雨を避けられそうな場所がない。当然、傘もない。コンビニで、カッターに持ち替えずに傘を持ったまま逃げたほうがよかったか。

 極端な暑さは地上の水という水を水蒸気に変えて、分厚い雲を形成していた。それが爆発するかのように雨を落とした。

 滝のような雨に打たれて、かんはすぐにずぶ濡れになった。それでもバス停の横にしゃがんでいると、制限速度よりもゆっくりのスピードでバスがやってきた。

 かんはバスに乗ると、座席が濡れることを気にしないで2人がけの席に座った。

 ズボンのポケットからスマホを取り出し、電源を入れる。ネカフェで見つけたサイトを検索する。


『ハイ!今日逝こう』


 漢は、管理人クレイに宛ててダイレクトメッセージを送った。

『楽にしてほしい』

 しばらくして、クレイから返事があった。

『こんにちは。初めまして、管理人のクレイと申します。当サイトは、死にたい方を楽にするための実験を行っています。これまで100回以上の実験を行ってまいりましたが、実験にご協力いただいた方は、実に95パーセントの方が楽になったと回答しています。この実験にご協力してくださるということであれば、下記の日付、時間、待ち合わせ場所をご確認いただき、来ることが可能かどうかお返事ください。

 日付 8月14日
 時間 午後18時
 待ち合わせ場所 名古屋駅』


 明日の18時に名古屋駅か。


 かんは、財布を取り出して中身を確認した。明日の18時まで逃げきれれば、やっと、解放される。

 名古屋駅か。人ごみに紛れれば、あいつらも簡単に俺に手出しすることはできねえはずだ。


 バスが電車の駅前に停車したところで、かんはバスを降りた。それから、駅の近くにあった格安の衣料品店でTシャツとズボン、キャップを買った。衣服がボロボロだということもあるが、服装を変えたほうが追手をかく乱することができると考えたからだ。

 バッテリーが残り20パーセントを切ったスマホで、近隣に格安ホテルがないか探した。一泊2500円が最安値だった。古びたカプセルホテルである。

 残金は少ない。だが、名古屋駅に行くまでの辛抱である。名古屋駅に行けるだけの所持金が残ればいい。

 かんはネットで予約を取り、徒歩でカプセルホテルに移動した。ホテルのシャワールームで汗を流し、今まで着ていた服を捨てて新しい服に着替えると、少しだけすっきりした。

 布団ひとつがあるだけの部屋である。だが、路上やブルーシートの中で眠るよりはずっと快適だ。かんは布団の中に潜り込み、まぶたを閉じた。


 かんが眠るホテルを、外から眺めている人間が2人いた。藤田と義堂である。

「藤田さん、今、捕まえないんですか?」

「義堂さん、気づきませんか? 中村さん、まだ行くあてがあるみたいですよ」

「そうなんですか? あいつ、家族にも絶縁されているし、友人もあいつと関わろうとする奴はもういなくなったし、元カノも見限ってますし。他に行く宛なんて……」

「行く宛がないのに、ホテルなんかに金を落とさないでしょう。まだ、あるんですよ。助けを求める先が」

「はあ」

「それを潰すのが面白いんですよね」

 藤田は唇だけで笑った。

「今時、身元を隠してネットで追い詰めるのが主流でしょう。でも、私からしたら、つまらないんですよ。だって、絶望した表情を直接見ることができないじゃないですか。やはり、リアルで苦痛に歪む表情を見るのが一番面白いんですよ」


 この人は、遊んでいる。


 義堂は少し背筋が寒くなった。腕力では自分のほうが強いかもしれない。だが、人を嬉々として追い詰める精神的な強さを備えているのは藤田だ。藤田は、かんの身柄をいつでも確保できると思っている。いつでもやれるからこそ、存分に苦しめてから最後に捕まえるのだ。もう、希望などつゆほども存在しないと痛感させて、自分たちから逃げる気力を完全に失わせて、服従させる。

 内臓を売ることをちらつかせはするが、藤田が好むのは、自分たちが管理する会社で死ぬまで働かせることだ。休みなど与えない。一日15時間労働させると、2万円ほどの日給になる。そこから、寮の宿泊費1泊5000円、1日の食費3000円を徴収する。残りの1万2000円はすべて借金の利息に充てられる。つまり、15時間労働しても、労働した本人の手元には1円も入らない。

 宿泊する施設は8人1部屋のいわゆるタコ部屋、布団は黄色いシミだらけのせんべいのような薄いもの、食事も朝は白米とみそ汁と漬物、昼と夜用におにぎりを2つずつ持たされるだけ。

 この過酷な環境に堪え切れず、脱走を図る者もいるが、そもそも過労で頭も体も疲れ切っている。そんな状態で見張りに気付かれずに逃げることはできない。脱走しようとしたことが発覚すれば、見張りたちに集団リンチされる。

 過労で倒れて、もうどうにも動くことができなくなったとき、ようやく出荷されるのである。痛んでいない臓器だけを身体から取り除かれ、売却される。借金からの解放であり、生きることの終わりである。


「明日、中村さんが頼ろうとしているものを確かめて、目の前で潰します。それから、飼育小屋に連行しましょう」

 飼育小屋とは、藤田たちが捕まえた債権者つまり労働者を住まわせる寮のことである。

「そういえば、西本死んだらしいっすよ」

「そうですか」

 藤田は興味がなさそうに返事をした。

「すぐ次の労働者が入るから問題ありませんよ。さ、見張りを置いて私たちも休みましょう」

 藤田と義堂は、漢が眠るカプセルホテルに背中を向けて歩き始めた。
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