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第22話 初めての口づけ
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夜明けの薄明かりが燃え跡を柔らかく包んでいた。
焼けた倉庫の残骸からはまだ煙が上がっていたが、風がそれをゆっくりと拭い去っていく。
炎はすべてを奪った。だが、その跡に残ったのは絶望ではなく、確かに「生き残った」という安堵のぬくもりだった。
レティシアは倉庫跡の片づけを手伝いながら、時折空を見上げた。
淡い雲の切れ間から射す陽が、焼け焦げた地面に金色の光を落としている。
エドガーの姿も見える。彼は黙々と瓦礫をどかしていた。
煤まみれの腕、裂けた袖。けれど、その背中は不思議と眩しかった。
午前の作業が終わる頃、村人たちは口々に礼を述べた。
「あんたらがいなきゃ、子供たちは助からなかった」
「まるで本物の騎士様みたいだ」
「本物だよ」
そう言ったのはマーサだった。
涙声で笑いながら、レティシアの肩を叩いた。
「ねえ、あの人はきっと“辺境の守り手”として記憶に残るさ」
その言葉に、胸が熱くなった。
そう呼ばれることを、きっとエドガー自身は望んでいない。
けれど、彼は確かに村を救った。それが真実だ。
夕方になり、片づけがようやく終わった。
風見亭の屋根には新しい板が打ち付けられ、焦げた匂いの消えた食堂には再び灯りがともる。
レティシアは湯を沸かしてエドガーのもとへ向かった。
彼は外の井戸で手を洗っており、水の上に赤く染まる夕陽が映っていた。
「お疲れさまでした。少しは休まないと倒れますよ」
「お前もだ」
エドガーの口調は穏やかで、これまでの戦いが嘘のようだった。
「けれど……あの倉庫を見ていると、まだ胸が苦しくなる。誰かが死んでいたらと思うと。」
「でも、誰も死ななかった。あなたが守ったからです」
「俺だけの力じゃない。お前があの中に飛び込まなければ、子供たちは助からなかった」
少し沈黙が落ちた。
レティシアは俯いたまま、ほのかに笑った。
「怖かったんです。どうしてあんなことをしたのか、自分でも分かりません。でもあなたが、“守るための強さ”を教えてくれたから。」
「……俺なんて、大したことはしていない。」
「そんなことない。あなたがいたから私は、誰かを助けたいと思えたんです。」
エドガーが小さく息を吐いた。
「……お前にはずるいと言われそうだが、どう言えばいいのか分からん。」
「何がですか?」
「こうして生き延びて、またお前と並んでいられる。それだけで、もう十分すぎるほど、嬉しい。」
レティシアの喉が詰まる。
言葉が出ないまま、胸の奥がじんと熱を帯びていく。
「……生きていて、よかった。」
自分の声が震えているのが分かる。
気づけば、目に涙が滲んでいた。
エドガーが静かに近づき、指先でその頬をそっと拭う。
子供を慰めるような仕草だったが、その手の温度がやけに熱い。
「泣くな。お前の涙は、俺にとっちゃ罰のように重い。」
「罰じゃありません。あなたが生きてくれた証です。」
彼が少し目を細めた。
夕陽に照らされた灰色の瞳の奥に、深い優しさが揺れていた。
「……レティシア。あの夜の言葉を、覚えているか?」
「夜の……?」
「“お前を愛している”と言ったことだ。」
唐突に思い出し、頬が熱くなった。
「……ええ。忘れるわけ、ありません。」
「俺は、あれからずっと考えていた。お前の隣にいていいのか、と。」
「もちろんです。そんなの、聞くまでもないじゃないですか。」
「違うんだ。」
エドガーは自分の胸に拳をあて、低く唸るように言った。
「俺はこれまで、剣でしか生きてこなかった。奪うばかりで、与えることなんてできなかった人間だ。
でも、お前は違う。お前はいつだって与える側にいる。俺とは違う光を持ってる。」
「あなたは、自分を過小評価しすぎです。」
レティシアはまっすぐに彼を見つめた。
「与える力を持っているのはあなたの方です。あなたがいなければ、私も、村も、何も守れませんでした。」
「……それでも、俺は怖い。お前が俺を好きでいてくれることが、眩しすぎて。」
静寂が二人を包む。
空は藍から群青へと変わり、遠くの地平で一番星が瞬いていた。
「あなたが怖いなら、いっそこの夜ごと抱えてください。逃げないで。」
「そんな軽い言葉で済むと思うか。」
「思いません。でも、逃げられても困ります。」
そう言って、レティシアは少しだけ笑った。
目尻に残る涙が光を受けて揺れ、エドガーの息が止まる。
次の瞬間、彼が動いた。
長い腕が伸び、彼女の腰をそっと引き寄せる。
驚くほど自然な動きだった。
「……お前の笑顔に、いつも負ける。」
耳元に低い声が落ちる。
次いで、唇が触れた。
ほんの一瞬だった。
だが、世界が変わるほどの衝撃が胸に走った。
互いの息が溶け合い、指先が微かに震える。
やがてゆっくりと離れる。
夜風が吹き抜け、ふたりの髪を揺らした。
「……これが、罰なら悪くないな。」
エドガーの瞳が少し照れているように見えて、レティシアは思わず笑った。
「罰じゃないです。ご褒美です。」
「ご褒美、か。」
「はい。生きて戦ってくれたあなたへの。」
彼がふっと笑う。その笑顔を、レティシアは見逃さなかった。
「俺が今生きているのは、お前のおかげだ。」
「私も、あなたのおかげです。それに、まだお礼を言ってません。」
「お礼?」
レティシアは少し恥ずかしそうに視線を逸らし、そして囁くように言った。
「……あの時、火の中で助けてくれて、ありがとう。」
「当然のことをしただけだ。」
「そう言うと思いました。」
彼の返事に、小さく笑い合う。
そしてふたりの間に、暖かい沈黙が落ちた。
どちらからともなく寄せた手が、また触れ合う。
その温もりはもう、遠慮や迷いではなく、穏やかな約束だった。
遠くでマーサが子供たちを呼ぶ声がした。
小さな日常の音。
それがどれほど尊く感じるか、レティシアは誰より知っている。
エドガーが夕空を見上げながら呟いた。
「もう一度誓うよ。お前を守るためだけに、生きる。」
「なら、私も誓います。あなたと同じ道を歩くために、生きる。」
その誓いは、もはや騎士と令嬢のそれではなかった。
ひとりの男と女としての、ただ純粋な想い。
星がまたひとつ瞬いた。
二人の影が重なり、夜の風がやわらかく頬を撫でていった。
続く
焼けた倉庫の残骸からはまだ煙が上がっていたが、風がそれをゆっくりと拭い去っていく。
炎はすべてを奪った。だが、その跡に残ったのは絶望ではなく、確かに「生き残った」という安堵のぬくもりだった。
レティシアは倉庫跡の片づけを手伝いながら、時折空を見上げた。
淡い雲の切れ間から射す陽が、焼け焦げた地面に金色の光を落としている。
エドガーの姿も見える。彼は黙々と瓦礫をどかしていた。
煤まみれの腕、裂けた袖。けれど、その背中は不思議と眩しかった。
午前の作業が終わる頃、村人たちは口々に礼を述べた。
「あんたらがいなきゃ、子供たちは助からなかった」
「まるで本物の騎士様みたいだ」
「本物だよ」
そう言ったのはマーサだった。
涙声で笑いながら、レティシアの肩を叩いた。
「ねえ、あの人はきっと“辺境の守り手”として記憶に残るさ」
その言葉に、胸が熱くなった。
そう呼ばれることを、きっとエドガー自身は望んでいない。
けれど、彼は確かに村を救った。それが真実だ。
夕方になり、片づけがようやく終わった。
風見亭の屋根には新しい板が打ち付けられ、焦げた匂いの消えた食堂には再び灯りがともる。
レティシアは湯を沸かしてエドガーのもとへ向かった。
彼は外の井戸で手を洗っており、水の上に赤く染まる夕陽が映っていた。
「お疲れさまでした。少しは休まないと倒れますよ」
「お前もだ」
エドガーの口調は穏やかで、これまでの戦いが嘘のようだった。
「けれど……あの倉庫を見ていると、まだ胸が苦しくなる。誰かが死んでいたらと思うと。」
「でも、誰も死ななかった。あなたが守ったからです」
「俺だけの力じゃない。お前があの中に飛び込まなければ、子供たちは助からなかった」
少し沈黙が落ちた。
レティシアは俯いたまま、ほのかに笑った。
「怖かったんです。どうしてあんなことをしたのか、自分でも分かりません。でもあなたが、“守るための強さ”を教えてくれたから。」
「……俺なんて、大したことはしていない。」
「そんなことない。あなたがいたから私は、誰かを助けたいと思えたんです。」
エドガーが小さく息を吐いた。
「……お前にはずるいと言われそうだが、どう言えばいいのか分からん。」
「何がですか?」
「こうして生き延びて、またお前と並んでいられる。それだけで、もう十分すぎるほど、嬉しい。」
レティシアの喉が詰まる。
言葉が出ないまま、胸の奥がじんと熱を帯びていく。
「……生きていて、よかった。」
自分の声が震えているのが分かる。
気づけば、目に涙が滲んでいた。
エドガーが静かに近づき、指先でその頬をそっと拭う。
子供を慰めるような仕草だったが、その手の温度がやけに熱い。
「泣くな。お前の涙は、俺にとっちゃ罰のように重い。」
「罰じゃありません。あなたが生きてくれた証です。」
彼が少し目を細めた。
夕陽に照らされた灰色の瞳の奥に、深い優しさが揺れていた。
「……レティシア。あの夜の言葉を、覚えているか?」
「夜の……?」
「“お前を愛している”と言ったことだ。」
唐突に思い出し、頬が熱くなった。
「……ええ。忘れるわけ、ありません。」
「俺は、あれからずっと考えていた。お前の隣にいていいのか、と。」
「もちろんです。そんなの、聞くまでもないじゃないですか。」
「違うんだ。」
エドガーは自分の胸に拳をあて、低く唸るように言った。
「俺はこれまで、剣でしか生きてこなかった。奪うばかりで、与えることなんてできなかった人間だ。
でも、お前は違う。お前はいつだって与える側にいる。俺とは違う光を持ってる。」
「あなたは、自分を過小評価しすぎです。」
レティシアはまっすぐに彼を見つめた。
「与える力を持っているのはあなたの方です。あなたがいなければ、私も、村も、何も守れませんでした。」
「……それでも、俺は怖い。お前が俺を好きでいてくれることが、眩しすぎて。」
静寂が二人を包む。
空は藍から群青へと変わり、遠くの地平で一番星が瞬いていた。
「あなたが怖いなら、いっそこの夜ごと抱えてください。逃げないで。」
「そんな軽い言葉で済むと思うか。」
「思いません。でも、逃げられても困ります。」
そう言って、レティシアは少しだけ笑った。
目尻に残る涙が光を受けて揺れ、エドガーの息が止まる。
次の瞬間、彼が動いた。
長い腕が伸び、彼女の腰をそっと引き寄せる。
驚くほど自然な動きだった。
「……お前の笑顔に、いつも負ける。」
耳元に低い声が落ちる。
次いで、唇が触れた。
ほんの一瞬だった。
だが、世界が変わるほどの衝撃が胸に走った。
互いの息が溶け合い、指先が微かに震える。
やがてゆっくりと離れる。
夜風が吹き抜け、ふたりの髪を揺らした。
「……これが、罰なら悪くないな。」
エドガーの瞳が少し照れているように見えて、レティシアは思わず笑った。
「罰じゃないです。ご褒美です。」
「ご褒美、か。」
「はい。生きて戦ってくれたあなたへの。」
彼がふっと笑う。その笑顔を、レティシアは見逃さなかった。
「俺が今生きているのは、お前のおかげだ。」
「私も、あなたのおかげです。それに、まだお礼を言ってません。」
「お礼?」
レティシアは少し恥ずかしそうに視線を逸らし、そして囁くように言った。
「……あの時、火の中で助けてくれて、ありがとう。」
「当然のことをしただけだ。」
「そう言うと思いました。」
彼の返事に、小さく笑い合う。
そしてふたりの間に、暖かい沈黙が落ちた。
どちらからともなく寄せた手が、また触れ合う。
その温もりはもう、遠慮や迷いではなく、穏やかな約束だった。
遠くでマーサが子供たちを呼ぶ声がした。
小さな日常の音。
それがどれほど尊く感じるか、レティシアは誰より知っている。
エドガーが夕空を見上げながら呟いた。
「もう一度誓うよ。お前を守るためだけに、生きる。」
「なら、私も誓います。あなたと同じ道を歩くために、生きる。」
その誓いは、もはや騎士と令嬢のそれではなかった。
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続く
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