花は二度咲く〜婚約破棄された令嬢は氷の王太子に溺愛される〜

usako

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第2話 舞踏会の笑い声の中で

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 扉が閉まる音が、まるで世界から締め出された合図のように響いた。  
 大広間の光と音が背後で遠ざかり、廊下に一歩踏み出した瞬間、リリアナの胸の中から何もかもが流れ出していく気がした。  
 足取りは重い。けれど立ち止まれば、その場で崩れてしまう気がした。  
 前へ進む――それしか出来なかった。

 ひとけのない回廊。壁に灯された燭台の光が、彼女の影を床に長く伸ばしている。  
 数歩進むごとに、心の奥で何かが軋み、崩れ落ちる音がした。  
 あれほど信じていたものが、わずか数分で裏切りに変わるなんて、誰が想像しただろう。  
 “伯爵令嬢リリアナ・グレイス”という名で積み上げてきた誇りと信頼。  
 それを一瞬で奪われた痛みが、静かに胸の奥を焼く。

「リリアナ様!」

 背後から呼び止める声に、リリアナは振り返った。  
 ミリアが息を切らせて駆け寄り、泣きそうな顔で彼女の手を取る。  
 「ひどいです……あんな言い方、あんまりです」  
 「もういいの」  
 リリアナは無理に笑った。少しでも強く見せないと、彼女まで壊れてしまう気がした。  
 「泣いても、何も変わらないわ。あの方が選んだのは、私じゃない。それだけのこと」

 だが、唇の内側を噛みしめると、血の味がした。  
 冷静を装っても、心の奥はぐしゃぐしゃになっている。頭では理解しても、心が追いつかない。  
 何がいけなかった? 何を間違えた?  
 クライドが自分を避け始めた頃のことを思い返すたびに、答えが見つからないまま後悔だけが積もっていく。

 そのとき、廊下の角の陰に立つ黒衣の男がふと視界に入った。  
 銀灰の瞳。無駄のない動きで一歩前に出ると、低く落ち着いた声が響く。  
 「……立ち止まるな。ここは噂だけで人を殺す場所だ」  

 リリアナは思わず息を呑む。  
 男の姿を見て、誰なのかすぐに分かった。  
 第二王太子、アシュトン・エルディア殿下。  
 クライドの異母弟にあたる人物であり、“氷の王子”と呼ばれるほど感情を表に出さない冷血な男。  
 その存在は、宮廷の誰もが畏れていた。

「……殿下が、なぜここに?」
 「舞踏会はあまり好きではない。群れる群衆を見ていると退屈になる」
 短くそう言って、彼はリリアナの顔をじっと見た。  
 その瞳は冷たいが、冷ややかではなかった。ただ、何かを測るような色をしている。  

 「第一王子の言葉、聞いていた」
 リリアナの喉が詰まる。  
 「……お恥ずかしい姿を、お見せしました」
 「恥? 笑われるのはお前ではない」  
 アシュトンの言葉に、リリアナは思わず顔を上げる。  
 彼は続けた。  
 「公の場で女性を辱めるのは、王族として最も愚かな行いだ。あれで民の信は揺らぐ。……兄上は、自分が何を失ったのかすら理解していない」

 その淡々とした声が、リリアナの心にじんわりと染みた。  
 初めて彼と話したときの印象――冷たい、というより、静かな炎を内に秘めているような人だと思った。  
 今もその印象は変わらない。むしろ、心の奥に触れられた気がして、言葉が出ない。

「……慰めてくださるおつもりですか?」
 「違う。ただの事実を言っただけだ」
 即答。そのぶっきらぼうな言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。  
 ミリアがアシュトンを恐れて隠れるように身をすくめるが、リリアナは静かに頭を下げた。  
 「ありがとうございます、殿下。けれど……私はもう、後戻りできません」

 アシュトンのまなざしが細くなる。  
 「後戻りする必要はない」  
 「え……?」  
 「お前は生き延びろ。そして、見せてやれ。兄上が手放したものがどれほどの価値を持っていたのかを」  
 その声は低く、静かな氷の音のようだった。命令とも励ましともつかない。  
 だが、リリアナの胸の奥で何かが確かに灯った。

 そのとき、廊下の奥から人の足音が近づいた。  
 来客の視線を避けるため、アシュトンはフードを引き下ろすと、背中を向けた。  
 「グレイス嬢、覚えておけ。誇りは奪われても、価値は消えない」  
 そう言い残して去っていく姿に、リリアナは思わず一歩踏み出しかけたが、結局、何も言えなかった。  

 気づけば、手が震えていた。  
 氷のような声なのに、あの時だけ、胸の奥に熱を感じた気がした。  
 ――泣くのは、今じゃない。これで終わりになんて、したくない。  

 夜風が吹き抜け、遠くから舞踏会の音楽がまた聞こえた。  
 その笑い声はもう、彼女に届かない。  
 だが、リリアナの瞳の奥には確かな光が宿りはじめていた。

               ◇

 屋敷へ戻ったのは、夜更け近くになってからだった。  
 玄関に灯る燭台の明かりも、やけに遠く感じる。  
 父・ハロルド伯爵は執務室から出てきて、娘の姿を見た瞬間に息を飲んだ。  
 「リリアナ……その顔は……」  
 「ご存じなのですね」  
 「……ああ。すでに王家から通達が来ている」

 リリアナは覚悟していたはずだった。けれど、父のその静かな声が胸に突き刺さった。  
 「この件は……グレイス家にとっても打撃だ。だが、お前を責める気はない。よく耐えた」  
 「お父さま……」  
 「王家の命を受け入れねばならぬ。それが貴族の義務だ。だが――」  
 伯爵は苦渋の面持ちで拳を握りしめた。  
 「娘の涙まで差し出す義務はない」

 その言葉に、リリアナの目にまた熱いものが込み上げた。  
 けれど、今度こそ泣かないと決めている。  
 涙はもう、誰にも見せない。  
 「大丈夫です。お父さま。……私は平気ですから」

 しかし翌朝、屋敷に届けられた一通の書簡が、その言葉をあざ笑うように届いた。  
 紋章入りの封蝋。王家の紋。  
 開封した途端、父の顔から表情が消えた。  
 「……グレイス家の商会特権の剥奪。領地の一部を没収。……さらに――リリアナ・グレイスの王都出入り禁止、ですと?」  

 それは、単なる婚約破棄ではなかった。完全な排斥。  
 彼女を王都から消そうとする、徹底した“処罰”だった。  
 リリアナは、ようやく理解した。  
 クライドに捨てられただけではなく、彼は自分を「消す」と決めたのだ。

 「お父さま……申し訳ありません。私のせいで」
 「違う。悪いのは王家だ。クライド王子の浅はかさだ」

 そう言い切る父を見つめながら、リリアナは少しずつ冷静さを取り戻していた。  
 涙で決して取り戻せないものがある。その代わりに、奪われた誇りを、別の形で取り返す方法がある。  
 心の中で確かにそう思ったとき、アシュトンの言葉が再びよみがえる。  
 ――見せてやれ。兄上が手放したものが、どれほどの価値を持っていたのかを。

 リリアナはゆっくりと顔を上げ、曇りゆく空を見上げた。  
 「見せて差し上げます、殿下。あの方にも、王家にも」  
 その声はかすかに震えていたが、確かな意志が宿っていた。  
 涙は、もう乾いていた。

(第2話 終)
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