偽りの婚約者だったはずが、旦那様の溺愛が止まりません~冷徹侯爵の裏の顔は、私限定の甘すぎる人~

usako

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第1話 破滅の夜と嘲笑のドレス

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 煌びやかなシャンデリアがきらめき、貴族たちの笑い声が夜会の会場に響いていた。  
 公爵令嬢エリス・グレイシアは、その中心に立ちながら、自分の足元が崩れていく感覚を味わっていた。

「婚約を破棄する」

 その一言を発したのは、彼女の婚約者――第一王子レオナルド。  
 社交界の誰もが羨んだ美しい婚約者のはずだった。だが、今、その男は冷え切った目でエリスを見下ろしている。

「理由を……お聞かせ願えますか?」

 エリスの声は震えなかった。体の芯は凍るように冷たいのに、妙に頭だけが冴えていた。  
 だが彼の次の言葉が、そんな誇りを粉々に砕く。

「君が他の男と密会していたと聞いた。公爵家の娘にしては、品格がないな」

 会場がざわめいた。エリスは目を見開き、思わず彼を見つめる。だが、彼の傍らには一人の女が寄り添っていた。  
 淡い緑のドレスを着た伯爵令嬢リリア。その女が勝ち誇ったように微笑みながら、手を口元に添える。

「あら……お気の毒。けれど、殿下が誤解なさるのも無理はありませんわ。夜会の前夜、あなたが男性と一緒にいたところを、私も目撃してしまいましたの」

 氷のような沈黙。ざわめきは確信へと変わる。

 エリスは唇を結んだ。確かに昨夜、弟を迎えに馬車で出た。だが目撃者がいたのなら、それを誤解に変えるのは容易い。  
 しかも相手が王子である以上、弁解を許さない空気があった。

「殿下、それは誤解です。私が会っていたのは、商家の使者で――」

「もういい」  
 レオナルドは冷たく遮った。「君のような軽率な女を、未来の王妃に据えるつもりはない」

 その言葉に、笑いが広がった。  
 誰かのうちわ話のように、誰かの噂を楽しむように。目の前の現実が、遠くの出来事のように響く。

 エリスは頭を下げた。涙を見せたくなかった。  
 この場で屈すれば、本当に終わってしまう。公爵家の矜持が、彼女をぎりぎりのところで支えていた。

「では、婚約破棄を受け入れます」

 静かな声が会場に落ちた。誰もが驚いたように息をのむ。  
 だがエリスは微笑んでいた――冷たくも美しく、崩れてなお誇りを纏った微笑みだった。

「殿下の未来に幸あらんことを。どうか、選ばれた方を大切になさって」

 そう言い終えた瞬間、張り詰めていた空気が切れた。  
 貴婦人たちのざわめきが再び始まり、エリスは背中を向けてその場を去った。  
 後ろで誰かが笑ったような気がしたが、もう振り返らなかった。

***

 侯爵アレン・ヴァロウズは、ワイングラスを傾けながら一部始終を眺めていた。  
 氷のような静けさを纏った青年。浅い銀の髪、青灰の瞳、そして一切の感情を感じさせない面持ち。  
 人々は彼を「冷徹侯爵」と呼び、恐れていた。

 そんな彼の唇が、わずかに動いた。誰にも気づかれぬほどに。  
 「愚かだな、王子も……」

 その呟きは、すぐに赤いワインの中へと沈んでいった。

***

 屋敷へ戻る馬車の中、エリスはふとドレスの裾を見下ろした。  
 婚約破棄の夜に着たのは、彼が選んでくれた純白のドレス。  
 縫い込まれた銀糸の刺繍が、涙の粒を吸い込むように鈍く光る。

「お嬢様……」  
 侍女のマリアがそっと声をかけた。  
 だがエリスは首を振る。

「いいの。泣いても意味がないわ」  
 その声は静かだった。  
 だがその瞳の奥で、何かがゆっくりと燃え上がっていた。

「許さない。証拠もなく、私を侮辱した人たちを……」

 その呟きは、誰にも聞こえなかった。けれど、暗闇の中で確かな誓いとなって刻まれた。

***

 翌朝。エリスのもとに一通の封書が届いた。  
 黒い封蝋に刻まれた紋章――ヴァロウズ侯爵家のもの。

 差出人:アレン・ヴァロウズ侯爵。

 エリスは眉をひそめた。彼女と彼に面識はない。  
 慎重に封を切ると、端正な筆跡の手紙が現れた。

『突然の文をお許しください。昨夜、貴女が辱めを受けた場に居合わせました。  
 一つ、提案がございます――私と婚約していただけませんか?  
 ただし、これは“契約”婚約です。お互いに損をしない取引として。  
 詳細は直接お話ししたく、明日の午後、ヴァロウズ邸にてお待ちしております。  
 アレン・ヴァロウズ』

「契約……婚約?」

 エリスは思わず声に出した。  
 理解できない。なぜ彼が、自分に――。

 だが、マリアが怯えたように小声でささやく。  
「お嬢様、ヴァロウズ侯爵は“冷徹”で有名なお方です。どんな人間だろうと、何の感情も持たぬと……」

 けれど、昨夜のあの笑顔の中で、彼だけは笑わなかった。  
 それに気づいたのは、今この瞬間だった。  
 エリスは手紙を握りしめた。

「……行ってみましょう。どうせ、このままじゃ終われないもの」

 破滅の夜は、終わりではなかった。  
 静かに燃え上がるエリスの決意が、新たな物語の始まりを告げていた。

(続く)
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