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第2話 婚約破棄、そして冷たい瞳の侯爵
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ヴァロウズ侯爵邸は、都の中心からやや離れた静寂に包まれた区域にあった。周囲を高い並木と黒鉄の柵が囲み、門をくぐれば、整えられた庭園が目を奪う。無駄のない配置と、どこか張りつめた空気――それは屋敷の主の性格をそのまま映しているようだった。
馬車が止まり、エリスは深呼吸をした。
昨日の夜、彼女はほとんど眠れなかった。いくら考えても、アレン・ヴァロウズ侯爵が何を目的に自分へ「契約婚約」を持ちかけてきたのか、見当がつかないのだ。
侍女マリアは不安げに呟く。
「本当にお会いになるのですか? 侯爵様は冷たいお方だと……噂では、誰も長く仕えることができないとか」
「噂なんて、当てにならないわ」
エリスは微笑んで見せた。
それは、彼女自身を奮い立たせるためでもあった。もう二度と、誰かに壊されるだけの人生ではいたくない。
玄関の扉が開き、黒服の執事が現れた。
「お嬢様をお連れいたしました」と告げると、屋敷の奥から一歩、低く響く声が聞こえた。
「通せ」
その一言だけで、場の空気が変わる。
エリスは足を踏み入れた。埃ひとつない廊下、重厚なカーペット、壁に並ぶ絵画はすべて王家の系譜に連なる品。どれもが静謐で、まるで時間が止まったような屋敷だった。
執事に案内され、広い応接間へと通される。
その中央に、男が一人、窓辺に立っていた。銀灰色の髪、冷たい瞳、無表情のまま人を見透かすような視線。
アレン・ヴァロウズ――噂どおりの“冷徹侯爵”だった。
「遠路ご苦労だった、グレイシア嬢」
声は静かでありながら、異様な圧を帯びている。
「お話を伺いに参りました。……昨日の、お手紙の件ですね」
彼女は一歩踏み出す。
アレンは振り向き、ゆっくりと口角をわずかに上げた。それが微笑みに見えたかは、分からなかった。
「そうだ。単刀直入に言おう。私は君に、婚約者になってほしい」
エリスは息をのんだ。改めて言葉にされると、その異様さが一層際立つ。
「ですが、侯爵。なぜ私を? 昨日、社交界で恥をかいた女と……契約を結ぶ理由など」
「ある。君が利用価値を持っているからだ」
その冷ややかな答えに、エリスは眉をひそめた。
「……利用価値?」
「君は、元王子の婚約者。社交界は今、君の噂で持ちきりだ。誰もが“悲劇の令嬢”を語りたがっている。私は、そこに目をつけた」
アレンは机の上の書類を指で軽く叩いた。
「私の家は、王子派に属すると見られている。だが私は、それを覆したい。表向き、君を新たな婚約者にすれば、王子側は混乱するだろう。君を失脚させた直後に、冷徹侯爵がその女を迎える――王族の面子は潰れる」
「政略、というわけですか」
「察しがいいな」
彼の冷徹な計略を聞き、エリスは一瞬だけ口を閉ざした。
けれど次の瞬間、ほんの微かに口元を上げる。
「……面白いお話ですわね」
アレンがわずかに目を細める。「拒まないのか?」
「いえ。むしろ好都合です。私も――王子殿下に、少なからず“お返し”をしたいと思っていましたから」
その言い方には、静かな炎が宿っていた。エリスの瞳の奥には、昨夜の屈辱を超えた決意がある。
アレンは椅子に腰を下ろし、手を組んだ。
「よかろう。では契約の条件を提示しよう。期間は三ヶ月。私の婚約者として社交界に出てもらう。その間、必要な衣装や護衛はすべてこちらで用意する。不利益のないよう配慮するつもりだ」
「……三ヶ月の後は?」
「互いに目的を果たした時点で、円満に解消しよう。君には慰謝として十分な額を渡す。おそらく、王家から正式に謝罪を得る頃には、君は“新たな婚約者”として名を上げているだろう」
完璧な計算だった。
けれど、エリスにはどうしても気になる一点があった。
――どうして、この人は自分にここまで関わろうとするのか。単なる政略? 本当に、それだけだろうか。
沈黙を破ったのは、アレンの方だった。
「ただし、一つだけ注意しておく」
「注意?」
「私に恋をしてはいけない。契約の枠を超えて、感情を持つ者は失敗する。君も、そうならないように」
エリスは小さく笑った。
「ご安心ください。婚約者に裏切られたばかりの女が、すぐに恋などいたしません」
アレンの瞳が、一瞬だけ揺れた気がした。だがすぐに、あの冷たい光を取り戻す。
「ならば契約は成立だ。今日から、君は私の婚約者だ」
執事が用意していた書簡を差し出す。エリスは震える指先でペンを取り、署名した。
その瞬間、アレンが立ち上がり、彼女の手を取った。予想よりも温かい掌が触れる。
「ようこそ、ヴァロウズ侯爵家へ。これからは、私の隣に立つ覚悟を持て」
手を離されたあとも、そこに残る熱が消えなかった。
エリスは静かに目を閉じた。これが、復讐への第一歩だ。
***
その夜。エリスはヴァロウズ邸に用意された客間の窓から、月を見上げていた。
贅沢すぎる部屋、整えられた寝具、豪奢なドレスの箱。新しい生活の始まりを告げるものばかりなのに、胸の奥には不安が渦巻いていた。
「マリア、私は間違っていないかしら」
「お嬢様は強い方です。ただ……侯爵様は、本当に何をお考えなのか……」
マリアの言い淀む声が、答えのなさを示していた。
確かに、アレンには得体の知れない何かがあった。
彼は冷徹でありながら、わずかな慈悲を隠しているようにも感じられる。
あの一瞬の揺らぎが、妙に記憶に残って離れなかった。
エリスは小さく首を振り、寝台に腰を下ろした。
「彼の心なんて、知らなくていい。私の目的は、ただひとつ。王子を後悔させること」
そう口にした瞬間、胸の奥の痛みが少し薄れた。
だが、心の奥底でわずかに芽生えた“別の感情”に、エリス自身まだ気づいていなかった。
***
翌朝、エリスは侯爵邸の食堂へ向かった。
長いテーブルの端に、アレンが静かに朝食を取っている。書類を読みながら淡々とパンを口に運ぶ姿――完璧な貴族のそれだった。
エリスが席に着くと、アレンはわずかに視線を上げた。
「おはよう。昨夜はよく眠れたか?」
「ええ、おかげさまで」
「そうか。今日から君の衣装合わせを行う。三日後の舞踏会に同伴してもらう予定だ」
「……同伴?」
「もちろんだ。契約婚約者として、最初の“お披露目”になる。今度は、嘲られる側ではなく――魅せる側として」
その瞬間、エリスの心臓が高鳴った。
破滅の夜を経て、再びドレスを纏う。その意味は、誰よりも自分が知っている。
あの夜に奪われた誇りを、今度こそ取り戻すのだ。
「わかりました。私、精一杯務めてみせます」
「いい覚悟だ」
アレンは頷き、視線を戻した。だがその横顔には、どこか柔らかな影が一瞬だけ過ぎった。
――冷たい侯爵。その瞳の奥は、氷のように見えて、どこか寂しげだった。
エリスは気づかぬふりをした。けれど、心のどこかで妙なざわめきが生まれていた。
(続く)
馬車が止まり、エリスは深呼吸をした。
昨日の夜、彼女はほとんど眠れなかった。いくら考えても、アレン・ヴァロウズ侯爵が何を目的に自分へ「契約婚約」を持ちかけてきたのか、見当がつかないのだ。
侍女マリアは不安げに呟く。
「本当にお会いになるのですか? 侯爵様は冷たいお方だと……噂では、誰も長く仕えることができないとか」
「噂なんて、当てにならないわ」
エリスは微笑んで見せた。
それは、彼女自身を奮い立たせるためでもあった。もう二度と、誰かに壊されるだけの人生ではいたくない。
玄関の扉が開き、黒服の執事が現れた。
「お嬢様をお連れいたしました」と告げると、屋敷の奥から一歩、低く響く声が聞こえた。
「通せ」
その一言だけで、場の空気が変わる。
エリスは足を踏み入れた。埃ひとつない廊下、重厚なカーペット、壁に並ぶ絵画はすべて王家の系譜に連なる品。どれもが静謐で、まるで時間が止まったような屋敷だった。
執事に案内され、広い応接間へと通される。
その中央に、男が一人、窓辺に立っていた。銀灰色の髪、冷たい瞳、無表情のまま人を見透かすような視線。
アレン・ヴァロウズ――噂どおりの“冷徹侯爵”だった。
「遠路ご苦労だった、グレイシア嬢」
声は静かでありながら、異様な圧を帯びている。
「お話を伺いに参りました。……昨日の、お手紙の件ですね」
彼女は一歩踏み出す。
アレンは振り向き、ゆっくりと口角をわずかに上げた。それが微笑みに見えたかは、分からなかった。
「そうだ。単刀直入に言おう。私は君に、婚約者になってほしい」
エリスは息をのんだ。改めて言葉にされると、その異様さが一層際立つ。
「ですが、侯爵。なぜ私を? 昨日、社交界で恥をかいた女と……契約を結ぶ理由など」
「ある。君が利用価値を持っているからだ」
その冷ややかな答えに、エリスは眉をひそめた。
「……利用価値?」
「君は、元王子の婚約者。社交界は今、君の噂で持ちきりだ。誰もが“悲劇の令嬢”を語りたがっている。私は、そこに目をつけた」
アレンは机の上の書類を指で軽く叩いた。
「私の家は、王子派に属すると見られている。だが私は、それを覆したい。表向き、君を新たな婚約者にすれば、王子側は混乱するだろう。君を失脚させた直後に、冷徹侯爵がその女を迎える――王族の面子は潰れる」
「政略、というわけですか」
「察しがいいな」
彼の冷徹な計略を聞き、エリスは一瞬だけ口を閉ざした。
けれど次の瞬間、ほんの微かに口元を上げる。
「……面白いお話ですわね」
アレンがわずかに目を細める。「拒まないのか?」
「いえ。むしろ好都合です。私も――王子殿下に、少なからず“お返し”をしたいと思っていましたから」
その言い方には、静かな炎が宿っていた。エリスの瞳の奥には、昨夜の屈辱を超えた決意がある。
アレンは椅子に腰を下ろし、手を組んだ。
「よかろう。では契約の条件を提示しよう。期間は三ヶ月。私の婚約者として社交界に出てもらう。その間、必要な衣装や護衛はすべてこちらで用意する。不利益のないよう配慮するつもりだ」
「……三ヶ月の後は?」
「互いに目的を果たした時点で、円満に解消しよう。君には慰謝として十分な額を渡す。おそらく、王家から正式に謝罪を得る頃には、君は“新たな婚約者”として名を上げているだろう」
完璧な計算だった。
けれど、エリスにはどうしても気になる一点があった。
――どうして、この人は自分にここまで関わろうとするのか。単なる政略? 本当に、それだけだろうか。
沈黙を破ったのは、アレンの方だった。
「ただし、一つだけ注意しておく」
「注意?」
「私に恋をしてはいけない。契約の枠を超えて、感情を持つ者は失敗する。君も、そうならないように」
エリスは小さく笑った。
「ご安心ください。婚約者に裏切られたばかりの女が、すぐに恋などいたしません」
アレンの瞳が、一瞬だけ揺れた気がした。だがすぐに、あの冷たい光を取り戻す。
「ならば契約は成立だ。今日から、君は私の婚約者だ」
執事が用意していた書簡を差し出す。エリスは震える指先でペンを取り、署名した。
その瞬間、アレンが立ち上がり、彼女の手を取った。予想よりも温かい掌が触れる。
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手を離されたあとも、そこに残る熱が消えなかった。
エリスは静かに目を閉じた。これが、復讐への第一歩だ。
***
その夜。エリスはヴァロウズ邸に用意された客間の窓から、月を見上げていた。
贅沢すぎる部屋、整えられた寝具、豪奢なドレスの箱。新しい生活の始まりを告げるものばかりなのに、胸の奥には不安が渦巻いていた。
「マリア、私は間違っていないかしら」
「お嬢様は強い方です。ただ……侯爵様は、本当に何をお考えなのか……」
マリアの言い淀む声が、答えのなさを示していた。
確かに、アレンには得体の知れない何かがあった。
彼は冷徹でありながら、わずかな慈悲を隠しているようにも感じられる。
あの一瞬の揺らぎが、妙に記憶に残って離れなかった。
エリスは小さく首を振り、寝台に腰を下ろした。
「彼の心なんて、知らなくていい。私の目的は、ただひとつ。王子を後悔させること」
そう口にした瞬間、胸の奥の痛みが少し薄れた。
だが、心の奥底でわずかに芽生えた“別の感情”に、エリス自身まだ気づいていなかった。
***
翌朝、エリスは侯爵邸の食堂へ向かった。
長いテーブルの端に、アレンが静かに朝食を取っている。書類を読みながら淡々とパンを口に運ぶ姿――完璧な貴族のそれだった。
エリスが席に着くと、アレンはわずかに視線を上げた。
「おはよう。昨夜はよく眠れたか?」
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「そうか。今日から君の衣装合わせを行う。三日後の舞踏会に同伴してもらう予定だ」
「……同伴?」
「もちろんだ。契約婚約者として、最初の“お披露目”になる。今度は、嘲られる側ではなく――魅せる側として」
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あの夜に奪われた誇りを、今度こそ取り戻すのだ。
「わかりました。私、精一杯務めてみせます」
「いい覚悟だ」
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