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第3話 「取引をしよう、エリス嬢」
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午前の光が差し込む書斎は、重厚な香りに満ちていた。古びた革張りの本が壁一面に並び、奥の机には膨大な書類が積まれている。だが、どれほど整然としていようと、この空間の中心にいる男――アレン・ヴァロウズの存在感がすべてを支配していた。
ミルク色のドレスに包まれたエリスは、緊張を隠しながら扉をくぐる。
「お呼びでしょうか、侯爵」
「はい。少し話をしたいと思いましてね」
アレンは書類を閉じ、まっすぐに彼女を見た。その視線はいつものように冷たく、余計な感情を一切交えないものだった。
「座ってくれ」
促されて、エリスは向かいの椅子に腰を下ろした。机の上には、契約書とは別の一枚の書類が置かれている。
「では本題だ、エリス嬢。君にもう一つ、取引を持ちかけたい」
「……取引?」
「うむ。契約婚約とは別件だ。内容は――お互いの利益をより確実にするための策だよ」
アレンは椅子に身を預け、指先で書類を軽く叩いた。
「君には当面、私の婚約者としての行動に慣れてもらう必要がある。だが、侯爵家に仕えるにも、社交界に出るにも、それなりの“物語”が必要だ。つまり――私との馴れ初めだ」
エリスは静かに目を瞬かせた。
「……物語、ですか」
「そう。人々は真実よりも、物語を好む。真実を語れば疑われるが、ほどよく美化された物語なら誰も疑わない」
「つまり、私と侯爵様の“恋の物語”を作るということですね」
「理解が早くて助かる」
アレンは口の端をわずかに上げた。微笑というより、皮肉めいた満足の表情だった。
彼が手にする書類には、細かく箇条書きが並ぶ。出会い、信頼、契約婚のきっかけ、そして惹かれ合う過程――まるで演劇の台本のように丁寧に構成されている。
「……これを、暗記すればいいのですか?」
「そうだ。ただ、演じるのではなく“自然に見せる”ことが重要だ。人々の前で視線を交わすだけで、ある種の信頼を感じさせるように」
「侯爵様は役者のようなことまで求められるのですね」
「君にもそれができるはずだ。あの夜会での君の態度――あれほどの屈辱のなかで微笑んだ女など、そうはいない」
その一言に、エリスの呼吸が止まる。
あの夜、誇りを捨てないために必死で笑った。
けれど、それを冷静に見ていた男がいたのだ。
「……あの時、私を見ていたのですか」
「見ていた。見逃しようがなかった」
アレンは淡々と答えた。声の調子は変わらないが、そこには一瞬だけ、薄氷を溶かすほどの静かな熱が混じっていた。
「君は、折れていなかった」
短い沈黙。エリスはうつむき、手を握りしめた。
「あれしかなかったのです。泣けば終わりでしたから」
「正しい選択だ」
アレンの言葉は、それ以上でも以下でもない。ただの事実として告げられた。だが、なぜか心の奥がわずかに温まる。
「ところで、これから一週間は社交界での準備期間になる。君の衣装、立ち居振る舞い、話題――すべて私の名に恥じぬよう整えてもらう」
「承知しました」
「その代わり、君の名誉は私が保証する。誰が何を言おうと、私が“婚約者だ”と言えば誰も逆らえない」
エリスは息を詰めた。
その明確な言葉の重みが、胸に落ちる。
冷徹に聞こえる宣言だが、その裏には確固たる守りの意志が見えた。
「ですが、侯爵様。私のような者に、そこまで……」
「感情的な理由ではない。君が泥を被れば私の価値が下がる。逆も然りだ。ゆえに守る。それだけだ」
「……合理的ですね」
「そういう生き方をしてきた」
アレンはカップの紅茶を口に運ぶ。その所作は無駄がなく、何もかもが決められたリズムに従っている。
エリスはその横顔を見つめながら、ふと口にした。
「あなたは、いつからそんなふうに人を信じなくなったのですか?」
思わぬ問いに、アレンの動きが止まった。瞳が氷のように細められる。
「……不用意な質問だな」
その声音にはわずかな棘が混じる。
「失礼しました」
「いや、いい。そうだな……信じるという行為に、何の意味があるのかを考えたことはあるか?」
「意味、ですか?」
「信頼は期待を含む。だが期待は裏切られるためにある。私はただ、それを早く理解しただけだ」
その言葉は、まるで自分自身を遠くから見て語っているような冷ややかさだった。
エリスは胸の奥で何かが疼くのを感じた。この男は冷たいのではない――失望することに、もう疲れたのだ。
「けれども」
エリスは小さく笑って言った。
「人を信じて傷ついたからこそ、誰かを守れる人もいますわ」
アレンの眉が、わずかに動く。
「その言葉を、君自身が信じているのか?」
「信じています」
エリスの返事は迷いがなかった。
アレンはほんの一瞬、静かに息を吐く。
「――興味深いな」
「私が、ですか?」
「ああ。取引相手として、だが」
アレンは笑みともつかない微かな表情を浮かべた。そこには確かに、先ほどまでの氷が少しだけ解けた気配があった。
***
午後、エリスは侯爵邸の庭に出て、マリアとともに歩いていた。敷地の奥にある噴水は陽の光で銀色に輝き、遠くで鳥の声が聞こえる。
「お嬢様、少し顔が明るくなりましたね」
「そうかしら。多分、少しだけ“自分の居場所”が見えた気がするの」
「侯爵様のおそばが、ですか?」
「ええ。あの方が何を考えているのかまだ分からないけれど……不思議と、怖くはないの」
マリアが微笑む。
「お嬢様は強いです。でも、どうかご自分を犠牲にしないでくださいね」
「分かっているわ。大丈夫」
その会話の背後で、二階の窓からアレンが二人を見下ろしていた。
淡々と視線を巡らせるだけのはずが、エリスが笑うその一瞬に、なぜか胸をかすめる微かな痛みがあった。
「……余計なことを考えるな」
自分に言い聞かせるように呟き、書類に視線を戻す。
彼にとってはただの取引――はずだった。
しかし、もうその境界線がわずかに揺らぎ始めていた。
(続く)
ミルク色のドレスに包まれたエリスは、緊張を隠しながら扉をくぐる。
「お呼びでしょうか、侯爵」
「はい。少し話をしたいと思いましてね」
アレンは書類を閉じ、まっすぐに彼女を見た。その視線はいつものように冷たく、余計な感情を一切交えないものだった。
「座ってくれ」
促されて、エリスは向かいの椅子に腰を下ろした。机の上には、契約書とは別の一枚の書類が置かれている。
「では本題だ、エリス嬢。君にもう一つ、取引を持ちかけたい」
「……取引?」
「うむ。契約婚約とは別件だ。内容は――お互いの利益をより確実にするための策だよ」
アレンは椅子に身を預け、指先で書類を軽く叩いた。
「君には当面、私の婚約者としての行動に慣れてもらう必要がある。だが、侯爵家に仕えるにも、社交界に出るにも、それなりの“物語”が必要だ。つまり――私との馴れ初めだ」
エリスは静かに目を瞬かせた。
「……物語、ですか」
「そう。人々は真実よりも、物語を好む。真実を語れば疑われるが、ほどよく美化された物語なら誰も疑わない」
「つまり、私と侯爵様の“恋の物語”を作るということですね」
「理解が早くて助かる」
アレンは口の端をわずかに上げた。微笑というより、皮肉めいた満足の表情だった。
彼が手にする書類には、細かく箇条書きが並ぶ。出会い、信頼、契約婚のきっかけ、そして惹かれ合う過程――まるで演劇の台本のように丁寧に構成されている。
「……これを、暗記すればいいのですか?」
「そうだ。ただ、演じるのではなく“自然に見せる”ことが重要だ。人々の前で視線を交わすだけで、ある種の信頼を感じさせるように」
「侯爵様は役者のようなことまで求められるのですね」
「君にもそれができるはずだ。あの夜会での君の態度――あれほどの屈辱のなかで微笑んだ女など、そうはいない」
その一言に、エリスの呼吸が止まる。
あの夜、誇りを捨てないために必死で笑った。
けれど、それを冷静に見ていた男がいたのだ。
「……あの時、私を見ていたのですか」
「見ていた。見逃しようがなかった」
アレンは淡々と答えた。声の調子は変わらないが、そこには一瞬だけ、薄氷を溶かすほどの静かな熱が混じっていた。
「君は、折れていなかった」
短い沈黙。エリスはうつむき、手を握りしめた。
「あれしかなかったのです。泣けば終わりでしたから」
「正しい選択だ」
アレンの言葉は、それ以上でも以下でもない。ただの事実として告げられた。だが、なぜか心の奥がわずかに温まる。
「ところで、これから一週間は社交界での準備期間になる。君の衣装、立ち居振る舞い、話題――すべて私の名に恥じぬよう整えてもらう」
「承知しました」
「その代わり、君の名誉は私が保証する。誰が何を言おうと、私が“婚約者だ”と言えば誰も逆らえない」
エリスは息を詰めた。
その明確な言葉の重みが、胸に落ちる。
冷徹に聞こえる宣言だが、その裏には確固たる守りの意志が見えた。
「ですが、侯爵様。私のような者に、そこまで……」
「感情的な理由ではない。君が泥を被れば私の価値が下がる。逆も然りだ。ゆえに守る。それだけだ」
「……合理的ですね」
「そういう生き方をしてきた」
アレンはカップの紅茶を口に運ぶ。その所作は無駄がなく、何もかもが決められたリズムに従っている。
エリスはその横顔を見つめながら、ふと口にした。
「あなたは、いつからそんなふうに人を信じなくなったのですか?」
思わぬ問いに、アレンの動きが止まった。瞳が氷のように細められる。
「……不用意な質問だな」
その声音にはわずかな棘が混じる。
「失礼しました」
「いや、いい。そうだな……信じるという行為に、何の意味があるのかを考えたことはあるか?」
「意味、ですか?」
「信頼は期待を含む。だが期待は裏切られるためにある。私はただ、それを早く理解しただけだ」
その言葉は、まるで自分自身を遠くから見て語っているような冷ややかさだった。
エリスは胸の奥で何かが疼くのを感じた。この男は冷たいのではない――失望することに、もう疲れたのだ。
「けれども」
エリスは小さく笑って言った。
「人を信じて傷ついたからこそ、誰かを守れる人もいますわ」
アレンの眉が、わずかに動く。
「その言葉を、君自身が信じているのか?」
「信じています」
エリスの返事は迷いがなかった。
アレンはほんの一瞬、静かに息を吐く。
「――興味深いな」
「私が、ですか?」
「ああ。取引相手として、だが」
アレンは笑みともつかない微かな表情を浮かべた。そこには確かに、先ほどまでの氷が少しだけ解けた気配があった。
***
午後、エリスは侯爵邸の庭に出て、マリアとともに歩いていた。敷地の奥にある噴水は陽の光で銀色に輝き、遠くで鳥の声が聞こえる。
「お嬢様、少し顔が明るくなりましたね」
「そうかしら。多分、少しだけ“自分の居場所”が見えた気がするの」
「侯爵様のおそばが、ですか?」
「ええ。あの方が何を考えているのかまだ分からないけれど……不思議と、怖くはないの」
マリアが微笑む。
「お嬢様は強いです。でも、どうかご自分を犠牲にしないでくださいね」
「分かっているわ。大丈夫」
その会話の背後で、二階の窓からアレンが二人を見下ろしていた。
淡々と視線を巡らせるだけのはずが、エリスが笑うその一瞬に、なぜか胸をかすめる微かな痛みがあった。
「……余計なことを考えるな」
自分に言い聞かせるように呟き、書類に視線を戻す。
彼にとってはただの取引――はずだった。
しかし、もうその境界線がわずかに揺らぎ始めていた。
(続く)
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