偽りの婚約者だったはずが、旦那様の溺愛が止まりません~冷徹侯爵の裏の顔は、私限定の甘すぎる人~

usako

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第9話 侯爵邸の朝食は甘すぎる

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 王城での面談から三日が経った。  
 朝、ヴァロウズ侯爵邸のダイニングには爽やかな香りが広がっていた。  
 新しく焙煎された豆の香り、焼きたてのクロワッサン、生クリームの甘い香り――どれも上質で、完璧に整えられた朝の空気だった。  

 エリスは大きな窓のそばの席に座り、紅茶を手にする。  
 王家からの謝罪が正式に文書で届き、すべての誤解が解かれた今、彼女の心は穏やかだった。  
 けれど、その穏やかさの中に、説明のつかない高鳴りが混じっていた。  
 それは隣に座るアレンのせいだと、自分でも分かっている。  

 「顔色が戻ったな」  
 新聞を閉じながら、アレンが紅茶を口にする。  
 いつもよりやわらかい声。それだけで少し心臓が跳ねる。  
 「ええ。昨日まで夢だった気もしますけど……すべてが終わったんですね」  
 「終わりではない。ここからが始まりだ」  
 淡々としたその一言が、なぜか嬉しく響いた。  
 彼の考える“始まり”の意味を、もう少し聞いてみたい――そんな思いが、胸の奥で芽生えていた。  

「しかし、王家はずいぶん大人しくなりましたね」  
「王家も面目を失うわけにはいかない。私たちとの対立を長引かせれば、彼らが非を認める証になる」  
「なるほど……侯爵様らしい、完璧な処理ですね」  
 軽く笑いながら答えるエリスに、アレンが穏やかな視線を向けた。  
 「君がいたからこそ成り立った。あの場で動じなかったのは見事だった」  
 「褒め言葉でしょうか?」  
 「もちろんだ。感情に飲まれぬ強さは簡単に得られるものではない」  
 ストレートな褒め言葉に、エリスの喉が少し詰まる。彼は本気でそう言っている。だからこそ、照れ隠しの冗談も出てこない。  

 少し沈黙が流れ、マリアが焼き立てのパンをテーブルに並べた。  
 その香ばしい甘い匂いに釣られて、エリスはナイフを取り、小さくクロワッサンを切る。  
 「……本当に美味しい。まるでお菓子みたいですね」  
 「シェフの趣味だ。君が甘いものを好むと言ったからな」  
 「え?」  
 アレンは何気ないようにカップを持ち上げる。  
 「覚えているか? 初めて侯爵邸に来たとき、紅茶に砂糖を二つ入れた」  
 「……そんなこと」  
 「案外よく覚えている」  
 エリスは頬が熱くなるのを覚えた。  
 彼にとっては何気なくても、自分にとっては違う。  
 冷徹な侯爵の印象しかなかった彼が、そんな細やかなことを記憶していたなんて。  

 「それにしても、最近の侯爵様は笑うことが増えましたね」  
 「笑っているか?」  
 「微笑程度には」  
 「……それは、君の影響かもしれないな」  
 「えっ?」  
 今度はエリスが目を見開いた。アレンは穏やかに笑みを浮かべる。  
 「私の生活は常に秩序で満たされていた。感情が介入する余地はなかった。だが君が来てからは、予想外のことが増えた」  
 「予想外?」  
 「思わず笑ってしまうようなことや、腹立たしいほど心が動く瞬間があるということだ」  
 そのまっすぐな言葉に、心臓が高鳴る。  
 “腹立たしいほど心が動く”――それはきっと、彼自身の認めた“揺らぎ”に違いない。  

「侯爵様、それはつまり――」  
 言いかけた瞬間、扉を叩く音が響いた。  
 執事のアーロンが入ってきて、空気が一気に日常の色に戻る。  
 「申し訳ありません、侯爵。公爵家より急な来客が」  
 アレンは姿勢を整えた。  
 「来客?」  
 「はい。グレイシア公爵閣下でございます」  
 「父が……!」と、エリスは思わず立ち上がった。  
 アレンは静かに頷いた。  
 「通せ」  

***

 重い足取りで入ってきたのは、エリスの父、オーウェン・グレイシア公爵だった。  
 誇り高く、いつも冷徹な判断を下す男。彼の目には複雑な疲労の色が宿っていた。  
 「……あれほど恥をかいた娘が、こうして再び社交界の表に立てるとは思わなんだ」  
 「お父様」  
 エリスは頭を下げた。過去の経緯――無実を信じてもらえなかった痛みは消えていない。だが、今ここで責め立てることもしたくはなかった。  
 「侯爵、あなたには感謝している。王家の面子を傷つけずに娘の名誉を取り戻してくださった」  
 「当然のことをしたまでです」  
 アレンの答えは短く、揺るがない。  
 公爵は少しだけ眉を上げる。  
 「だが……」  
 そこで言葉を切ると、エリスを見た。  
 「お前はこの“契約婚約”を本気で続けるつもりか?」  
 「はい」  
 即答だった。その速さに公爵が目を見開く。  
 「なぜだ。もはや家の名誉は回復した。今なら縁談もやり直せる」  
 「もう、誰かに与えられた縁など望みません。自分の意思で選んだ人の隣に立ちたいのです」  
 エリスの声は静かだった。だが、その一言には確かな誇りがあった。  

 父はしばし沈黙した後、アレンに視線を移す。  
 「……この娘を幸せにできるのか、侯爵」  
 「幸せという定義にもよりますが、少なくとも“孤独ではいさせない”自信はあります」  
 淡々としたその言葉に、公爵の口元がわずかに和らぐ。  
 「随分と不器用な答えだな」  
 「褒め言葉と受け取っておきましょう」  
 短いやりとりの中に、不思議な信頼が流れた。  
 やがて公爵は深く息を吐き、娘の肩に手を置く。  
 「ならば、父として言っておこう。……後悔するな」  
 「しません。もう、あの夜のような涙は流しません」  
 「そう願う」  
 背を向けながら言い残し、公爵は部屋を出た。  

 扉が閉まると、静寂が戻る。  
 アレンがふっと息を漏らした。  
 「君の父上は立派な人だ。だが、君の強さを恐れている」  
 「恐れている?」  
 「誇り高い娘を失う恐れだ。今までは父の庇護の下で守られてきた君が、もう私の隣に立つ力を得た」  
 エリスはその言葉を噛みしめた。  
 “守られる”存在ではなく、“並んで歩く”存在に――それが今の自分なのだと思う。  

 窓の外から、小鳥のさえずりが聞こえた。  
 その音を聞きながら、エリスは問いかける。  
 「……侯爵様。もしこの契約の期限が来ても、私たちはどうなるのでしょう?」  
 「どうしたい?」  
 不意をつく返答だった。  
 「どうしたいか……?」  
 「契約を解くのも、続けるのも自由だ。私はどちらでもいいと考えていたが……今は、もう少し君のそばにいたいと思っている」  
 アレンは紅茶を一口飲み、視線を外さずに続けた。  
 「この家は静かすぎた。君の声があるだけで、朝が違って見える」  
 エリスの胸に、柔らかな痛みが広がる。  
 「……それは、甘すぎるお言葉ですわ」  
 「甘い朝食には甘い言葉がよく似合う」  
 穏やかな笑みが浮かぶ。  
 その微笑を見て、エリスは知らずのうちに同じように笑っていた。  

 外の光が眩しく差し込み、銀食器がきらりと光る。  
 その瞬間、彼女は思った。  
 ――この時間が、永遠に続けばいいのに。  

(続く)
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