悪役令嬢は婚約破棄されてからが本番です~次期宰相殿下の溺愛が重すぎて困っています~

usako

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第3話 わたし、前世を思い出しました

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夜の帳が屋敷を包むころ、グラント公爵邸の廊下には、静かな足音が響いていた。  
リリアナは部屋の外に出て、広すぎる屋敷をゆっくりと歩いていた。旅装のまま、まだ何も片づけていない。何層にも重ねた静寂に、外の雪の落ちる音さえ聞こえる。  
ここに来てまだ半日。あまりにも現実離れしていて、頭の整理が追いつかない。  

夕食の席でシオンはほとんど口を開かなかった。  
わずかに食事の確認をしただけで、難しそうな文書に目を通していた。  
まるで彼女の存在など、無風の中の埃一粒程度しかないように。  
それでも、リリアナは不思議と傷つかなかった。彼には「情け」ではなく「理」で助けられている。それがむしろ心地よかった。  

廊下の窓から夜空を見上げる。  
濃紺の夜に星が瞬いていた。その光を見つめているうちに、胸の奥がかすかに熱くなる。  
“思い出してしまった”前世の記憶が、またひとつ、形を取り戻していく。  

前世の世界は、魔法も貴族も存在しない現代だった。名前も違う。  
彼女──いや、かつての「私」は、平凡なOLとして、何の変哲もない毎日を送っていた。  
仕事に追われ、恋人もおらず、趣味は唯一つ、「乙女ゲーム」だった。  
その中で最も夢中になった作品が『ロイヤル・ミラージュ』。  
王国の華やかな社交界を舞台に、王太子アレンと庶民出身の少女セシリアの恋を描いた、大人気の乙女ゲーム。  

だがリリアナは、攻略対象の誰よりも“悪役令嬢ルート”に心惹かれていた。  
主人公を苛める令嬢、婚約破棄され、断罪され、破滅する運命。  
なのに、彼女には芯があり、矜持があり、美しかった。  
どうしてこの子ばかり責められるのか──そう思いながら、エンディングで涙した。  
その後事故に遭い、目を覚ましたらこの世界にいた。  
気づけば“リリアナ・エメロード”の名を名乗っていた。  

つまり、今のわたしは、昔ゲームで憐れんだあの悪役令嬢そのもの。  
“シナリオ通り”ならすでに破滅。  
でも前世の記憶を取り戻した今なら、運命を書き換えられる。  
なのに皮肉なことに、記憶が戻ったのは婚約破棄のその瞬間だった。  
まるで誰かが、「今度こそ乗り越えなさい」と言っているようで。  

「……ほんと、都合のいい神様ね。」

リリアナは苦笑し、白い息を窓に吐いた。  
ふいに背後で足音がした。  
振り返ると、あの男が立っていた。屋内にもかかわらず黒の外套をはおり、手には本を持っている。  

「眠れないのか。」  
「……はい。いろいろ考えてしまって。」  

シオンは窓に近づき、十数歩ほど手前で立ち止まった。  
月光が彼の横顔を照らし、冷たい美貌が際立つ。  
「お前、今朝まで王宮にいた女とは思えないな。」  

「どういう意味ですか?」  
「泣くか喚くかして当然だ。だが、お前は笑っていた。王宮で。」

「……笑うしかなかったんです。」

そう答えると、リリアナは一瞬だけ窓の外に視線を逸らした。  
雪明かりが舞い降りてくる。  
「泣いたところで誰も信じてくれませんもの。前にも同じような目に遭いました。」

「前にも、とは?」

リリアナは息をのみ、すぐに笑んだ。  
「……夢の話です。似たような世界で、似たような終わりを迎える夢を、ずっと見ていたんです。」

嘘ではない。ただ、真実を包んだ言い方。  
シオンの表情は読み取れない。だが興味を失ってはいないようだった。  

「ふむ。そうか。……“終わりを知っている女”か。」

静かに呟いたその言葉に、なぜか胸がざわついた。  
彼は机の上に持ってきた本を置き、片手でページを繰る。  
古い地図と文献の束のようだった。  

「王宮の上層部では、今回の婚約破棄をめぐり派閥争いが起こっている。王太子が正しいと思っている者と、王家の権威を軽んじる愚か者だと思う者とにな。」

リリアナはわずかに眉を寄せた。  
「ということは、殿下の一存ではなく……誰かが裏で」  

「利用したんだ。お前も、セシリアという女も。」

シオンの声には、ほんの僅かな苛立ちが混じる。  
感情を表に出さぬ男の唇が、わずかに吊り上がる。  
「くだらん茶番だ。誰かを悪に仕立てて、自らの愚を隠す。王太子のやり口らしい。」

リリアナは、息を吸い、ゆっくりと吐いた。  
「なら、私は本当に都合のいい“悪役”だったのですね。」

「……お前がどう呼ばれようと、気にする必要はない。王都は虚飾でできている。」  
淡々とした言葉なのに、そこには妙な温度があった。冷たいようで温かい、鉄に包まれた炎のような。  

彼は続けた。  
「明日から少し仕事を手伝え。屋敷の管理体制を改める予定だ。人手がいる。」  

「わたしが……?従者のようなことをしてもよいのですか?」

「身分にこだわるほど暇ではない。やれるならやれ。」

リリアナはわずかに微笑んだ。  
「ありがとうございます。少しでも役に立てるなら嬉しいです。」  
頭を下げると、シオンは頷きもせず、ただ「休め」と一言だけ残して出ていった。  

扉が閉まり、部屋には再び静けさが戻る。  
リリアナはそっと胸に手を当てた。  
彼の目は、冷たくもどこか優しい。あの灰色の眼差しは人を怖がらせるほど鋭いのに、同時に、寂しげでもあった。  

──人を見る目。その奥の誠実さ。  
どうしてこんなに、懐かしい感覚がするのだろう。  

もしかしたら、この“ゲーム世界”の設定の外で、彼にも何かしら理由があるのかもしれない。  
けれどそれは、今はまだ分からない。  
知るのはもっと先の話だ。  

リリアナは寝台に戻り、夜着を身につけた。  
カーテンを閉じる前にもう一度外を見る。  
夜空に降る雪が、まるで新しい始まりの幕を下ろすように静かだった。  

「破滅ルートはもう終わった。次は、わたしのルートを始めましょう。」

小さく呟いたその声は、きっともう誰にも届かない。  
だが、確かに彼女自身の胸に響いていた。  

(続く)
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