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第2話 嘲笑の中で微笑む令嬢
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王都を離れたのは、婚約破棄の翌日の夜明けだった。
東の空が淡く明るくなり始めるころ、王都エメロード侯爵邸を出発する馬車は、静かに石畳を叩いて動き出した。リリアナの胸中には不思議な感覚が広がっていた。すべてを失ったはずなのに、何かから解き放たれたような、そんな軽さを感じていた。
窓の外に見える街並みは、まだ眠りを引きずっている。高い尖塔の影の向こう、かつて自分が慣れ親しんだ社交の世界がある。そして、そこでは今もきっと、彼女の名を汚す噂が渦巻いているのだろう。
「婚約破棄された侯爵令嬢」
「自業自得だ」
「まあ、あの冷たい瞳で殿下を見ていたものね」
そんな声が聞こえてくる気がした。
リリアナは小さく笑った。本当に、どこまでも滑稽な世界だ。善良を気取る貴族ほど、他人の失墜を見たがる。前世の彼女は、それを知りながらも“悪役令嬢”として振る舞い、結果として破滅した。だが今は違う。
「二度と、同じ過ちは繰り返さないわ。」
自分だけの静かな声で誓いを呟く。
馬車の向かう先は王都西の外れ、宰相家グラント公爵領の別邸だった。行き先をそこに決めたのは偶然ではない。リリアナには、ほんの僅かな希望があった。前世のゲームの中で唯一、自分を庇ってくれた人物──それが、次期宰相シオン・グラントだ。
彼はこの国の政治を一手に担う公爵家の嫡男であり、若くして頭脳明晰、冷徹で恐れられる男。王太子でさえ彼には一目置いていた。
そんな人物に、悪役令嬢のリリアナが助けられるルート──唯一のバッドエンド回避ルートが存在していたことを、彼女は思い出していたのだ。
「シオン殿下……この世界ではもう、ただの登場人物じゃないのね。」
馬車が小高い丘を越えると、目の前に広大な敷地が現れた。灰色の石造の屋敷。衛兵が整列し、巨大な黒鉄の門がゆっくりと開かれる。そこはグラント公爵家邸。
リリアナの胸に、わずかに緊張が走った。
自分のような立場の人間が、ここを訪ねるなど本来あり得ない。だが、行くあてもない今、頼れるのは彼しかいなかった。
「お嬢様、もうすぐ到着いたします。」
御者の声に、リリアナは姿勢を正した。
馬車が止まり、扉が開かれる。
瞬間、冬を思わせるような冷たい風が頬を撫でた。
正面玄関に立つ男の姿に、リリアナは思わず息を呑む。
背が高く、漆黒の髪を後ろで束ねた青年。鋭い灰色の瞳は観察するように彼女を見つめていた。シオン・グラントその人だった。
「……リリアナ・エメロード嬢、だな。」
低く響く声。
その声音だけで、空気が一瞬にして張り詰める。貴族らしい飾り立てた言葉遣いなど不要だとでも言うように、無駄がない。
リリアナは丁寧にドレスの裾を持ち上げ、一礼した。
「突然のご訪問をお許しくださいませ。シオン殿下──いえ、もう“殿下”ではありませんね。グラント公爵閣下。」
「呼び方はどうでもいい。」
短く切り捨てるように言うその声音に、彼の気質が滲んでいる。
「用件を。」
「……庇護を願いたく、参りました。」
わずかな間。凍りつくような沈黙が落ちた。
宰相家の敷居をまたぐ立場ではない。しかも婚約破棄された令嬢など、王都では同情よりも蔑みの対象だ。彼女がここに来るなど常識ではあり得なかった。
「侯爵家に頼ればいいだろう。父君が生きておられるはずだ。」
「父は病床にございます。王都の騒ぎを知れば、きっと耐えられません。私は……少しだけ時間が欲しいのです。」
リリアナの声は穏やかだった。だが、その瞳には強い光があった。
表面上は淑やかに、けれど瞳の奥には、折れることのない意志がある。
それを、シオンは見逃さなかった。
「ほう……。」
灰色の瞳が細められる。数秒後、彼は言った。
「面白い。滞在を許可しよう。ただし、条件がある。」
「条件……ですか?」
「俺の屋敷にいる間は、俺の命令に逆らうな。それが嫌なら、王都に戻れ。」
冷たくも淡々とした声音。その厳格さに、リリアナは胸の奥でわずかに笑う。
思い出した。彼はどんな時も感情を見せない。冷徹な政治家としての顔を崩すことはない男だと。だが、そんな彼が、やがて溺愛気味に豹変することも彼女は知っている。
「承知いたしました。公爵閣下の命に従いますわ。」
「いいだろう、使用人を呼ぶ。」
背を向けて歩き出すシオン。その仕草には隙がない。長身の背中が遠ざかるのを見つめながら、リリアナは小さく息を漏らした。
──これで一歩、進んだ。
破滅の運命を変えるための最初の一歩を。
案内された部屋は広く、静謐で、まるで時間が止まったように整っていた。暖炉の火が柔らかく灯り、壁には重厚な本棚が並んでいる。豪奢ではなく実用的、それでいてどこか冷たい。シオンの性格そのもののような部屋だった。
侍女が湯を用意し、静かに退出していく。リリアナは窓辺に立ち、夕暮れの光に染まる庭を眺めた。
黒い外壁と白い雪のコントラストが、美しかった。
──この邸にいる限り、王太子の噂も、社交界の嘲笑も届かない。
心の底で安堵し、深く息を吐いた瞬間、扉がノックされた。
「どうぞ。」
入ってきたのは再びシオンだった。
手にはひと束の書類を持っており、その一枚を机に置く。
「王太子より、お前を“監視対象”とする通達が出ている。王族への侮辱、名誉毀損、防諜上の疑いという名目だ。」
「……まあ、そんなことまで。」
驚くべきことではなかった。アレンの性格を知っている。あの男は、自分を切り捨てたことを正当化するために、いつだって“悪役”を必要とする。
だが、次の言葉が、リリアナの胸を大きく打つ。
「それでも、俺はお前を保護する。理由は単純だ。」
シオンの灰色の瞳が、鋭くも真っ直ぐに彼女を射抜いた。
「王太子の浅知恵を放置して国を腐らせるのは面倒だ。……それに。」
言葉を一度切り、わずかに口角が上がる。
「お前の目、いいな。負けを認めていない瞳だ。」
リリアナは一瞬動けなかった。
彼はまるで、魂の奥底まで見透かしているようだった。
あらゆる仮面を剥がされ、ありのままの自分が露わになる。そんな奇妙な感覚に、胸がざわめく。
「ありがとうございます、閣下。……必ず、この恩は返します。」
シオンは無表情のまま頷き、扉を閉めて去っていった。
その背中を見送りながら、リリアナは静かに息を吐いた。
──負けていない。
まだ、ここから新しい人生が始まる。
王太子が思い上がった裁定を下すなら、いつかその代償を払わせる。
ただし、復讐は冷静に、緻密に。
そして、彼に知らしめるのだ。
“悪役令嬢”などという言葉で縛れる女ではないということを。
窓の外では雪が舞い始めていた。
冬の気配の中、リリアナの新しい日々が静かに動き出す。
(続く)
東の空が淡く明るくなり始めるころ、王都エメロード侯爵邸を出発する馬車は、静かに石畳を叩いて動き出した。リリアナの胸中には不思議な感覚が広がっていた。すべてを失ったはずなのに、何かから解き放たれたような、そんな軽さを感じていた。
窓の外に見える街並みは、まだ眠りを引きずっている。高い尖塔の影の向こう、かつて自分が慣れ親しんだ社交の世界がある。そして、そこでは今もきっと、彼女の名を汚す噂が渦巻いているのだろう。
「婚約破棄された侯爵令嬢」
「自業自得だ」
「まあ、あの冷たい瞳で殿下を見ていたものね」
そんな声が聞こえてくる気がした。
リリアナは小さく笑った。本当に、どこまでも滑稽な世界だ。善良を気取る貴族ほど、他人の失墜を見たがる。前世の彼女は、それを知りながらも“悪役令嬢”として振る舞い、結果として破滅した。だが今は違う。
「二度と、同じ過ちは繰り返さないわ。」
自分だけの静かな声で誓いを呟く。
馬車の向かう先は王都西の外れ、宰相家グラント公爵領の別邸だった。行き先をそこに決めたのは偶然ではない。リリアナには、ほんの僅かな希望があった。前世のゲームの中で唯一、自分を庇ってくれた人物──それが、次期宰相シオン・グラントだ。
彼はこの国の政治を一手に担う公爵家の嫡男であり、若くして頭脳明晰、冷徹で恐れられる男。王太子でさえ彼には一目置いていた。
そんな人物に、悪役令嬢のリリアナが助けられるルート──唯一のバッドエンド回避ルートが存在していたことを、彼女は思い出していたのだ。
「シオン殿下……この世界ではもう、ただの登場人物じゃないのね。」
馬車が小高い丘を越えると、目の前に広大な敷地が現れた。灰色の石造の屋敷。衛兵が整列し、巨大な黒鉄の門がゆっくりと開かれる。そこはグラント公爵家邸。
リリアナの胸に、わずかに緊張が走った。
自分のような立場の人間が、ここを訪ねるなど本来あり得ない。だが、行くあてもない今、頼れるのは彼しかいなかった。
「お嬢様、もうすぐ到着いたします。」
御者の声に、リリアナは姿勢を正した。
馬車が止まり、扉が開かれる。
瞬間、冬を思わせるような冷たい風が頬を撫でた。
正面玄関に立つ男の姿に、リリアナは思わず息を呑む。
背が高く、漆黒の髪を後ろで束ねた青年。鋭い灰色の瞳は観察するように彼女を見つめていた。シオン・グラントその人だった。
「……リリアナ・エメロード嬢、だな。」
低く響く声。
その声音だけで、空気が一瞬にして張り詰める。貴族らしい飾り立てた言葉遣いなど不要だとでも言うように、無駄がない。
リリアナは丁寧にドレスの裾を持ち上げ、一礼した。
「突然のご訪問をお許しくださいませ。シオン殿下──いえ、もう“殿下”ではありませんね。グラント公爵閣下。」
「呼び方はどうでもいい。」
短く切り捨てるように言うその声音に、彼の気質が滲んでいる。
「用件を。」
「……庇護を願いたく、参りました。」
わずかな間。凍りつくような沈黙が落ちた。
宰相家の敷居をまたぐ立場ではない。しかも婚約破棄された令嬢など、王都では同情よりも蔑みの対象だ。彼女がここに来るなど常識ではあり得なかった。
「侯爵家に頼ればいいだろう。父君が生きておられるはずだ。」
「父は病床にございます。王都の騒ぎを知れば、きっと耐えられません。私は……少しだけ時間が欲しいのです。」
リリアナの声は穏やかだった。だが、その瞳には強い光があった。
表面上は淑やかに、けれど瞳の奥には、折れることのない意志がある。
それを、シオンは見逃さなかった。
「ほう……。」
灰色の瞳が細められる。数秒後、彼は言った。
「面白い。滞在を許可しよう。ただし、条件がある。」
「条件……ですか?」
「俺の屋敷にいる間は、俺の命令に逆らうな。それが嫌なら、王都に戻れ。」
冷たくも淡々とした声音。その厳格さに、リリアナは胸の奥でわずかに笑う。
思い出した。彼はどんな時も感情を見せない。冷徹な政治家としての顔を崩すことはない男だと。だが、そんな彼が、やがて溺愛気味に豹変することも彼女は知っている。
「承知いたしました。公爵閣下の命に従いますわ。」
「いいだろう、使用人を呼ぶ。」
背を向けて歩き出すシオン。その仕草には隙がない。長身の背中が遠ざかるのを見つめながら、リリアナは小さく息を漏らした。
──これで一歩、進んだ。
破滅の運命を変えるための最初の一歩を。
案内された部屋は広く、静謐で、まるで時間が止まったように整っていた。暖炉の火が柔らかく灯り、壁には重厚な本棚が並んでいる。豪奢ではなく実用的、それでいてどこか冷たい。シオンの性格そのもののような部屋だった。
侍女が湯を用意し、静かに退出していく。リリアナは窓辺に立ち、夕暮れの光に染まる庭を眺めた。
黒い外壁と白い雪のコントラストが、美しかった。
──この邸にいる限り、王太子の噂も、社交界の嘲笑も届かない。
心の底で安堵し、深く息を吐いた瞬間、扉がノックされた。
「どうぞ。」
入ってきたのは再びシオンだった。
手にはひと束の書類を持っており、その一枚を机に置く。
「王太子より、お前を“監視対象”とする通達が出ている。王族への侮辱、名誉毀損、防諜上の疑いという名目だ。」
「……まあ、そんなことまで。」
驚くべきことではなかった。アレンの性格を知っている。あの男は、自分を切り捨てたことを正当化するために、いつだって“悪役”を必要とする。
だが、次の言葉が、リリアナの胸を大きく打つ。
「それでも、俺はお前を保護する。理由は単純だ。」
シオンの灰色の瞳が、鋭くも真っ直ぐに彼女を射抜いた。
「王太子の浅知恵を放置して国を腐らせるのは面倒だ。……それに。」
言葉を一度切り、わずかに口角が上がる。
「お前の目、いいな。負けを認めていない瞳だ。」
リリアナは一瞬動けなかった。
彼はまるで、魂の奥底まで見透かしているようだった。
あらゆる仮面を剥がされ、ありのままの自分が露わになる。そんな奇妙な感覚に、胸がざわめく。
「ありがとうございます、閣下。……必ず、この恩は返します。」
シオンは無表情のまま頷き、扉を閉めて去っていった。
その背中を見送りながら、リリアナは静かに息を吐いた。
──負けていない。
まだ、ここから新しい人生が始まる。
王太子が思い上がった裁定を下すなら、いつかその代償を払わせる。
ただし、復讐は冷静に、緻密に。
そして、彼に知らしめるのだ。
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