悪役令嬢は婚約破棄されてからが本番です~次期宰相殿下の溺愛が重すぎて困っています~

usako

文字の大きさ
2 / 9

第2話 嘲笑の中で微笑む令嬢

しおりを挟む
王都を離れたのは、婚約破棄の翌日の夜明けだった。  
東の空が淡く明るくなり始めるころ、王都エメロード侯爵邸を出発する馬車は、静かに石畳を叩いて動き出した。リリアナの胸中には不思議な感覚が広がっていた。すべてを失ったはずなのに、何かから解き放たれたような、そんな軽さを感じていた。

窓の外に見える街並みは、まだ眠りを引きずっている。高い尖塔の影の向こう、かつて自分が慣れ親しんだ社交の世界がある。そして、そこでは今もきっと、彼女の名を汚す噂が渦巻いているのだろう。

「婚約破棄された侯爵令嬢」  
「自業自得だ」  
「まあ、あの冷たい瞳で殿下を見ていたものね」

そんな声が聞こえてくる気がした。  
リリアナは小さく笑った。本当に、どこまでも滑稽な世界だ。善良を気取る貴族ほど、他人の失墜を見たがる。前世の彼女は、それを知りながらも“悪役令嬢”として振る舞い、結果として破滅した。だが今は違う。

「二度と、同じ過ちは繰り返さないわ。」

自分だけの静かな声で誓いを呟く。  
馬車の向かう先は王都西の外れ、宰相家グラント公爵領の別邸だった。行き先をそこに決めたのは偶然ではない。リリアナには、ほんの僅かな希望があった。前世のゲームの中で唯一、自分を庇ってくれた人物──それが、次期宰相シオン・グラントだ。

彼はこの国の政治を一手に担う公爵家の嫡男であり、若くして頭脳明晰、冷徹で恐れられる男。王太子でさえ彼には一目置いていた。  
そんな人物に、悪役令嬢のリリアナが助けられるルート──唯一のバッドエンド回避ルートが存在していたことを、彼女は思い出していたのだ。

「シオン殿下……この世界ではもう、ただの登場人物じゃないのね。」

馬車が小高い丘を越えると、目の前に広大な敷地が現れた。灰色の石造の屋敷。衛兵が整列し、巨大な黒鉄の門がゆっくりと開かれる。そこはグラント公爵家邸。  
リリアナの胸に、わずかに緊張が走った。  
自分のような立場の人間が、ここを訪ねるなど本来あり得ない。だが、行くあてもない今、頼れるのは彼しかいなかった。

「お嬢様、もうすぐ到着いたします。」

御者の声に、リリアナは姿勢を正した。  
馬車が止まり、扉が開かれる。  
瞬間、冬を思わせるような冷たい風が頬を撫でた。  

正面玄関に立つ男の姿に、リリアナは思わず息を呑む。  
背が高く、漆黒の髪を後ろで束ねた青年。鋭い灰色の瞳は観察するように彼女を見つめていた。シオン・グラントその人だった。

「……リリアナ・エメロード嬢、だな。」

低く響く声。  
その声音だけで、空気が一瞬にして張り詰める。貴族らしい飾り立てた言葉遣いなど不要だとでも言うように、無駄がない。

リリアナは丁寧にドレスの裾を持ち上げ、一礼した。  
「突然のご訪問をお許しくださいませ。シオン殿下──いえ、もう“殿下”ではありませんね。グラント公爵閣下。」

「呼び方はどうでもいい。」  
短く切り捨てるように言うその声音に、彼の気質が滲んでいる。  
「用件を。」

「……庇護を願いたく、参りました。」

わずかな間。凍りつくような沈黙が落ちた。  
宰相家の敷居をまたぐ立場ではない。しかも婚約破棄された令嬢など、王都では同情よりも蔑みの対象だ。彼女がここに来るなど常識ではあり得なかった。

「侯爵家に頼ればいいだろう。父君が生きておられるはずだ。」

「父は病床にございます。王都の騒ぎを知れば、きっと耐えられません。私は……少しだけ時間が欲しいのです。」

リリアナの声は穏やかだった。だが、その瞳には強い光があった。  
表面上は淑やかに、けれど瞳の奥には、折れることのない意志がある。  
それを、シオンは見逃さなかった。  

「ほう……。」

灰色の瞳が細められる。数秒後、彼は言った。

「面白い。滞在を許可しよう。ただし、条件がある。」

「条件……ですか?」

「俺の屋敷にいる間は、俺の命令に逆らうな。それが嫌なら、王都に戻れ。」

冷たくも淡々とした声音。その厳格さに、リリアナは胸の奥でわずかに笑う。  
思い出した。彼はどんな時も感情を見せない。冷徹な政治家としての顔を崩すことはない男だと。だが、そんな彼が、やがて溺愛気味に豹変することも彼女は知っている。

「承知いたしました。公爵閣下の命に従いますわ。」

「いいだろう、使用人を呼ぶ。」

背を向けて歩き出すシオン。その仕草には隙がない。長身の背中が遠ざかるのを見つめながら、リリアナは小さく息を漏らした。

──これで一歩、進んだ。  
破滅の運命を変えるための最初の一歩を。

案内された部屋は広く、静謐で、まるで時間が止まったように整っていた。暖炉の火が柔らかく灯り、壁には重厚な本棚が並んでいる。豪奢ではなく実用的、それでいてどこか冷たい。シオンの性格そのもののような部屋だった。

侍女が湯を用意し、静かに退出していく。リリアナは窓辺に立ち、夕暮れの光に染まる庭を眺めた。  
黒い外壁と白い雪のコントラストが、美しかった。

──この邸にいる限り、王太子の噂も、社交界の嘲笑も届かない。

心の底で安堵し、深く息を吐いた瞬間、扉がノックされた。

「どうぞ。」

入ってきたのは再びシオンだった。  
手にはひと束の書類を持っており、その一枚を机に置く。

「王太子より、お前を“監視対象”とする通達が出ている。王族への侮辱、名誉毀損、防諜上の疑いという名目だ。」

「……まあ、そんなことまで。」

驚くべきことではなかった。アレンの性格を知っている。あの男は、自分を切り捨てたことを正当化するために、いつだって“悪役”を必要とする。

だが、次の言葉が、リリアナの胸を大きく打つ。

「それでも、俺はお前を保護する。理由は単純だ。」

シオンの灰色の瞳が、鋭くも真っ直ぐに彼女を射抜いた。

「王太子の浅知恵を放置して国を腐らせるのは面倒だ。……それに。」

言葉を一度切り、わずかに口角が上がる。

「お前の目、いいな。負けを認めていない瞳だ。」

リリアナは一瞬動けなかった。  
彼はまるで、魂の奥底まで見透かしているようだった。  
あらゆる仮面を剥がされ、ありのままの自分が露わになる。そんな奇妙な感覚に、胸がざわめく。

「ありがとうございます、閣下。……必ず、この恩は返します。」

シオンは無表情のまま頷き、扉を閉めて去っていった。  
その背中を見送りながら、リリアナは静かに息を吐いた。

──負けていない。  
まだ、ここから新しい人生が始まる。  
王太子が思い上がった裁定を下すなら、いつかその代償を払わせる。  
ただし、復讐は冷静に、緻密に。  
そして、彼に知らしめるのだ。  
“悪役令嬢”などという言葉で縛れる女ではないということを。

窓の外では雪が舞い始めていた。  
冬の気配の中、リリアナの新しい日々が静かに動き出す。  

(続く)
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ナイスミドルな国王に生まれ変わったことを利用してヒロインを成敗する

ぴぴみ
恋愛
少し前まで普通のアラサーOLだった莉乃。ある時目を覚ますとなんだか身体が重いことに気がついて…。声は低いバリトン。鏡に写るはナイスミドルなおじ様。 皆畏れるような眼差しで私を陛下と呼ぶ。 ヒロインが悪役令嬢からの被害を訴える。元女として前世の記憶持ちとしてこの状況違和感しかないのですが…。 なんとか成敗してみたい。

【完結】追放された子爵令嬢は実力で這い上がる〜家に帰ってこい?いえ、そんなのお断りです〜

Nekoyama
ファンタジー
魔法が優れた強い者が家督を継ぐ。そんな実力主義の子爵家の養女に入って4年、マリーナは魔法もマナーも勉学も頑張り、貴族令嬢にふさわしい教養を身に付けた。来年に魔法学園への入学をひかえ、期待に胸を膨らませていた矢先、家を追放されてしまう。放り出されたマリーナは怒りを胸に立ち上がり、幸せを掴んでいく。

婚約破棄?悪役令嬢の復讐は爆速で。

八雲
恋愛
「リリム・フォン・アスタロト! 貴様との婚約を破棄する!」 卒業パーティーの最中、婚約者である王太子エリオットから身に覚えのない罪を突きつけられた公爵令嬢リリム。隣には「真実の愛」を語るマシュマロ系男爵令嬢シャーリーの姿。 普通の令嬢なら泣き崩れる場面――だが、リリムは違った。

悪役令嬢として断罪された聖女様は復讐する

青の雀
恋愛
公爵令嬢のマリアベルーナは、厳しい母の躾により、完ぺきな淑女として生まれ育つ。 両親は政略結婚で、父は母以外の女性を囲っていた。 母の死後1年も経たないうちに、その愛人を公爵家に入れ、同い年のリリアーヌが異母妹となった。 リリアーヌは、自分こそが公爵家の一人娘だと言わんばかりにわが物顔で振る舞いマリアベルーナに迷惑をかける。 マリアベルーナには、5歳の頃より婚約者がいて、第1王子のレオンハルト殿下も、次第にリリアーヌに魅了されてしまい、ついには婚約破棄されてしまう。 すべてを失ったマリアベルーナは悲しみのあまり、修道院へ自ら行く。 修道院で聖女様に覚醒して…… 大慌てになるレオンハルトと公爵家の人々は、なんとかマリアベルーナに戻ってきてもらおうとあの手この手を画策するが マリアベルーナを巡って、各国で戦争が起こるかもしれない 完ぺきな淑女の上に、完ぺきなボディライン、完ぺきなお妃教育を持った聖女様は、自由に羽ばたいていく 今回も短編です 誰と結ばれるかは、ご想像にお任せします♡

悪役令嬢の私、計画通り追放されました ~無能な婚約者と傾国の未来を捨てて、隣国で大商人になります~

希羽
恋愛
​「ええ、喜んで国を去りましょう。――全て、私の計算通りですわ」 ​才色兼備と謳われた公爵令嬢セラフィーナは、卒業パーティーの場で、婚約者である王子から婚約破棄を突きつけられる。聖女を虐げた「悪役令嬢」として、満座の中で断罪される彼女。 ​しかし、その顔に悲壮感はない。むしろ、彼女は内心でほくそ笑んでいた――『計画通り』と。 ​無能な婚約者と、沈みゆく国の未来をとうに見限っていた彼女にとって、自ら悪役の汚名を着て国を追われることこそが、完璧なシナリオだったのだ。 ​莫大な手切れ金を手に、自由都市で商人『セーラ』として第二の人生を歩み始めた彼女。その類まれなる才覚は、やがて大陸の経済を揺るがすほどの渦を巻き起こしていく。 ​一方、有能な彼女を失った祖国は坂道を転がるように没落。愚かな元婚約者たちが、彼女の真価に気づき後悔した時、物語は最高のカタルシスを迎える――。

悪役とは誰が決めるのか。

SHIN
恋愛
ある小さな国の物語。 ちょっとした偶然で出会った平民の少女と公爵子息の恋物語。 二人には悪役令嬢と呼ばれる壁が立ちふさがります。 って、ちょっと待ってよ。 悪役令嬢だなんて呼ばないでよ。確かに公爵子息とは婚約関係だけど、全く興味は無いのよね。むしろ熨斗付けてあげるわよ。 それより私は、昔思い出した前世の記憶を使って色々商売がしたいの。 そもそも悪役って何なのか説明してくださらない? ※婚約破棄物です。

【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。

銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。 しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。 しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい……

【完結】悪役令嬢だったみたいなので婚約から回避してみた

22時完結
恋愛
春風に彩られた王国で、名門貴族ロゼリア家の娘ナタリアは、ある日見た悪夢によって人生が一変する。夢の中、彼女は「悪役令嬢」として婚約を破棄され、王国から追放される未来を目撃する。それを避けるため、彼女は最愛の王太子アレクサンダーから距離を置き、自らを守ろうとするが、彼の深い愛と執着が彼女の運命を変えていく。

処理中です...