8 / 9
第8話 「契約」で始まる新しい日々
しおりを挟む
朝の光が差し込む書斎には、紙をめくる乾いた音だけが響いていた。
薄く差し込む陽光の中、リリアナは机の前で姿勢を正していた。シオンが無言で書類を読み進めている間、彼女は紅茶にも手をつけずに待っている。
ようやく、紙束を置く音がした。
「報告書のまとめ方が正確だ。無駄がない。」
淡々とした声。
「ありがとうございます。お褒めいただけて光栄ですわ。」
リリアナは軽く微笑む。
シオンはその表情を一瞥し、紅茶を口に含んだ。
「……だが、お前の立場では、今後ただの記録係で済むとは思わないことだ。」
「……つまり、仕事が増えるということでしょうか?」
リリアナの声には、警戒ではなく、むしろ挑戦の色が混じっていた。
シオンは短く笑った。
「察しがいい。お前はこの屋敷にいる間、俺の秘書として働け。」
「秘書、ですか?」
「王家との折衝、政務の書類の整備、それから訪問の立会いだ。お前のように貴族の慣習と政治両方を知る人間は貴重だ。」
意外な言葉だった。
リリアナは一瞬口を開きかけ、すぐに閉じた。
前世の記憶がよぎる。彼女は日本で事務仕事をしていた。細かい書類整理や報告書作成には慣れている。
だが、この世界で「宰相の秘書」となるなんて──。
「信じられないわ。まさか、この私が……。」
「他に誰がいい。屋敷の使用人は政治に口を出せない。お前は例外だ。」
彼の言葉には、当然のような確信があった。
ためらうようにリリアナは問いかけた。
「どうして、そこまで私を信用してくださるのですか。」
「信用などしていない。」
即答。
だがその声には、わずかに柔らかさを含んでいた。
「だが、“理”の通じる相手とは働ける。嘘を重ねる人間よりずっと扱いやすい。」
その冷静な評価に、リリアナはふっと笑みをこぼした。
「理で選んだわけですね。では、その“理”に則るなら……私にも条件があります。」
シオンが片眉を上げた。
「条件?」
「ええ。私はただの雇われではなく、“契約”を交わしたいのです。」
リリアナの声音は落ち着いていた。
「契約内容は、『互いに嘘をつかないこと』。そして、『利用するなら対等であること』。……それが守れないなら、私はここを離れます。」
シオンの手が止まり、空気が張り詰めた。
彼の灰色の瞳が鋭く光る。
「……お前、随分強気だな。」
「ええ、前にいた世界では、自分の価値を守れなかった。だからこそ、今度は自分の力で立ちたいんです。」
その言葉に含まれた意志は真っ直ぐだった。
しばらく沈黙が流れ、シオンは指先で机を軽く叩いた。
「いいだろう。契約を結ぼう。」
「本当によろしいのですか?」
「俺は理屈の通る提案を否定しない。嘘をつかない……それは俺にとっても好都合だ。」
そう言ってシオンは懐から短剣を取り出した。
刃には、儀式用の魔法刻印が刻まれている。
リリアナの瞳が見開かれる。
「これは、魔法契約に……?」
「形だけの言葉より、魔法の方が確実だ。」
彼は指先を刃に触れ、わずかに血をにじませる。鉄の匂いが空気に溶けた。
次にその短剣をリリアナの前に差し出す。
「お前も同意するなら、血を垂らせ。互いの魔力を繋げば契約が成立する。」
彼女は迷いなく短剣をとり、指先を軽く傷つけた。
赤い滴が刃の上で混ざり合う。
瞬間、薄く白い光があたりを照らし、空気が震えた。
不思議と痛みはほとんどない。
代わりに胸の奥で、鋭い線のような感触が走る。
小さく光が消える。
それが、「契約成立」を意味していた。
「これで、あなたが嘘を言えば痛みを感じるはずです。もちろん、私も同じ。」
リリアナの声には冗談のようでいて、どこか誇らしさが滲んでいた。
シオンは短く息をついて苦笑した。
「まったく……面倒で、愉快な女だ。」
「面倒と言われるのは慣れております。」
「ああ、だろうな。」
笑い合うような空気が流れる。
冷たい理屈の中に、生きた温度が混ざり始めていた。
そのとき、扉が叩かれた。
「閣下、王都より急使が参っております。」
使用人の報告に、シオンは立ち上がる。
「またか。この時期に……。」
「どうなさいますか。」
「応接室に通せ。だが、リリアナ。」
「はい?」
「お前も同席しろ。秘書としての初仕事だ。」
彼女は軽く息を飲み、それから微笑んだ。
「承知いたしました。」
半開きになった扉の向こうから、凍った風が吹き込む。
そこに立っていたのは、王都の紋章をつけた使者だった。額には汗が浮かび、息を荒げている。
「グラント公爵閣下。王都にて急変が。陛下の体調が悪化し、王太子殿下が臨時代理を務めるとのことです。」
その言葉に、室内の空気が一瞬で変わる。
アレンが、国の実権を握ったということだ。
シオンの顔から笑みが消える。
「……ついに動いたか。」
「それが何を意味するのですか?」リリアナが問いかける。
「王家の権限を利用して、俺を排除しに来るだろう。あの日、お前を守った報いだ。」
「まさか……また私のせいで……。」
「違う。」
短く断ち切るような声。
「これは俺の戦いだ。だが、お前はもう巻き込まれている。ならば——」
シオンはその場で一歩近づき、リリアナの手を握った。
「契約でつながった以上、同じ戦場に立ってもらう。」
「……覚悟はできています。」
「言うだろうと思った。」
一瞬だけ、彼の口元に微かに笑みが浮かぶ。
だがその灰色の瞳はすでに未来を見据えていた。
「今日から本当の“宰相の屋敷”が動く。お前は俺の右腕として働け。」
リリアナはその言葉を胸に刻んだ。
この瞬間から、ただの庇護ではなく、“共に戦う関係”が始まったのだ。
窓の向こうでは、雪が静かに溶け始めていた。
春の兆しのような、新しい風が流れ込む。
契約の痛みはもう消え、代わりに不思議な温かさが残っていた。
この契約が、後にどんな運命を引き寄せるのか、まだ誰も知らない。
けれどリリアナは、もう怖くはなかった。
「ええ、初仕事ですね。全力で臨みます。」
その声は、確かに未来を見据えていた。
(続く)
薄く差し込む陽光の中、リリアナは机の前で姿勢を正していた。シオンが無言で書類を読み進めている間、彼女は紅茶にも手をつけずに待っている。
ようやく、紙束を置く音がした。
「報告書のまとめ方が正確だ。無駄がない。」
淡々とした声。
「ありがとうございます。お褒めいただけて光栄ですわ。」
リリアナは軽く微笑む。
シオンはその表情を一瞥し、紅茶を口に含んだ。
「……だが、お前の立場では、今後ただの記録係で済むとは思わないことだ。」
「……つまり、仕事が増えるということでしょうか?」
リリアナの声には、警戒ではなく、むしろ挑戦の色が混じっていた。
シオンは短く笑った。
「察しがいい。お前はこの屋敷にいる間、俺の秘書として働け。」
「秘書、ですか?」
「王家との折衝、政務の書類の整備、それから訪問の立会いだ。お前のように貴族の慣習と政治両方を知る人間は貴重だ。」
意外な言葉だった。
リリアナは一瞬口を開きかけ、すぐに閉じた。
前世の記憶がよぎる。彼女は日本で事務仕事をしていた。細かい書類整理や報告書作成には慣れている。
だが、この世界で「宰相の秘書」となるなんて──。
「信じられないわ。まさか、この私が……。」
「他に誰がいい。屋敷の使用人は政治に口を出せない。お前は例外だ。」
彼の言葉には、当然のような確信があった。
ためらうようにリリアナは問いかけた。
「どうして、そこまで私を信用してくださるのですか。」
「信用などしていない。」
即答。
だがその声には、わずかに柔らかさを含んでいた。
「だが、“理”の通じる相手とは働ける。嘘を重ねる人間よりずっと扱いやすい。」
その冷静な評価に、リリアナはふっと笑みをこぼした。
「理で選んだわけですね。では、その“理”に則るなら……私にも条件があります。」
シオンが片眉を上げた。
「条件?」
「ええ。私はただの雇われではなく、“契約”を交わしたいのです。」
リリアナの声音は落ち着いていた。
「契約内容は、『互いに嘘をつかないこと』。そして、『利用するなら対等であること』。……それが守れないなら、私はここを離れます。」
シオンの手が止まり、空気が張り詰めた。
彼の灰色の瞳が鋭く光る。
「……お前、随分強気だな。」
「ええ、前にいた世界では、自分の価値を守れなかった。だからこそ、今度は自分の力で立ちたいんです。」
その言葉に含まれた意志は真っ直ぐだった。
しばらく沈黙が流れ、シオンは指先で机を軽く叩いた。
「いいだろう。契約を結ぼう。」
「本当によろしいのですか?」
「俺は理屈の通る提案を否定しない。嘘をつかない……それは俺にとっても好都合だ。」
そう言ってシオンは懐から短剣を取り出した。
刃には、儀式用の魔法刻印が刻まれている。
リリアナの瞳が見開かれる。
「これは、魔法契約に……?」
「形だけの言葉より、魔法の方が確実だ。」
彼は指先を刃に触れ、わずかに血をにじませる。鉄の匂いが空気に溶けた。
次にその短剣をリリアナの前に差し出す。
「お前も同意するなら、血を垂らせ。互いの魔力を繋げば契約が成立する。」
彼女は迷いなく短剣をとり、指先を軽く傷つけた。
赤い滴が刃の上で混ざり合う。
瞬間、薄く白い光があたりを照らし、空気が震えた。
不思議と痛みはほとんどない。
代わりに胸の奥で、鋭い線のような感触が走る。
小さく光が消える。
それが、「契約成立」を意味していた。
「これで、あなたが嘘を言えば痛みを感じるはずです。もちろん、私も同じ。」
リリアナの声には冗談のようでいて、どこか誇らしさが滲んでいた。
シオンは短く息をついて苦笑した。
「まったく……面倒で、愉快な女だ。」
「面倒と言われるのは慣れております。」
「ああ、だろうな。」
笑い合うような空気が流れる。
冷たい理屈の中に、生きた温度が混ざり始めていた。
そのとき、扉が叩かれた。
「閣下、王都より急使が参っております。」
使用人の報告に、シオンは立ち上がる。
「またか。この時期に……。」
「どうなさいますか。」
「応接室に通せ。だが、リリアナ。」
「はい?」
「お前も同席しろ。秘書としての初仕事だ。」
彼女は軽く息を飲み、それから微笑んだ。
「承知いたしました。」
半開きになった扉の向こうから、凍った風が吹き込む。
そこに立っていたのは、王都の紋章をつけた使者だった。額には汗が浮かび、息を荒げている。
「グラント公爵閣下。王都にて急変が。陛下の体調が悪化し、王太子殿下が臨時代理を務めるとのことです。」
その言葉に、室内の空気が一瞬で変わる。
アレンが、国の実権を握ったということだ。
シオンの顔から笑みが消える。
「……ついに動いたか。」
「それが何を意味するのですか?」リリアナが問いかける。
「王家の権限を利用して、俺を排除しに来るだろう。あの日、お前を守った報いだ。」
「まさか……また私のせいで……。」
「違う。」
短く断ち切るような声。
「これは俺の戦いだ。だが、お前はもう巻き込まれている。ならば——」
シオンはその場で一歩近づき、リリアナの手を握った。
「契約でつながった以上、同じ戦場に立ってもらう。」
「……覚悟はできています。」
「言うだろうと思った。」
一瞬だけ、彼の口元に微かに笑みが浮かぶ。
だがその灰色の瞳はすでに未来を見据えていた。
「今日から本当の“宰相の屋敷”が動く。お前は俺の右腕として働け。」
リリアナはその言葉を胸に刻んだ。
この瞬間から、ただの庇護ではなく、“共に戦う関係”が始まったのだ。
窓の向こうでは、雪が静かに溶け始めていた。
春の兆しのような、新しい風が流れ込む。
契約の痛みはもう消え、代わりに不思議な温かさが残っていた。
この契約が、後にどんな運命を引き寄せるのか、まだ誰も知らない。
けれどリリアナは、もう怖くはなかった。
「ええ、初仕事ですね。全力で臨みます。」
その声は、確かに未来を見据えていた。
(続く)
0
あなたにおすすめの小説
ナイスミドルな国王に生まれ変わったことを利用してヒロインを成敗する
ぴぴみ
恋愛
少し前まで普通のアラサーOLだった莉乃。ある時目を覚ますとなんだか身体が重いことに気がついて…。声は低いバリトン。鏡に写るはナイスミドルなおじ様。
皆畏れるような眼差しで私を陛下と呼ぶ。
ヒロインが悪役令嬢からの被害を訴える。元女として前世の記憶持ちとしてこの状況違和感しかないのですが…。
なんとか成敗してみたい。
【完結】追放された子爵令嬢は実力で這い上がる〜家に帰ってこい?いえ、そんなのお断りです〜
Nekoyama
ファンタジー
魔法が優れた強い者が家督を継ぐ。そんな実力主義の子爵家の養女に入って4年、マリーナは魔法もマナーも勉学も頑張り、貴族令嬢にふさわしい教養を身に付けた。来年に魔法学園への入学をひかえ、期待に胸を膨らませていた矢先、家を追放されてしまう。放り出されたマリーナは怒りを胸に立ち上がり、幸せを掴んでいく。
婚約破棄?悪役令嬢の復讐は爆速で。
八雲
恋愛
「リリム・フォン・アスタロト! 貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの最中、婚約者である王太子エリオットから身に覚えのない罪を突きつけられた公爵令嬢リリム。隣には「真実の愛」を語るマシュマロ系男爵令嬢シャーリーの姿。
普通の令嬢なら泣き崩れる場面――だが、リリムは違った。
悪役令嬢として断罪された聖女様は復讐する
青の雀
恋愛
公爵令嬢のマリアベルーナは、厳しい母の躾により、完ぺきな淑女として生まれ育つ。
両親は政略結婚で、父は母以外の女性を囲っていた。
母の死後1年も経たないうちに、その愛人を公爵家に入れ、同い年のリリアーヌが異母妹となった。
リリアーヌは、自分こそが公爵家の一人娘だと言わんばかりにわが物顔で振る舞いマリアベルーナに迷惑をかける。
マリアベルーナには、5歳の頃より婚約者がいて、第1王子のレオンハルト殿下も、次第にリリアーヌに魅了されてしまい、ついには婚約破棄されてしまう。
すべてを失ったマリアベルーナは悲しみのあまり、修道院へ自ら行く。
修道院で聖女様に覚醒して……
大慌てになるレオンハルトと公爵家の人々は、なんとかマリアベルーナに戻ってきてもらおうとあの手この手を画策するが
マリアベルーナを巡って、各国で戦争が起こるかもしれない
完ぺきな淑女の上に、完ぺきなボディライン、完ぺきなお妃教育を持った聖女様は、自由に羽ばたいていく
今回も短編です
誰と結ばれるかは、ご想像にお任せします♡
悪役令嬢の私、計画通り追放されました ~無能な婚約者と傾国の未来を捨てて、隣国で大商人になります~
希羽
恋愛
「ええ、喜んで国を去りましょう。――全て、私の計算通りですわ」
才色兼備と謳われた公爵令嬢セラフィーナは、卒業パーティーの場で、婚約者である王子から婚約破棄を突きつけられる。聖女を虐げた「悪役令嬢」として、満座の中で断罪される彼女。
しかし、その顔に悲壮感はない。むしろ、彼女は内心でほくそ笑んでいた――『計画通り』と。
無能な婚約者と、沈みゆく国の未来をとうに見限っていた彼女にとって、自ら悪役の汚名を着て国を追われることこそが、完璧なシナリオだったのだ。
莫大な手切れ金を手に、自由都市で商人『セーラ』として第二の人生を歩み始めた彼女。その類まれなる才覚は、やがて大陸の経済を揺るがすほどの渦を巻き起こしていく。
一方、有能な彼女を失った祖国は坂道を転がるように没落。愚かな元婚約者たちが、彼女の真価に気づき後悔した時、物語は最高のカタルシスを迎える――。
悪役とは誰が決めるのか。
SHIN
恋愛
ある小さな国の物語。
ちょっとした偶然で出会った平民の少女と公爵子息の恋物語。
二人には悪役令嬢と呼ばれる壁が立ちふさがります。
って、ちょっと待ってよ。
悪役令嬢だなんて呼ばないでよ。確かに公爵子息とは婚約関係だけど、全く興味は無いのよね。むしろ熨斗付けてあげるわよ。
それより私は、昔思い出した前世の記憶を使って色々商売がしたいの。
そもそも悪役って何なのか説明してくださらない?
※婚約破棄物です。
【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。
銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。
しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。
しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい……
【完結】悪役令嬢だったみたいなので婚約から回避してみた
22時完結
恋愛
春風に彩られた王国で、名門貴族ロゼリア家の娘ナタリアは、ある日見た悪夢によって人生が一変する。夢の中、彼女は「悪役令嬢」として婚約を破棄され、王国から追放される未来を目撃する。それを避けるため、彼女は最愛の王太子アレクサンダーから距離を置き、自らを守ろうとするが、彼の深い愛と執着が彼女の運命を変えていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる