悪役令嬢は婚約破棄されてからが本番です~次期宰相殿下の溺愛が重すぎて困っています~

usako

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第8話 「契約」で始まる新しい日々

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朝の光が差し込む書斎には、紙をめくる乾いた音だけが響いていた。  
薄く差し込む陽光の中、リリアナは机の前で姿勢を正していた。シオンが無言で書類を読み進めている間、彼女は紅茶にも手をつけずに待っている。  
ようやく、紙束を置く音がした。

「報告書のまとめ方が正確だ。無駄がない。」  
淡々とした声。  
「ありがとうございます。お褒めいただけて光栄ですわ。」  
リリアナは軽く微笑む。  
シオンはその表情を一瞥し、紅茶を口に含んだ。  
「……だが、お前の立場では、今後ただの記録係で済むとは思わないことだ。」

「……つまり、仕事が増えるということでしょうか?」  
リリアナの声には、警戒ではなく、むしろ挑戦の色が混じっていた。  
シオンは短く笑った。  
「察しがいい。お前はこの屋敷にいる間、俺の秘書として働け。」

「秘書、ですか?」  
「王家との折衝、政務の書類の整備、それから訪問の立会いだ。お前のように貴族の慣習と政治両方を知る人間は貴重だ。」

意外な言葉だった。  
リリアナは一瞬口を開きかけ、すぐに閉じた。  
前世の記憶がよぎる。彼女は日本で事務仕事をしていた。細かい書類整理や報告書作成には慣れている。  
だが、この世界で「宰相の秘書」となるなんて──。  

「信じられないわ。まさか、この私が……。」  
「他に誰がいい。屋敷の使用人は政治に口を出せない。お前は例外だ。」

彼の言葉には、当然のような確信があった。  
ためらうようにリリアナは問いかけた。  
「どうして、そこまで私を信用してくださるのですか。」

「信用などしていない。」  
即答。  
だがその声には、わずかに柔らかさを含んでいた。  
「だが、“理”の通じる相手とは働ける。嘘を重ねる人間よりずっと扱いやすい。」

その冷静な評価に、リリアナはふっと笑みをこぼした。  
「理で選んだわけですね。では、その“理”に則るなら……私にも条件があります。」

シオンが片眉を上げた。  
「条件?」

「ええ。私はただの雇われではなく、“契約”を交わしたいのです。」  
リリアナの声音は落ち着いていた。  
「契約内容は、『互いに嘘をつかないこと』。そして、『利用するなら対等であること』。……それが守れないなら、私はここを離れます。」

シオンの手が止まり、空気が張り詰めた。  
彼の灰色の瞳が鋭く光る。  
「……お前、随分強気だな。」

「ええ、前にいた世界では、自分の価値を守れなかった。だからこそ、今度は自分の力で立ちたいんです。」

その言葉に含まれた意志は真っ直ぐだった。  
しばらく沈黙が流れ、シオンは指先で机を軽く叩いた。  
「いいだろう。契約を結ぼう。」

「本当によろしいのですか?」

「俺は理屈の通る提案を否定しない。嘘をつかない……それは俺にとっても好都合だ。」

そう言ってシオンは懐から短剣を取り出した。  
刃には、儀式用の魔法刻印が刻まれている。  
リリアナの瞳が見開かれる。

「これは、魔法契約に……?」

「形だけの言葉より、魔法の方が確実だ。」  
彼は指先を刃に触れ、わずかに血をにじませる。鉄の匂いが空気に溶けた。  
次にその短剣をリリアナの前に差し出す。  
「お前も同意するなら、血を垂らせ。互いの魔力を繋げば契約が成立する。」

彼女は迷いなく短剣をとり、指先を軽く傷つけた。  
赤い滴が刃の上で混ざり合う。  
瞬間、薄く白い光があたりを照らし、空気が震えた。  
不思議と痛みはほとんどない。  
代わりに胸の奥で、鋭い線のような感触が走る。  

小さく光が消える。  
それが、「契約成立」を意味していた。  

「これで、あなたが嘘を言えば痛みを感じるはずです。もちろん、私も同じ。」  
リリアナの声には冗談のようでいて、どこか誇らしさが滲んでいた。  
シオンは短く息をついて苦笑した。  
「まったく……面倒で、愉快な女だ。」

「面倒と言われるのは慣れております。」

「ああ、だろうな。」

笑い合うような空気が流れる。  
冷たい理屈の中に、生きた温度が混ざり始めていた。  

そのとき、扉が叩かれた。  
「閣下、王都より急使が参っております。」  
使用人の報告に、シオンは立ち上がる。  
「またか。この時期に……。」

「どうなさいますか。」

「応接室に通せ。だが、リリアナ。」

「はい?」

「お前も同席しろ。秘書としての初仕事だ。」

彼女は軽く息を飲み、それから微笑んだ。  
「承知いたしました。」

半開きになった扉の向こうから、凍った風が吹き込む。  
そこに立っていたのは、王都の紋章をつけた使者だった。額には汗が浮かび、息を荒げている。  
「グラント公爵閣下。王都にて急変が。陛下の体調が悪化し、王太子殿下が臨時代理を務めるとのことです。」

その言葉に、室内の空気が一瞬で変わる。  
アレンが、国の実権を握ったということだ。  
シオンの顔から笑みが消える。  
「……ついに動いたか。」

「それが何を意味するのですか?」リリアナが問いかける。  
「王家の権限を利用して、俺を排除しに来るだろう。あの日、お前を守った報いだ。」

「まさか……また私のせいで……。」

「違う。」  
短く断ち切るような声。  
「これは俺の戦いだ。だが、お前はもう巻き込まれている。ならば——」

シオンはその場で一歩近づき、リリアナの手を握った。  
「契約でつながった以上、同じ戦場に立ってもらう。」

「……覚悟はできています。」

「言うだろうと思った。」

一瞬だけ、彼の口元に微かに笑みが浮かぶ。  
だがその灰色の瞳はすでに未来を見据えていた。  

「今日から本当の“宰相の屋敷”が動く。お前は俺の右腕として働け。」

リリアナはその言葉を胸に刻んだ。  
この瞬間から、ただの庇護ではなく、“共に戦う関係”が始まったのだ。  

窓の向こうでは、雪が静かに溶け始めていた。  
春の兆しのような、新しい風が流れ込む。  
契約の痛みはもう消え、代わりに不思議な温かさが残っていた。  

この契約が、後にどんな運命を引き寄せるのか、まだ誰も知らない。  
けれどリリアナは、もう怖くはなかった。  

「ええ、初仕事ですね。全力で臨みます。」  
その声は、確かに未来を見据えていた。  

(続く)
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