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第7話 冷徹宰相の屋敷へ
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吹雪の翌朝、屋敷は一晩で雪に包まれていた。
窓の外に広がる庭園は白一色に染まり、木々の枝が重たげに垂れている。世界が音を失っているようだった。
その静寂の中、リリアナは早朝から起きて机に向かっていた。筆先が紙の上をすべり、昨夜まとめた報告書の清書を仕上げる。
昨日の襲撃、その経緯、襲撃者が残した紋章、そして対処にいたるすべてを記した報告書。それを渡すのが今日の最初の仕事だった。
廊下を歩く足音だけが響く。
重厚な執務室の扉を叩くと、「入れ」と短い声が返る。
そこに待っていたのは、いつも通りのシオン・グラント。
彼は机にひろがる山のような書簡を前に、淡々とペンを走らせていた。黒髪の一房が頬にかかっている。
灰色の瞳が彼女を認識するまでに、少し間があった。
「報告書をお持ちしました、閣下。」
「置いていけ。」
リリアナは机の端にファイルを重ね、姿勢を正した。
しかしシオンは目線だけこちらに上げて、ひとことも言わない。
気まずい沈黙が流れ、時計の音だけが微かに響いた。
数秒後、彼は書類をめくりながら言った。
「冒険だったな。」
「……はい、まあ、そうですね。」
リリアナは苦笑する。怒られると構えていたのに、意外な言葉。それが少しだけ拍子抜けで、同時に少しうれしかった。
しかしシオンは淡々と続けた。
「生きて帰っただけでも上出来だ。命を守る訓練が足りない。貴族の娘は危機の場で動けないのが普通だ。」
「あら、私なら次はもう少しましに動けると思います。」
その冗談に、珍しくシオンの唇がわずかに動いた。
「そうか。だが二度は許さん。」
低い声なのに、ほのかな温かみが混ざる。
リリアナは素直に頷いた。
「……はい、肝に銘じます。」
そのやりとりのあと、彼は報告書を軽くめくり、ある一文で指先を止めた。
「王宮近衛の紋章を確認した、か。」
「間違いありません。」
「つまり、王宮直属の人間が私の領地で動いた。」
淡々とした口調の裏で、シオンの瞳に風のような冷たさが走った。
「この件は放っておけんな。」
「陛下には……」
「まだ報告するな。」
鋭い声に被せられたその言葉が、部屋の空気を凍らせた。
「陛下にも、アレンにも、誰にも言うな。お前を狙ったと知られたら、次は確実に王都が動く。」
「……わかりました。」
リリアナは口を閉ざす。答えるしかなかった。
ふと、机の上に視線をやると、整然と並んだ封書の中からひとつ違う色の印章が目に留まった。青い蝋の刻印——王家の獅子。
恐らく、王太子からの正式な通達。
シオンはそれをわざと見せつけるように、手で押さえた。
「王太子が俺に出した命令状だ。『リリアナ・エメロードを引き渡せ』とな。」
「……そんな。」
息を飲む音が響いた。
一瞬にして血の気が引く。
アレンの執念はそこまで来ている。
「もちろん、突き返す。理由などいくらでも作れる。」
シオンは淡々と言いながら、王家の紋章を付けた封書を破いた。蝋が割れ、紙が裂かれる音が、異様に鮮明に響く。
「公爵家は王家に従う義務があるが、愚かに従う義務はない。」
その強さに、リリアナは思わず見入った。
彼は本当に、この国の冷徹な宰相なのだ。どんな権威にも屈しない理知と力を持つ男。
「なぜ、そんなに私を庇ってくださるのですか。」
その問いは、自分でも不意だった。
だが彼は即答しなかった。静かに椅子を回し、窓際に歩いていく。
外では降りやまぬ雪が、薄い光の中で舞っている。
「……放っておけば、また同じ目をするからだ。」
「同じ目?」
「断罪されていたときのお前の顔だ。あれは、俺が昔見た誰かと同じ顔だった。」
言いながら、彼は窓を見つめたまま笑みのようなものを浮かべた。
それは自嘲にも似ていた。
「父を裏切った貴族どもの前で、あの人も同じ顔をしていた。『恥ではなく誇りを守った顔』だ。」
「……あなたのお父様のことですか。」
「そうだ。腐敗を告発した正義の人間が、裏で仕組まれた罪で断頭台に立つ。」
言葉を失った。
リリアナは、彼の声の奥に沈む痛みを感じ取った。
冷徹と言われる宰相は、誰よりも人を信じたがゆえに、誰よりも傷を負った人なのだ。
「だから、同じようなものを見過ごせなかった。それだけだ。」
短い言葉だった。
それが彼の“救いの理屈”なのだと、リリアナは理解した。
決して感情で動かない男が、それでも誰かを助けるのには、ちゃんと理由がある。
「……ありがとうございます。」
「礼はいらん。俺は俺の都合で動いただけだ。」
そう言って歩み寄り、机の上の紅茶を取り、彼女の前に置く。
「冷えてるだろう。飲め。」
湯気の立つ紅茶が、部屋に穏やかな香りを広げた。
琥珀の液体の中に映るシオンの横顔。
その姿を見ながら、リリアナは胸の奥で何かが静かに変わるのを感じた。
この人のもとでなら、自分はもう少し強くなれるかもしれない。
復讐ではなく、正しい未来を掴むために。
カップを手に取る。指先に温もりが広がる。
それはまるで、彼の心の奥の熱を分け与えられたようだった。
「……もし、また危険が迫るようなら、私はどうすればいいですか。」
「迷わず俺を呼べ。」
「命令、ですか。」
「いや——約束だ。」
灰色の瞳が彼女を映す。
その光は、鋭さの奥に確かな優しさを宿していた。
リリアナは微笑んだ。
「ええ、守られるだけの令嬢では終わりませんから。」
「それは困るな。守らせろ。」
わずかに重なった会話のあと、二人の間に再び静寂が落ちた。
だが、それはもう以前の気まずい沈黙ではない。
互いの存在を受け入れた穏やかな静けさだった。
窓の外に雪がしんしんと降り続く。
その降り積もる音の中で、リリアナは思う。
運命に翻弄された自分が、ようやく居場所を見つけたのかもしれない、と。
シオンという男の隣こそ、彼女が新たに踏み出すための“舞台”。
胸の奥で静かに灯がともるのを感じながら、彼女は紅茶を一口飲んだ。
外は冷たい雪の世界。けれど心の奥では、確かなぬくもりが息づいていた。
(続く)
窓の外に広がる庭園は白一色に染まり、木々の枝が重たげに垂れている。世界が音を失っているようだった。
その静寂の中、リリアナは早朝から起きて机に向かっていた。筆先が紙の上をすべり、昨夜まとめた報告書の清書を仕上げる。
昨日の襲撃、その経緯、襲撃者が残した紋章、そして対処にいたるすべてを記した報告書。それを渡すのが今日の最初の仕事だった。
廊下を歩く足音だけが響く。
重厚な執務室の扉を叩くと、「入れ」と短い声が返る。
そこに待っていたのは、いつも通りのシオン・グラント。
彼は机にひろがる山のような書簡を前に、淡々とペンを走らせていた。黒髪の一房が頬にかかっている。
灰色の瞳が彼女を認識するまでに、少し間があった。
「報告書をお持ちしました、閣下。」
「置いていけ。」
リリアナは机の端にファイルを重ね、姿勢を正した。
しかしシオンは目線だけこちらに上げて、ひとことも言わない。
気まずい沈黙が流れ、時計の音だけが微かに響いた。
数秒後、彼は書類をめくりながら言った。
「冒険だったな。」
「……はい、まあ、そうですね。」
リリアナは苦笑する。怒られると構えていたのに、意外な言葉。それが少しだけ拍子抜けで、同時に少しうれしかった。
しかしシオンは淡々と続けた。
「生きて帰っただけでも上出来だ。命を守る訓練が足りない。貴族の娘は危機の場で動けないのが普通だ。」
「あら、私なら次はもう少しましに動けると思います。」
その冗談に、珍しくシオンの唇がわずかに動いた。
「そうか。だが二度は許さん。」
低い声なのに、ほのかな温かみが混ざる。
リリアナは素直に頷いた。
「……はい、肝に銘じます。」
そのやりとりのあと、彼は報告書を軽くめくり、ある一文で指先を止めた。
「王宮近衛の紋章を確認した、か。」
「間違いありません。」
「つまり、王宮直属の人間が私の領地で動いた。」
淡々とした口調の裏で、シオンの瞳に風のような冷たさが走った。
「この件は放っておけんな。」
「陛下には……」
「まだ報告するな。」
鋭い声に被せられたその言葉が、部屋の空気を凍らせた。
「陛下にも、アレンにも、誰にも言うな。お前を狙ったと知られたら、次は確実に王都が動く。」
「……わかりました。」
リリアナは口を閉ざす。答えるしかなかった。
ふと、机の上に視線をやると、整然と並んだ封書の中からひとつ違う色の印章が目に留まった。青い蝋の刻印——王家の獅子。
恐らく、王太子からの正式な通達。
シオンはそれをわざと見せつけるように、手で押さえた。
「王太子が俺に出した命令状だ。『リリアナ・エメロードを引き渡せ』とな。」
「……そんな。」
息を飲む音が響いた。
一瞬にして血の気が引く。
アレンの執念はそこまで来ている。
「もちろん、突き返す。理由などいくらでも作れる。」
シオンは淡々と言いながら、王家の紋章を付けた封書を破いた。蝋が割れ、紙が裂かれる音が、異様に鮮明に響く。
「公爵家は王家に従う義務があるが、愚かに従う義務はない。」
その強さに、リリアナは思わず見入った。
彼は本当に、この国の冷徹な宰相なのだ。どんな権威にも屈しない理知と力を持つ男。
「なぜ、そんなに私を庇ってくださるのですか。」
その問いは、自分でも不意だった。
だが彼は即答しなかった。静かに椅子を回し、窓際に歩いていく。
外では降りやまぬ雪が、薄い光の中で舞っている。
「……放っておけば、また同じ目をするからだ。」
「同じ目?」
「断罪されていたときのお前の顔だ。あれは、俺が昔見た誰かと同じ顔だった。」
言いながら、彼は窓を見つめたまま笑みのようなものを浮かべた。
それは自嘲にも似ていた。
「父を裏切った貴族どもの前で、あの人も同じ顔をしていた。『恥ではなく誇りを守った顔』だ。」
「……あなたのお父様のことですか。」
「そうだ。腐敗を告発した正義の人間が、裏で仕組まれた罪で断頭台に立つ。」
言葉を失った。
リリアナは、彼の声の奥に沈む痛みを感じ取った。
冷徹と言われる宰相は、誰よりも人を信じたがゆえに、誰よりも傷を負った人なのだ。
「だから、同じようなものを見過ごせなかった。それだけだ。」
短い言葉だった。
それが彼の“救いの理屈”なのだと、リリアナは理解した。
決して感情で動かない男が、それでも誰かを助けるのには、ちゃんと理由がある。
「……ありがとうございます。」
「礼はいらん。俺は俺の都合で動いただけだ。」
そう言って歩み寄り、机の上の紅茶を取り、彼女の前に置く。
「冷えてるだろう。飲め。」
湯気の立つ紅茶が、部屋に穏やかな香りを広げた。
琥珀の液体の中に映るシオンの横顔。
その姿を見ながら、リリアナは胸の奥で何かが静かに変わるのを感じた。
この人のもとでなら、自分はもう少し強くなれるかもしれない。
復讐ではなく、正しい未来を掴むために。
カップを手に取る。指先に温もりが広がる。
それはまるで、彼の心の奥の熱を分け与えられたようだった。
「……もし、また危険が迫るようなら、私はどうすればいいですか。」
「迷わず俺を呼べ。」
「命令、ですか。」
「いや——約束だ。」
灰色の瞳が彼女を映す。
その光は、鋭さの奥に確かな優しさを宿していた。
リリアナは微笑んだ。
「ええ、守られるだけの令嬢では終わりませんから。」
「それは困るな。守らせろ。」
わずかに重なった会話のあと、二人の間に再び静寂が落ちた。
だが、それはもう以前の気まずい沈黙ではない。
互いの存在を受け入れた穏やかな静けさだった。
窓の外に雪がしんしんと降り続く。
その降り積もる音の中で、リリアナは思う。
運命に翻弄された自分が、ようやく居場所を見つけたのかもしれない、と。
シオンという男の隣こそ、彼女が新たに踏み出すための“舞台”。
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