半月の探偵

山田湖

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第三夜 伝説の贋作

吠えることしか能のない駄犬

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――桜の花びらは散っても死んでも美しい、そんなことを誰かが口にしていたのを覚えている。どんなに土で汚れようとも、踏みつけにされようとも気高き存在感を誇るとも。

 なぜ急にそんなことを思い出したのだろう。押し寄せる緊張と不安、絶望に支配された色のない濁流にのまれながら、なぜそんなことを急に……。


 だが、それでも今一つだけ言えることがある。

 「そ……んなの……嘘じゃないか……全部、全部、全部、全部、全部っ!!」

 白谷透は、耳元で上がった獣にも似た絶叫が自分の物であると気づいた時、虚無に汚染された瞳で見慣れていたはずの家の天井を見上げて呟いたのだった。





「透!! っ!!」「白……」
 誰かが大声で中にいる者に呼びかけるが、驚きとショックのあまり咽頭が縮小してしまったのか、その後は発声できなかった。先の二言は国本と彼による物だ。

「うっぷ……うう、こ……れは」
 現場に入った彼らが見たもの……それはこの連続殺人事件の中で最も惨いといえる死体だった。テーブルの上には人の原形を留めていない遺体が寝かされており、その横には内臓らしきものが丁寧に並べられたうえに椅子の横には肉片が積み上げられている。
 その前には茫然自失となっている白谷の姿があった。テーブルの上にある遺体に手を触れようとしているがその手はむなしく空を切るのみであった。姉に手を触れたくても、脳が目の前に広がる赤い鮮血と人間の亡骸で構成された光景と関わりたくないと判断を下しているため完全に肘が伸び切らないのだ。
……白谷はそうした自分も含めて目の前の惨劇を受け入れることができていない、いや受け入れたくないのかもしれない。

「努、有栖……外に出してやれ……」
 そう捻りだすように指示を出した大津の声は表情をうかがい知れぬ、無表情なものだった。国本と冬木もうつむき加減に無言で白谷を持ち上げるようにして抱え、外に運び出そうとする。白谷を抱える二人の体は恐怖のあまり震えていた。白谷はその間、操り手のいない人形のようにぴくりとも動かなかった。

 涙を一滴だけ、かつての楽園に残して。

 白谷が二人によって外に運び出されたのを見た大津は彼の方に目を向ける。これから言おうとしていたことは警察全体の士気を下げかねない。
「それから匠君……どうやら俺たちは……」
 負けたらしいと言おうとした大津の言葉に割り込むようにして、彼は静かに、だが前の惨劇を見据えながら言う。
「まだ……ですよ。だって相手がどれだけ凶悪でも、他人より優れていても、一回捕まえてしまえば警察の勝ちだと……師匠は言っていました」
 その声は冷静さを帯びていたが、だんだんと震えてきている。
「それ……でも……これは……こ……れはこんなのって……あまりにも……」
 そして、彼はブロックを積み重ねてできた建物が、なんの考えもない子供の無垢な手によって崩壊されたかのようにその場に崩れ落ち、膝をつく。
「匠君」
 大津は彼を起こそうとして肩を持とうとしたが、「は……」と手を置くのをためらった。
 なぜなら、彼から氷のように冷たく、そして炎のような殺気が出ていたからだ。その殺気は現場を燃やし尽くしてしまうように広がっていく。目は極限まで開かれ血走り、息は荒い。血が出るのではないかというほどこぶしを握り締め、わなわなと震わせている。そのままよろめくようにして立ち上がった。灰色のコートが揺れる。
 今の彼は、白谷の姉の死体を見据えながらも、鏡恭弥の手によって殺され、弄ばれた師匠の姿を思い出していた。これまで様々な犯罪者を見てきているが人を好き勝手に弄び、そして亡骸までも凌辱するようなこの世の屑みたいな連中には反吐が出る。

「絶っ対に……豚箱にぶち込んでやるよ。模倣犯風情の価値のない虫けらがあ!!!」

 普段の冷静さと年相応に子供らしさのある仮面は剥がれ落ち、憤怒を全面に出した彼、半月の探偵がそこに立っていた。

 近隣から応援で急行してきた何台ものパトカーの赤いランプが陰惨な現場をこれ以上ないほどに赤く、赤く染め上げていた。
 大津は密かに、そのまま彼が殺気で現場を燃やし尽くし、最初からすべて無かったことにはできないかと、被害者も含め誰も傷つかない世界は作れないのかと、その時は本気でそう思っていた。


 
 
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