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腹違いの妹にすべてを奪われた薄幸の令嬢が、義理の母に殴られた瞬間、前世のインテリヤクザなおっさんがぶちギレた場合。
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『家族』というのは、実に不思議なものだと思う。
たかが紙切れを介した契約によって、赤の他人だった人間同士が『家族』という枠組みに押し込まれたり、逆に外されたりするのだから。
そんなことをしみじみと考えつつ、今日も元気に日課の筋トレに勤しんでいるのは、三年前までフェレール男爵家の長女であったアニエス・シャレットだ。
かつてアニエスの『家族』だとされていたのは、父のダミアンと義理の母であるデボラ、そして腹違いの妹であるクロエ。
実の母は、アニエスが十二歳のときに病で亡くなっている。
母は、国内でも有数の武門貴族であるシャレット伯爵家の娘で、彼女が父に一目惚れした縁で結ばれた――といえば、なかなかの美談に聞こえるかもしれない。
だが実際は、格上の伯爵家からの一方的な申し出を、貧乏男爵家には断ることができなかった、という状況だったようだ。
何しろ母が亡くなった途端、父は見るからに相愛の後妻を迎え入れ、おまけに彼女との間にはアニエスと一歳しか違わない娘までいたのである。
父の後妻――アニエスにとって義理の母であるデボラは、一代限りの騎士爵の娘で、父とは学生時代からの恋人だったという。
母がふたりの間に割り込むようなことをしなければ、おそらく彼らはなんの問題もなく『家族』になっていたに違いない。
そして、母の死によってそれが実現した今、フェレール男爵一家にとって異分子であるのは、間違いなく先妻の娘であるアニエスだった。
デボラとクロエがやってきた当初、実母のことを思うと複雑な気持ちにはなったけれど、これも貴族の世の習いというものだ。
彼女たちと上手くやっていこう、と努力するつもりだったアニエスの決意は、父と義母と妹という『家族』の輪から、一瞬で弾き出されることで粉砕された。
食事も別々に用意され、三人が仲よく外出していくのを見送るばかり。
アニエスの所有物は、妹のクロエが「いいなぁ、欲しいなぁ」と口にするだけですべて奪われ、母との思い出の品もデボラによって廃棄された。
この家に母が存在した唯一の証といえば、もはやアニエス自身だけだ。
緩やかに波打つ豪奢な金髪に、鮮やかなエメラルドグリーンの瞳を持って生まれた彼女は、華やかな美貌で知られた母の幼い頃に、生き写しといっていいほどよく似ているらしい。
――おそらく、それゆえなのだろう。
母が亡くなってから、丸一年。
屋敷からありとあらゆる母の痕跡が失われたある日、デボラの私室に呼び出されたアニエスは、突然頬を張り飛ばされた。
床に倒れこみ、呆然とする彼女に、義理の母となった女が上擦った調子外れの声で語り出す。
「あははははっ! ざまあないわ、あの女! わたくしからダミアンさまを奪った報い――」
「何してくれとんじゃ、こんクソボケがああぁあああああーっっ!!」
そのとき、歪んだ笑みを浮かべてふんぞり返るデボラの腹部に、全力の回し蹴りを叩きこんでやったのは、断じてアニエスの意思によるものではない。
(え……えぇ……?)
彼女自身も混乱しているうちに、勝手に動いた体が、ぺっと血の混じった唾を床に吐き捨てる。
「おい、豚ババァ。母親亡くしたばっかのメスガキに、随分な仕打ちじゃあねェか。あァん!?」
「ヒ……ッ」
たっぷりとした腹肉がクッションとなったのか、十三歳の少女の力ではさほどダメージを入れられなかったらしい。
胃の中身を吐くでもなく、ただ蒼白になって床にへたり込んでいるデボラの顎を、片足立ちになったアニエスのつま先が、ひょいとすくい上げる。
「あんまりチョーシこいてんじゃねェぞ? てめェが散々いたぶってくれたガキはなァ、伯爵家の血を引くご令嬢なんだよ。たかが騎士爵の娘如きが、手を出していい相手じゃねェんだ。そんなこともわからねェ頭の悪い豚が、人間さまのフリして喋ってんじゃねェよ、クソが」
そう吐き捨て、思いきり勢いをつけた靴底を相手の顔面にぶち込む。
いわゆる、ヤクザキックである。
ごぶぅ! と鼻血を噴いてのけぞるデボラの背後に素早く回りこみ、気絶した彼女をうつ伏せに倒れさせた。
デボラは元々かなりふくよかな女性だったのだが、男爵家の後妻に入ってからというもの、毎日のように贅沢と美食に明け暮れていたからだろう。
非常にもちもちとした立派な体が、顔面から床に沈んだ瞬間、ずぅん、と重い音が響いた。
一仕事終え、ふぅ、と額の汗を拭ったアニエスは、そのまま屋敷を飛び出し、辻馬車に乗り込んだ。
顔を殴られた痕跡もそのままに彼女が目指したのは、母の生家であるシャレット伯爵家の本邸である。
そうして、「伯父さまぁ……」と泣きながら伯爵家の当主――母の実兄に面会を求めたアニエスは、そのまま伯爵家に保護されることになった。
発狂したようにアニエスの所業を訴えるデボラの言い分は、『逃げだしたアニエスを追いかけようとして転倒、顔面を強打したショックによる錯乱』として処理されたという。
一方、体格のいい成人女性に手加減抜きで殴られたアニエスの顔はしばらくの間腫れていたし、いきなり経験のない動きをした体は重度の筋肉痛になって、翌日はベッドから起き上がることもできなかった。
そのため彼女は『義母の虐待によって心身共に傷ついた哀れな少女』として、周囲から丁重に扱われるようになったのだ。
(いったい、何がどうしてこんなことに……?)
一連の騒動の間、アニエスは勝手に動く自分の体に、ひたすら唖然とするばかりだった。
義母への反抗も、その後の伯爵家への逃亡も、彼女自身が考えて為したことではない。
本当にわけがわからないまま、まるで居場所がなくなった男爵家から完璧な安全圏への避難が、いつの間にか完了していたのである。
伯爵家に与えられた一室に入ってからは、すっかりいつも通りの自分になっていたけれど、それから時折頭の中で、ぶっきらぼうな男性の声が聞こえるようになった。
普通ならば、自分の頭がおかしくなったのかと恐怖する場面なのだと思う。
けれど不思議なことに、本能的にこの男性が味方であることだけは、なぜだかわかった。
それは男性が徹頭徹尾、アニエスのためになることしか言わなかったからだろう。
伯爵夫妻から「今日からここがきみの家だよ」と優しく言われたときには「おい、あんまりチョーシに乗るなよ。今は『虐待を受けた哀れなガキ』だと思われてるから、連中の庇護欲も全開になってるんだろうが、今のテメェはあの家の子どものまんまなんだからな」と釘を刺される。
伯爵夫人からお茶に誘われたときには「家のトップの女は、絶対に敵に回すな。敵に回した瞬間、今の生活をすべて失うと思え」と脅された。
その後、伯爵家の養女となることを提案されたときには、安堵のあまり泣いてしまい、新たな『家族』となったシャレット伯爵家の人々を慌てさせてしまったものだ。
一歳年長と、二歳年長の伯爵家の子どもたち――義兄となった従兄たちに、「おれたちの妹が、こんなに可愛いー!」とあちこち連れ回されたときには「……ガキのすることだ、許してやれ」と宥められた。翌日、疲労のあまり熱を出して寝込んだとき、「だ、大丈夫か? 次からは、断ってもいいからな?」とオロオロしていたのは、少し面白かった。
ひょっとしてこの声は、口の悪い守護天使さまなのだろうかと考えたときには、「違うわボケェ! 俺はおまえだ!」と言われて、思わず笑ってしまった。
こんなにガラが悪くて口の悪いおっさんが、清楚可憐な令嬢である自分であるわけがないではないか。
アニエスは、自分自身というものをよく理解しているのだ。
そんなこんなで、早三年。
フェレール男爵家からすっぱりと離籍して、シャレット伯爵家の養女となったアニエスは、貴族の子女が通う聖マリオン学園騎士科の二年生になっていた。
「なあ、アニエス。おまえの腹違いの妹、最近学内で結構有名になってるらしいぞー?」
放課後、騎士科の生徒が自由に使える訓練室で、いつもの自主トレーニングをしていたアニエスにそう話しかけてきたのは、クラスメートのエクトール・セニエ。
セニエ伯爵家の嫡男で、義兄たちの幼馴染みでもある彼は、学園に入学する前からの親しい友人であり、当然彼女の事情もよく知っている。
褐色の髪に琥珀色の瞳をした彼は、端正な顔立ちに似合わぬ、のほほんとした緊張感のないしゃべり方をする少年だ。そのおっとりとした雰囲気とは裏腹に、短銃型魔導武器と対人近接戦闘の授業では入学以来学年トップを譲ったことがなく、将来の近衛入りは確実だと言われている。
アニエスは、首を傾げて彼に問う。
「有名って、どういう意味でかしら?」
彼女がフェレール男爵家から出奔したのは、もう三年も前のことだ。
当時のことを口にする大人たちもとうにおらず、子どもたちの中にはそもそもアニエスの出自を知らない者も多いだろう。
実際、アニエスが学園に入学したときにも、フェレール男爵家との関係を問われたことはない。
むしろ、女生徒からやたらと人気のある義兄たちについて、いろいろと尋ねられることのほうが多かった。
正直、ろくに交流もないまま同じ屋敷で一年過ごしただけの妹など、その顔すらいまいちハッキリと思い出せない。もちろん、幼い頃に大切にしていた私物をすべて奪われたことは忘れていないけれど、当時のクロエは十一歳。分別のつかない子どものしたことを、いつまでも根に持っていても仕方があるまい。
そんなことを考えていた彼女に、エクトールが真面目くさった表情を浮かべて言う。
「ランチタイムに、騎士科の男子生徒向けのプレートをきれいに平らげたうえに、日替わりのデザートを全種類食ってたんだってさ」
「何それ怖い」
アニエスは、全力でおののいた。
この学園の学食で出されるメニューはどれも絶品だが、やはり騎士科と普通科では必要とするカロリーがまるで違う。
脳内のおっさんも「フードファイターかよ……」と青ざめている通り、とても十五歳の少女が完食できるボリュームではないのだ。
もしアニエスがあのランチプレートに挑戦しろと言われたなら、頑張っても三分の一程度が限界だろう。
エクトールが、重々しく頷いた。
「だろう。オレも、ちょっと怖い。でも、世の中には怖いもの見たさというのがあるわけで、オレは明日、おまえの妹の食べっぷりを見にいってみようと思う」
「えー」
腹違いとはいえ、一応血の繋がった妹が学内で珍獣扱いされている現実に、アニエスはそこはかとない悲しみを覚える。
しかし、その事実を耳にしてしまった以上、毒を食らわば皿までだ。
翌日のランチタイム、アニエスはエクトールとともに学食へ向かうことにした。
広々とした学食は二面に区切られ、普通科の学生が東側、騎士科の学生が西側の席を使うことになっている。もっとも、その境界は観葉植物で仕切られているだけなので、その気になればいくらでも互いの姿を見ることができるのだ。
騎士科の学生は男女問わずパンツスタイルの制服だが、普通科の女生徒の制服は可愛らしいスカートタイプ。
クラシカルなデザインながら、少女らしい華やかさも備えた素敵な制服だ。
可愛らしい制服を着た可愛らしい少女たちが笑いさざめいている食堂は、間違いなく可愛い成分が飽和状態である、はずだった。
「うわぁ……。なんか、スゲーな……」
思いきり引いた様子で言うエクトールの視線の先には、ものすごく幸せそうに山盛りのランチプレートを平らげている、普通科の女生徒の姿がある。
ふわふわとした茶色の髪に、つぶらな褐色の瞳。
三年ぶりに見た妹の顔立ちに、幼い頃の面影はたしかにあるのだが――。
(し……仕上がって、いますわね……?)
脳内のおっさんも、クロエのあまりの変わりように絶句している。
義母のデボラも、フェレール男爵家に入ってからの一年足らずでかなりふくよかになっていたけれど、どうやらクロエもこの三年間、母親と同じような食生活をしていたらしい。
そのわがままボディを包んではち切れんばかりの制服は、通常の三倍は布地を使っていそうだ。
ようやく我に返ったらしいおっさんが、「アレの親どもは、何をしてやがるんだ……。ガキの肥満は、立派な虐待だぞ」と顔を顰めた。口が悪いわりに、良識的なおっさんである。
しかし、クロエがあまりにも幸せそうに食事をしているからか、あるいはそのテーブルマナーがきちんとしているからだろうか。
彼女の姿を見慣れているらしい普通科の生徒たちが、魔法のように食べ物を口に入れていくクロエに向ける視線に、トゲのようなものは感じられない。
特に、細身の少年たちが彼女の食べっぷりに対し、眩しいものを見る目を向けているのが、とても印象的だ。
アニエスは、はっとした。
(もしや……フェレール男爵は、こういったふくよかな女性がお好みのタイプだったのでは!? だから、お若い頃『豪腕のジゼル』と呼ばれたお母さまのスレンダーバディでは、あのむっちりボディのデボラさまに太刀打ちできなかった、ということですのね……!?)
武門で名高いシャレット伯爵家に生まれた母は、幼い頃から今のアニエスと同じように鍛錬の日々を送っていたという。
フェレール男爵家に嫁いでからは、特に武芸を嗜んでいる様子はなかったけれど、記憶にある母の姿はいつでもすらりと引き締まった体つきをしている。
父のフェレール男爵も同じような細身のタイプであるため、幼い頃は素敵な似た者夫婦だと思っていたものだ。
……しかし、人間というのはときに、自分の持ち得ないものをパートナーに求めることがあるという。
アニエスは、しみじみとため息を吐く。
「わたし……お義父さまに、わたしの結婚相手を決める際には、できるだけわたしのような外見の女性を好む殿方を選んでくださるよう、お願いすることにしますわ」
え、とエクトールが振り返る。
「何言ってんの? おまえ」
「だってわたし、お母さまのような――自分が死んだときに、旦那さまに喜ばれてしまうような人生は、寂しくていやなんですもの」
エクトールが、小さく息を呑む。
「もちろん、外見だけが殿方に選ばれる要因ではないことくらい、重々承知しているのですけれど。それでもやっぱり、妻となる女性の外見が好みのタイプであるか否かは、殿方にとってとても大切なポイントですわよね?」
「え? や、そりゃまあ、そうだろうけど……。おまえ、自分がとんでもない美少女ヅラしてるって、わかってる?」
混乱した様子の彼に、アニエスはもちろんです、と頷いた。
「わたしの外見は、美女と名高かったお母さま譲りですから、そこそこ整っている自覚くらいはありましてよ? ただ、そんなお母さまでも、好いて嫁いだ殿方に愛されることはなかったのですもの。……やはり嫁ぎ先には、見た目の美しさではなく、剣術や魔導武器の腕前を求めてくださる辺境の地をお願いしたほうがいいかしら」
そういう土地の家であれば、たとえアニエスの外見が夫となる男性の好みではなかったとしても、それなりに大切にしてもらうことはできそうだ。
脳内のおっさんも、「おう! 女は、強くて賢いのに限るからな! 腕っ節を鍛えるだけじゃなく、ちゃんと座学のほうもがんばるんだぞ!」と応援してくれている。
いやいやいや、とエクトールが中腰になった。
「シャレット伯爵って、おまえが選んだ男なら誰でもいいって言ってくれてたんじゃねーの!?」
「そうですわね。お義父さまはとてもお優しい方ですから、そのようにおっしゃってくださいましたけれど……。わたしは、シャレット伯爵家に救われた身ですもの。伯爵家にとって最も利となる家に嫁ぐことが、自分の務めだと思っています」
だからこそアニエスは、武門貴族であるシャレット伯爵家の娘として、少しでも商品価値を高められるよう、こうして騎士科で学んでいるのだ。
そう言うと、エクトールが頭痛を覚えたように額を抑えながら、のろのろと椅子に座りこんだ。
いったいどうした、と思っていると、彼は深々と息を吐いてから顔を上げた。
「……あのな、アニエス。オレは――」
「まあぁ! そちらにいらっしゃるのは、もしやアニエスお姉さまでございますか!?」
エクトールが、大声を出したからだろうか。
いつの間にランチプレートを完食していたのか、観葉植物の向こうで立ち上がったクロエが、その大きな体に似合わぬ素早さで駆け寄ってくる。
アニエスは、ぎょっとした。
(こちらに気付いたからといって、なぜこの子は近づいてくるのかしら!? 三年も顔を合わせていない、赤の他人以下の相手ですわよ!?)
自分の母親がいびり倒したせいで縁切りした(ことになっている)腹違いの姉など、普通ならば存在に気がついたとしても、無視一択ではないのか。
大体、アニエスの脳内おっさんの所業を、なぜデボラはきちんと娘に教えていないのか。いきなり顔面ヤクザキックをしてくる娘になど、何があろうと絶対に近づいてはいけない、と言い含めておくべきだろう。
通常よりも遙かに迫力のあるズームアップの圧が、かなり怖い。
とはいえ、自分たちの間には立派な鉢植えの観葉植物が並んでいる。
それがガードとなっている以上、クロエがこちら側へ来ることはないはずだ。
「よいしょっと!」
(……ええ。そうですわね。鉢植えとは、動かせるものでしたわね)
アニエスが若干現実逃避をしたくなっている間に、鉢植えをふたつズリズリと動かしたクロエが、テーブルのそばにやってきた。
そして彼女は、アニエスとエクトールを順に見たかと思うと、幼い頃と同じ笑顔で軽やかに口を開く。
「お久しぶりです、アニエスお姉さま! こんなに素敵な殿方と親しくされているだなんて、本当に羨ましいですわ! ぜひ、私もご一緒させてくださいな!」
――お姉さまの、髪飾りが欲しいの。
――お姉さまのネックレス、とてもきれいね。
――お姉さまの家庭教師のほうが、優しそうだわ。
幼い頃に何度も聞いた、クロエの『お姉さまのものが欲しいの』という言葉。
今度は、エクトールか。
アニエスがひどく冷めた気分になった瞬間、体が勝手に立ち上がった。
え、と驚く間もなく、自分の手がエクトールの手を掴み、そのまま振り返りもせずに走り出す。
慌てるアニエスの脳内で、珍しく焦った様子のおっさんが「あのガキの目はヤベェ! ありゃあ、ちょっとでも自分の思い通りにならないことがあったら、すぐにキレて何をしでかすかわからん地雷女だ! 絶対に、関わるな!」と叫んでいる。
いったいどういうことだ、と混乱する彼女の背後で、大きな物音が響く。
反射的にそちらを見ると、顔を真っ赤にしたクロエが凄まじい勢いで追いかけてくるところだった。
(ひ……っ)
その異様な迫力に気付いたらしいエクトールが、ぐっと手を握り返してくる。
スピードを上げた彼に導かれるまま、食堂の窓を目指して走る。
ここは二階だが、常日頃から体を鍛えているふたりにとっては、身体強化魔術を使って難なく飛び降りられる高さだ。
窓枠を蹴って飛び出し、ストンと石畳の上に着地する。
エクトールが、激しく呼吸を乱したアニエスの顔をのぞきこんできた。
「大丈夫か? アニエス。今のは――」
「お姉さまああぁあああ! あなたのものは、すべて私のものなのよ! そうじゃないなんて許さない! 絶対に、許さないんだからああぁあー!!」
(ちょ……っ!?)
アニエスたちが飛び出してきたばかりの窓枠に、クロエが同じように靴を乗せる。――スカート姿で。
危ない、だとか。
はしたない、だとか。
混乱のあまり何をどう言えばいいのかわからなくなっている間に、クロエはアニエスたちと同じように空中に身を躍らせた。
硬直する彼女の体をエクトールが抱き上げ、バックステップで距離を取る。
丸っこいフォルムの制服姿が、きれいな放物線を描く様子が、妙にゆっくりと目に焼き付いた。
「――へぶぅっ」
どすん、という地響きとともに、クロエの体が石畳に叩きつけられる。
二階の窓から飛び降りたところで死ぬことはないだろうが、何しろ彼女の自重が自重だ。
おまけにアニエスが見たところ、着地こそ足からいったものの、その勢いをほとんど殺せないまま顔面から地面に激突していた。
まず間違いなく鼻骨は折れているだろうし、歯だって無事とは思えない。
青ざめて震えるアニエスを地面に立たせ、片腕でぐっと引き寄せたエクトールが、通信魔導具に向けて鋭い声で口を開く。
「緊急通報です。学食西側の路面に、要救助者一名。対象はクロエ・フェレール男爵令嬢。学食建物二階の窓より自ら飛び降り、地面に叩きつけられました。飛び降りる直前の様子からして、かなりの錯乱状態にあったと思われます。なお、対象の体重は推定百㎏超。担架を運ぶ人員の増加を提言します」
その声に弾かれるように、周囲の人々が動き出す。
すぐに駆けつけた医療棟のスタッフが、ぴくりとも動かないクロエを担架にのせて運び出していく。
それからアニエスはエクトールとともに事情を聞かれたが、ほかの学生たちの証言もあり、今回の一件はクロエの起こした単身事故として処理されることになった。
とはいえ、事件前後の様子は、多くの学生たちに目撃されている。
目を血走らせたクロエがアニエスとエクトールを追いかけていたことも、彼女がアニエスに向けて叫んでいた言葉も、あっという間に世間に知られていった。
シャレット伯爵家はフェレール男爵家に正式な謝罪を要求し、男爵家に関わる人間は今後一切アニエスに近づかないことを法的に誓約させられた。
クロエは命に別状こそなかったものの、顔面と両足の複数箇所の骨折により、今後は車椅子生活を余儀なくされたという。
――そして、事件から一週間。
精神的なショックを鑑み、一連の騒動が収まるまでは、と家族の意向で学園を休んでいたアニエスの元に、エクトールが見舞いにやってきた。
「よう。思ったより、元気そうだな」
「お義父さまたちが、過保護なだけですもの。――エクトール、お礼が遅くなってごめんなさい。あのときは、助けてくださってありがとうございました」
クロエが窓から飛んだとき、アニエスは咄嗟に動くことができなかった。
脳内のおっさんは、「小僧があと0.5秒遅かったら、俺がちゃんと避けてたんだからな!」と喚いていたが、エクトールに助けられたことは間違いない。
(飛んできたあの子の体に押しつぶされていたら、間違いなくわたしは死んでいたでしょうし……)
本当に、思い出すだけでぞっとする。
体を硬くした彼女に、エクトールが笑って言う。
「気にすんなって。オレとしちゃあ、ちゃんとおまえを守れたことを、シャレット伯爵やおまえの兄貴たちに認めてもらえて、逆にありがたかったくらいだしなー」
「はい……?」
たしかに義父も義母も義兄たちも、エクトールの行動を絶賛していた。
そのことを彼が誇らしく思うのは当然のことかもしれないが、彼の言い回しの何かが引っかかる。
不思議に思うアニエスの脳内で、半目になったおっさんが「あー……。この小僧がおまえのそばにいるなら、大丈夫か。ガキ同士の甘酸っぺぇアレコレに付き合うシュミはねェし、しばらく寝るわ。ま、万が一小僧がおまえを傷つけることがあったら、俺がきっちりシメてやるから、安心しとけ」と、面倒そうに手を振った。
いったいなんなんだ、と首を傾げるアニエスを、笑みを消したエクトールが見つめてくる。
「なあ、アニエス。知っての通り、オレはセニエ伯爵家の嫡男で、学園の成績もわりと優秀なんだ。このままいけば、卒業後にはまず間違いなく近衛に入れる」
「ええ。とてもご立派なことだと思っていますわ」
うん、と応じたエクトールが、真顔で続ける。
「それから、おまえの外見だけど。ぶっちゃけ、ものすごく好みです。はじめておまえと会ったときから、将来おまえを嫁にしたいと思い続けているくらい、超タイプです。もちろん、中身も心底可愛いと思ってます。要するに、現在進行形でオレはおまえに惚れてます。ついでに言うなら、セニエ伯爵家とシャレット伯爵家の人間で、そのことに気付いていないのは、おまえだけです」
「……はい?」
突然はじまった口説き文句に唖然とするアニエスに、エクトールがにやりと笑う。
「というわけで、アニエス。シャレット伯爵が、おまえの旦那はおまえが選んだ男にすると言ってくださっている以上、これからオレは、全力でおまえを口説きます。――絶対、オレを選ばせてやるから、覚悟しとけよ?」
「……っ!」
あまりのことに真っ白になったアニエスの脳内で、あくびをしたおっさんが「完全に外堀を埋められてんじゃねェか。白旗を揚げるなら、早めにしとけよー」と、笑い含みに言うのが聞こえた気がした。
たかが紙切れを介した契約によって、赤の他人だった人間同士が『家族』という枠組みに押し込まれたり、逆に外されたりするのだから。
そんなことをしみじみと考えつつ、今日も元気に日課の筋トレに勤しんでいるのは、三年前までフェレール男爵家の長女であったアニエス・シャレットだ。
かつてアニエスの『家族』だとされていたのは、父のダミアンと義理の母であるデボラ、そして腹違いの妹であるクロエ。
実の母は、アニエスが十二歳のときに病で亡くなっている。
母は、国内でも有数の武門貴族であるシャレット伯爵家の娘で、彼女が父に一目惚れした縁で結ばれた――といえば、なかなかの美談に聞こえるかもしれない。
だが実際は、格上の伯爵家からの一方的な申し出を、貧乏男爵家には断ることができなかった、という状況だったようだ。
何しろ母が亡くなった途端、父は見るからに相愛の後妻を迎え入れ、おまけに彼女との間にはアニエスと一歳しか違わない娘までいたのである。
父の後妻――アニエスにとって義理の母であるデボラは、一代限りの騎士爵の娘で、父とは学生時代からの恋人だったという。
母がふたりの間に割り込むようなことをしなければ、おそらく彼らはなんの問題もなく『家族』になっていたに違いない。
そして、母の死によってそれが実現した今、フェレール男爵一家にとって異分子であるのは、間違いなく先妻の娘であるアニエスだった。
デボラとクロエがやってきた当初、実母のことを思うと複雑な気持ちにはなったけれど、これも貴族の世の習いというものだ。
彼女たちと上手くやっていこう、と努力するつもりだったアニエスの決意は、父と義母と妹という『家族』の輪から、一瞬で弾き出されることで粉砕された。
食事も別々に用意され、三人が仲よく外出していくのを見送るばかり。
アニエスの所有物は、妹のクロエが「いいなぁ、欲しいなぁ」と口にするだけですべて奪われ、母との思い出の品もデボラによって廃棄された。
この家に母が存在した唯一の証といえば、もはやアニエス自身だけだ。
緩やかに波打つ豪奢な金髪に、鮮やかなエメラルドグリーンの瞳を持って生まれた彼女は、華やかな美貌で知られた母の幼い頃に、生き写しといっていいほどよく似ているらしい。
――おそらく、それゆえなのだろう。
母が亡くなってから、丸一年。
屋敷からありとあらゆる母の痕跡が失われたある日、デボラの私室に呼び出されたアニエスは、突然頬を張り飛ばされた。
床に倒れこみ、呆然とする彼女に、義理の母となった女が上擦った調子外れの声で語り出す。
「あははははっ! ざまあないわ、あの女! わたくしからダミアンさまを奪った報い――」
「何してくれとんじゃ、こんクソボケがああぁあああああーっっ!!」
そのとき、歪んだ笑みを浮かべてふんぞり返るデボラの腹部に、全力の回し蹴りを叩きこんでやったのは、断じてアニエスの意思によるものではない。
(え……えぇ……?)
彼女自身も混乱しているうちに、勝手に動いた体が、ぺっと血の混じった唾を床に吐き捨てる。
「おい、豚ババァ。母親亡くしたばっかのメスガキに、随分な仕打ちじゃあねェか。あァん!?」
「ヒ……ッ」
たっぷりとした腹肉がクッションとなったのか、十三歳の少女の力ではさほどダメージを入れられなかったらしい。
胃の中身を吐くでもなく、ただ蒼白になって床にへたり込んでいるデボラの顎を、片足立ちになったアニエスのつま先が、ひょいとすくい上げる。
「あんまりチョーシこいてんじゃねェぞ? てめェが散々いたぶってくれたガキはなァ、伯爵家の血を引くご令嬢なんだよ。たかが騎士爵の娘如きが、手を出していい相手じゃねェんだ。そんなこともわからねェ頭の悪い豚が、人間さまのフリして喋ってんじゃねェよ、クソが」
そう吐き捨て、思いきり勢いをつけた靴底を相手の顔面にぶち込む。
いわゆる、ヤクザキックである。
ごぶぅ! と鼻血を噴いてのけぞるデボラの背後に素早く回りこみ、気絶した彼女をうつ伏せに倒れさせた。
デボラは元々かなりふくよかな女性だったのだが、男爵家の後妻に入ってからというもの、毎日のように贅沢と美食に明け暮れていたからだろう。
非常にもちもちとした立派な体が、顔面から床に沈んだ瞬間、ずぅん、と重い音が響いた。
一仕事終え、ふぅ、と額の汗を拭ったアニエスは、そのまま屋敷を飛び出し、辻馬車に乗り込んだ。
顔を殴られた痕跡もそのままに彼女が目指したのは、母の生家であるシャレット伯爵家の本邸である。
そうして、「伯父さまぁ……」と泣きながら伯爵家の当主――母の実兄に面会を求めたアニエスは、そのまま伯爵家に保護されることになった。
発狂したようにアニエスの所業を訴えるデボラの言い分は、『逃げだしたアニエスを追いかけようとして転倒、顔面を強打したショックによる錯乱』として処理されたという。
一方、体格のいい成人女性に手加減抜きで殴られたアニエスの顔はしばらくの間腫れていたし、いきなり経験のない動きをした体は重度の筋肉痛になって、翌日はベッドから起き上がることもできなかった。
そのため彼女は『義母の虐待によって心身共に傷ついた哀れな少女』として、周囲から丁重に扱われるようになったのだ。
(いったい、何がどうしてこんなことに……?)
一連の騒動の間、アニエスは勝手に動く自分の体に、ひたすら唖然とするばかりだった。
義母への反抗も、その後の伯爵家への逃亡も、彼女自身が考えて為したことではない。
本当にわけがわからないまま、まるで居場所がなくなった男爵家から完璧な安全圏への避難が、いつの間にか完了していたのである。
伯爵家に与えられた一室に入ってからは、すっかりいつも通りの自分になっていたけれど、それから時折頭の中で、ぶっきらぼうな男性の声が聞こえるようになった。
普通ならば、自分の頭がおかしくなったのかと恐怖する場面なのだと思う。
けれど不思議なことに、本能的にこの男性が味方であることだけは、なぜだかわかった。
それは男性が徹頭徹尾、アニエスのためになることしか言わなかったからだろう。
伯爵夫妻から「今日からここがきみの家だよ」と優しく言われたときには「おい、あんまりチョーシに乗るなよ。今は『虐待を受けた哀れなガキ』だと思われてるから、連中の庇護欲も全開になってるんだろうが、今のテメェはあの家の子どものまんまなんだからな」と釘を刺される。
伯爵夫人からお茶に誘われたときには「家のトップの女は、絶対に敵に回すな。敵に回した瞬間、今の生活をすべて失うと思え」と脅された。
その後、伯爵家の養女となることを提案されたときには、安堵のあまり泣いてしまい、新たな『家族』となったシャレット伯爵家の人々を慌てさせてしまったものだ。
一歳年長と、二歳年長の伯爵家の子どもたち――義兄となった従兄たちに、「おれたちの妹が、こんなに可愛いー!」とあちこち連れ回されたときには「……ガキのすることだ、許してやれ」と宥められた。翌日、疲労のあまり熱を出して寝込んだとき、「だ、大丈夫か? 次からは、断ってもいいからな?」とオロオロしていたのは、少し面白かった。
ひょっとしてこの声は、口の悪い守護天使さまなのだろうかと考えたときには、「違うわボケェ! 俺はおまえだ!」と言われて、思わず笑ってしまった。
こんなにガラが悪くて口の悪いおっさんが、清楚可憐な令嬢である自分であるわけがないではないか。
アニエスは、自分自身というものをよく理解しているのだ。
そんなこんなで、早三年。
フェレール男爵家からすっぱりと離籍して、シャレット伯爵家の養女となったアニエスは、貴族の子女が通う聖マリオン学園騎士科の二年生になっていた。
「なあ、アニエス。おまえの腹違いの妹、最近学内で結構有名になってるらしいぞー?」
放課後、騎士科の生徒が自由に使える訓練室で、いつもの自主トレーニングをしていたアニエスにそう話しかけてきたのは、クラスメートのエクトール・セニエ。
セニエ伯爵家の嫡男で、義兄たちの幼馴染みでもある彼は、学園に入学する前からの親しい友人であり、当然彼女の事情もよく知っている。
褐色の髪に琥珀色の瞳をした彼は、端正な顔立ちに似合わぬ、のほほんとした緊張感のないしゃべり方をする少年だ。そのおっとりとした雰囲気とは裏腹に、短銃型魔導武器と対人近接戦闘の授業では入学以来学年トップを譲ったことがなく、将来の近衛入りは確実だと言われている。
アニエスは、首を傾げて彼に問う。
「有名って、どういう意味でかしら?」
彼女がフェレール男爵家から出奔したのは、もう三年も前のことだ。
当時のことを口にする大人たちもとうにおらず、子どもたちの中にはそもそもアニエスの出自を知らない者も多いだろう。
実際、アニエスが学園に入学したときにも、フェレール男爵家との関係を問われたことはない。
むしろ、女生徒からやたらと人気のある義兄たちについて、いろいろと尋ねられることのほうが多かった。
正直、ろくに交流もないまま同じ屋敷で一年過ごしただけの妹など、その顔すらいまいちハッキリと思い出せない。もちろん、幼い頃に大切にしていた私物をすべて奪われたことは忘れていないけれど、当時のクロエは十一歳。分別のつかない子どものしたことを、いつまでも根に持っていても仕方があるまい。
そんなことを考えていた彼女に、エクトールが真面目くさった表情を浮かべて言う。
「ランチタイムに、騎士科の男子生徒向けのプレートをきれいに平らげたうえに、日替わりのデザートを全種類食ってたんだってさ」
「何それ怖い」
アニエスは、全力でおののいた。
この学園の学食で出されるメニューはどれも絶品だが、やはり騎士科と普通科では必要とするカロリーがまるで違う。
脳内のおっさんも「フードファイターかよ……」と青ざめている通り、とても十五歳の少女が完食できるボリュームではないのだ。
もしアニエスがあのランチプレートに挑戦しろと言われたなら、頑張っても三分の一程度が限界だろう。
エクトールが、重々しく頷いた。
「だろう。オレも、ちょっと怖い。でも、世の中には怖いもの見たさというのがあるわけで、オレは明日、おまえの妹の食べっぷりを見にいってみようと思う」
「えー」
腹違いとはいえ、一応血の繋がった妹が学内で珍獣扱いされている現実に、アニエスはそこはかとない悲しみを覚える。
しかし、その事実を耳にしてしまった以上、毒を食らわば皿までだ。
翌日のランチタイム、アニエスはエクトールとともに学食へ向かうことにした。
広々とした学食は二面に区切られ、普通科の学生が東側、騎士科の学生が西側の席を使うことになっている。もっとも、その境界は観葉植物で仕切られているだけなので、その気になればいくらでも互いの姿を見ることができるのだ。
騎士科の学生は男女問わずパンツスタイルの制服だが、普通科の女生徒の制服は可愛らしいスカートタイプ。
クラシカルなデザインながら、少女らしい華やかさも備えた素敵な制服だ。
可愛らしい制服を着た可愛らしい少女たちが笑いさざめいている食堂は、間違いなく可愛い成分が飽和状態である、はずだった。
「うわぁ……。なんか、スゲーな……」
思いきり引いた様子で言うエクトールの視線の先には、ものすごく幸せそうに山盛りのランチプレートを平らげている、普通科の女生徒の姿がある。
ふわふわとした茶色の髪に、つぶらな褐色の瞳。
三年ぶりに見た妹の顔立ちに、幼い頃の面影はたしかにあるのだが――。
(し……仕上がって、いますわね……?)
脳内のおっさんも、クロエのあまりの変わりように絶句している。
義母のデボラも、フェレール男爵家に入ってからの一年足らずでかなりふくよかになっていたけれど、どうやらクロエもこの三年間、母親と同じような食生活をしていたらしい。
そのわがままボディを包んではち切れんばかりの制服は、通常の三倍は布地を使っていそうだ。
ようやく我に返ったらしいおっさんが、「アレの親どもは、何をしてやがるんだ……。ガキの肥満は、立派な虐待だぞ」と顔を顰めた。口が悪いわりに、良識的なおっさんである。
しかし、クロエがあまりにも幸せそうに食事をしているからか、あるいはそのテーブルマナーがきちんとしているからだろうか。
彼女の姿を見慣れているらしい普通科の生徒たちが、魔法のように食べ物を口に入れていくクロエに向ける視線に、トゲのようなものは感じられない。
特に、細身の少年たちが彼女の食べっぷりに対し、眩しいものを見る目を向けているのが、とても印象的だ。
アニエスは、はっとした。
(もしや……フェレール男爵は、こういったふくよかな女性がお好みのタイプだったのでは!? だから、お若い頃『豪腕のジゼル』と呼ばれたお母さまのスレンダーバディでは、あのむっちりボディのデボラさまに太刀打ちできなかった、ということですのね……!?)
武門で名高いシャレット伯爵家に生まれた母は、幼い頃から今のアニエスと同じように鍛錬の日々を送っていたという。
フェレール男爵家に嫁いでからは、特に武芸を嗜んでいる様子はなかったけれど、記憶にある母の姿はいつでもすらりと引き締まった体つきをしている。
父のフェレール男爵も同じような細身のタイプであるため、幼い頃は素敵な似た者夫婦だと思っていたものだ。
……しかし、人間というのはときに、自分の持ち得ないものをパートナーに求めることがあるという。
アニエスは、しみじみとため息を吐く。
「わたし……お義父さまに、わたしの結婚相手を決める際には、できるだけわたしのような外見の女性を好む殿方を選んでくださるよう、お願いすることにしますわ」
え、とエクトールが振り返る。
「何言ってんの? おまえ」
「だってわたし、お母さまのような――自分が死んだときに、旦那さまに喜ばれてしまうような人生は、寂しくていやなんですもの」
エクトールが、小さく息を呑む。
「もちろん、外見だけが殿方に選ばれる要因ではないことくらい、重々承知しているのですけれど。それでもやっぱり、妻となる女性の外見が好みのタイプであるか否かは、殿方にとってとても大切なポイントですわよね?」
「え? や、そりゃまあ、そうだろうけど……。おまえ、自分がとんでもない美少女ヅラしてるって、わかってる?」
混乱した様子の彼に、アニエスはもちろんです、と頷いた。
「わたしの外見は、美女と名高かったお母さま譲りですから、そこそこ整っている自覚くらいはありましてよ? ただ、そんなお母さまでも、好いて嫁いだ殿方に愛されることはなかったのですもの。……やはり嫁ぎ先には、見た目の美しさではなく、剣術や魔導武器の腕前を求めてくださる辺境の地をお願いしたほうがいいかしら」
そういう土地の家であれば、たとえアニエスの外見が夫となる男性の好みではなかったとしても、それなりに大切にしてもらうことはできそうだ。
脳内のおっさんも、「おう! 女は、強くて賢いのに限るからな! 腕っ節を鍛えるだけじゃなく、ちゃんと座学のほうもがんばるんだぞ!」と応援してくれている。
いやいやいや、とエクトールが中腰になった。
「シャレット伯爵って、おまえが選んだ男なら誰でもいいって言ってくれてたんじゃねーの!?」
「そうですわね。お義父さまはとてもお優しい方ですから、そのようにおっしゃってくださいましたけれど……。わたしは、シャレット伯爵家に救われた身ですもの。伯爵家にとって最も利となる家に嫁ぐことが、自分の務めだと思っています」
だからこそアニエスは、武門貴族であるシャレット伯爵家の娘として、少しでも商品価値を高められるよう、こうして騎士科で学んでいるのだ。
そう言うと、エクトールが頭痛を覚えたように額を抑えながら、のろのろと椅子に座りこんだ。
いったいどうした、と思っていると、彼は深々と息を吐いてから顔を上げた。
「……あのな、アニエス。オレは――」
「まあぁ! そちらにいらっしゃるのは、もしやアニエスお姉さまでございますか!?」
エクトールが、大声を出したからだろうか。
いつの間にランチプレートを完食していたのか、観葉植物の向こうで立ち上がったクロエが、その大きな体に似合わぬ素早さで駆け寄ってくる。
アニエスは、ぎょっとした。
(こちらに気付いたからといって、なぜこの子は近づいてくるのかしら!? 三年も顔を合わせていない、赤の他人以下の相手ですわよ!?)
自分の母親がいびり倒したせいで縁切りした(ことになっている)腹違いの姉など、普通ならば存在に気がついたとしても、無視一択ではないのか。
大体、アニエスの脳内おっさんの所業を、なぜデボラはきちんと娘に教えていないのか。いきなり顔面ヤクザキックをしてくる娘になど、何があろうと絶対に近づいてはいけない、と言い含めておくべきだろう。
通常よりも遙かに迫力のあるズームアップの圧が、かなり怖い。
とはいえ、自分たちの間には立派な鉢植えの観葉植物が並んでいる。
それがガードとなっている以上、クロエがこちら側へ来ることはないはずだ。
「よいしょっと!」
(……ええ。そうですわね。鉢植えとは、動かせるものでしたわね)
アニエスが若干現実逃避をしたくなっている間に、鉢植えをふたつズリズリと動かしたクロエが、テーブルのそばにやってきた。
そして彼女は、アニエスとエクトールを順に見たかと思うと、幼い頃と同じ笑顔で軽やかに口を開く。
「お久しぶりです、アニエスお姉さま! こんなに素敵な殿方と親しくされているだなんて、本当に羨ましいですわ! ぜひ、私もご一緒させてくださいな!」
――お姉さまの、髪飾りが欲しいの。
――お姉さまのネックレス、とてもきれいね。
――お姉さまの家庭教師のほうが、優しそうだわ。
幼い頃に何度も聞いた、クロエの『お姉さまのものが欲しいの』という言葉。
今度は、エクトールか。
アニエスがひどく冷めた気分になった瞬間、体が勝手に立ち上がった。
え、と驚く間もなく、自分の手がエクトールの手を掴み、そのまま振り返りもせずに走り出す。
慌てるアニエスの脳内で、珍しく焦った様子のおっさんが「あのガキの目はヤベェ! ありゃあ、ちょっとでも自分の思い通りにならないことがあったら、すぐにキレて何をしでかすかわからん地雷女だ! 絶対に、関わるな!」と叫んでいる。
いったいどういうことだ、と混乱する彼女の背後で、大きな物音が響く。
反射的にそちらを見ると、顔を真っ赤にしたクロエが凄まじい勢いで追いかけてくるところだった。
(ひ……っ)
その異様な迫力に気付いたらしいエクトールが、ぐっと手を握り返してくる。
スピードを上げた彼に導かれるまま、食堂の窓を目指して走る。
ここは二階だが、常日頃から体を鍛えているふたりにとっては、身体強化魔術を使って難なく飛び降りられる高さだ。
窓枠を蹴って飛び出し、ストンと石畳の上に着地する。
エクトールが、激しく呼吸を乱したアニエスの顔をのぞきこんできた。
「大丈夫か? アニエス。今のは――」
「お姉さまああぁあああ! あなたのものは、すべて私のものなのよ! そうじゃないなんて許さない! 絶対に、許さないんだからああぁあー!!」
(ちょ……っ!?)
アニエスたちが飛び出してきたばかりの窓枠に、クロエが同じように靴を乗せる。――スカート姿で。
危ない、だとか。
はしたない、だとか。
混乱のあまり何をどう言えばいいのかわからなくなっている間に、クロエはアニエスたちと同じように空中に身を躍らせた。
硬直する彼女の体をエクトールが抱き上げ、バックステップで距離を取る。
丸っこいフォルムの制服姿が、きれいな放物線を描く様子が、妙にゆっくりと目に焼き付いた。
「――へぶぅっ」
どすん、という地響きとともに、クロエの体が石畳に叩きつけられる。
二階の窓から飛び降りたところで死ぬことはないだろうが、何しろ彼女の自重が自重だ。
おまけにアニエスが見たところ、着地こそ足からいったものの、その勢いをほとんど殺せないまま顔面から地面に激突していた。
まず間違いなく鼻骨は折れているだろうし、歯だって無事とは思えない。
青ざめて震えるアニエスを地面に立たせ、片腕でぐっと引き寄せたエクトールが、通信魔導具に向けて鋭い声で口を開く。
「緊急通報です。学食西側の路面に、要救助者一名。対象はクロエ・フェレール男爵令嬢。学食建物二階の窓より自ら飛び降り、地面に叩きつけられました。飛び降りる直前の様子からして、かなりの錯乱状態にあったと思われます。なお、対象の体重は推定百㎏超。担架を運ぶ人員の増加を提言します」
その声に弾かれるように、周囲の人々が動き出す。
すぐに駆けつけた医療棟のスタッフが、ぴくりとも動かないクロエを担架にのせて運び出していく。
それからアニエスはエクトールとともに事情を聞かれたが、ほかの学生たちの証言もあり、今回の一件はクロエの起こした単身事故として処理されることになった。
とはいえ、事件前後の様子は、多くの学生たちに目撃されている。
目を血走らせたクロエがアニエスとエクトールを追いかけていたことも、彼女がアニエスに向けて叫んでいた言葉も、あっという間に世間に知られていった。
シャレット伯爵家はフェレール男爵家に正式な謝罪を要求し、男爵家に関わる人間は今後一切アニエスに近づかないことを法的に誓約させられた。
クロエは命に別状こそなかったものの、顔面と両足の複数箇所の骨折により、今後は車椅子生活を余儀なくされたという。
――そして、事件から一週間。
精神的なショックを鑑み、一連の騒動が収まるまでは、と家族の意向で学園を休んでいたアニエスの元に、エクトールが見舞いにやってきた。
「よう。思ったより、元気そうだな」
「お義父さまたちが、過保護なだけですもの。――エクトール、お礼が遅くなってごめんなさい。あのときは、助けてくださってありがとうございました」
クロエが窓から飛んだとき、アニエスは咄嗟に動くことができなかった。
脳内のおっさんは、「小僧があと0.5秒遅かったら、俺がちゃんと避けてたんだからな!」と喚いていたが、エクトールに助けられたことは間違いない。
(飛んできたあの子の体に押しつぶされていたら、間違いなくわたしは死んでいたでしょうし……)
本当に、思い出すだけでぞっとする。
体を硬くした彼女に、エクトールが笑って言う。
「気にすんなって。オレとしちゃあ、ちゃんとおまえを守れたことを、シャレット伯爵やおまえの兄貴たちに認めてもらえて、逆にありがたかったくらいだしなー」
「はい……?」
たしかに義父も義母も義兄たちも、エクトールの行動を絶賛していた。
そのことを彼が誇らしく思うのは当然のことかもしれないが、彼の言い回しの何かが引っかかる。
不思議に思うアニエスの脳内で、半目になったおっさんが「あー……。この小僧がおまえのそばにいるなら、大丈夫か。ガキ同士の甘酸っぺぇアレコレに付き合うシュミはねェし、しばらく寝るわ。ま、万が一小僧がおまえを傷つけることがあったら、俺がきっちりシメてやるから、安心しとけ」と、面倒そうに手を振った。
いったいなんなんだ、と首を傾げるアニエスを、笑みを消したエクトールが見つめてくる。
「なあ、アニエス。知っての通り、オレはセニエ伯爵家の嫡男で、学園の成績もわりと優秀なんだ。このままいけば、卒業後にはまず間違いなく近衛に入れる」
「ええ。とてもご立派なことだと思っていますわ」
うん、と応じたエクトールが、真顔で続ける。
「それから、おまえの外見だけど。ぶっちゃけ、ものすごく好みです。はじめておまえと会ったときから、将来おまえを嫁にしたいと思い続けているくらい、超タイプです。もちろん、中身も心底可愛いと思ってます。要するに、現在進行形でオレはおまえに惚れてます。ついでに言うなら、セニエ伯爵家とシャレット伯爵家の人間で、そのことに気付いていないのは、おまえだけです」
「……はい?」
突然はじまった口説き文句に唖然とするアニエスに、エクトールがにやりと笑う。
「というわけで、アニエス。シャレット伯爵が、おまえの旦那はおまえが選んだ男にすると言ってくださっている以上、これからオレは、全力でおまえを口説きます。――絶対、オレを選ばせてやるから、覚悟しとけよ?」
「……っ!」
あまりのことに真っ白になったアニエスの脳内で、あくびをしたおっさんが「完全に外堀を埋められてんじゃねェか。白旗を揚げるなら、早めにしとけよー」と、笑い含みに言うのが聞こえた気がした。
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