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第3話 セルジュの失態
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その日、朝食の席で、リュシエンヌが唐突に庭園の散策を願い出た。
デュラン王城の庭園には広々とした花畑がある。城外で暮らす人々の噂にものぼるその花畑を、リュシエンヌは以前から一目見たいと思っていたという。
リュシエンヌに対しては食後のデザートよりも甘いヴィルジールだ。彼は婚約者との安らぎのひとときを期待して、二つ返事でその願いを聞き入れた。
だが、朝食を終え、執務室に顔を出したヴィルジールの目に止まったのは、うず高く積み上げられた国内各地の治水工事に関する書類の山だった。
ヴィルジールは政務に追われて執務机に齧り付くことになり、その日のリュシエンヌの散策には護衛も兼ねてセルジュが同行することとなった。
散歩道の両脇に並ぶ植え込みの前に立ち、セルジュはぼんやりと花畑を眺めていた。風に吹かれて波を打つ淡い花の絨毯のうえに、リュシエンヌと彼女に付き添う侍女の姿がある。
涅色の髪の侍女は、確か名をジゼルと言った。初日にもリュシエンヌの傍に控えていたが、騒がしいコレットと違い大人しくて目立たないため、今朝顔を合わせるまで、セルジュはその存在すら忘れかけていた。ジゼルは無口で無表情で何を考えているか判らないが、見目は良く品もある。落ち着きなく騒ぐだけ騒ぎ、仕事も満足にしない誰かと比べれば、格段に優秀だと思われた。
コレットの姿が見えないことで、ほっと肩の力を抜く。花を愛でるリュシエンヌの可憐な姿にセルジュはしばし見惚れていた。
可憐な少女がふたり花と戯れるその光景は、一枚絵のように洗練された美しさを感じさせる。女性と接するのは苦手だが、こうして遠目で眺めているだけで、荒んだ心が洗われる気がする。
たまにはこんな仕事も悪くない。心地良い安らぎを胸に、セルジュが頬を緩ませたときだった。
「セールージュさんっ」
唐突に背後から声を掛けられる。聞き間違えようのないその声に、セルジュはチッと舌を打った。
「……居たのか」
渋々振り返ると、ナプキンを被せた篭を片手に提げて、コレットが大きく手を振っていた。小走りでセルジュの元に駆け寄ると、彼女は見やすい位置まで両手で篭を持ち上げてみせた。
「リュシエンヌ様が庭園でお茶にしたいと仰っていたので、厨房で焼き菓子をいただいてきました」
「誰もそんなことは訊いていない。それより、二度と俺に近付くなと言ったはずだ」
「昨日あのあと、セルジュさんがなんで怒っているのか考えてみたんですけど――」
冷たく突き放すように言ったのに、コレットは相変わらず素知らぬ顔だ。
両手で篭を持ったまま、きりりと表情を引き締めると、彼女ははっきりとした物言いでセルジュに告げた。
「やらかしたことが多すぎて全くわかりませんでした!」
「……もういい、お前と居ると疲れる。そっとしておいてくれ……」
軽く額に手をあてて、セルジュは小さく溜め息を零した。視線を花畑に戻し、癒しの空間に見入る。
隣に並んだ小さな影には気が付かないふりをした。
しばらくのあいだ、コレットは黙ってセルジュの視線の先を眺めていた。珍しいこともあるものだとセルジュが密かに感心したところで、コレットはセルジュを見上げ、小首を傾げて呟いた。
「セルジュさんて、リュシエンヌ様のことが好きなんですか?」
「は?」
「昨日からずっと熱い視線送ってますよね」
率直に指摘され、セルジュは反射的に隣を見た。榛色のつぶらな瞳にみつめられると、後ろめたいことでもしているような罪悪感にかられる。
確かにリュシエンヌは可憐で美しく、セルジュにとっては理想の女性だ。だが、セルジュが彼女に抱いている感情はコレットが言うような恋愛のそれとは違う。
「……リュシエンヌ様のように可憐でお美しい女性をお護り出来ることは、騎士としてこれ以上ない誉というだけのことだ」
美しく可憐な姫と英雄と呼ばれる騎士の恋物語は、昔から大衆に人気のある王道中の王道だ。多くの少年は騎士に、少女は姫に憧れるもので、幼い頃のセルジュも例外ではなかった。女性恐怖症になどならなければ、セルジュもコレットの言うような夢を抱いていたかもしれない。
だが、現実にセルジュは女性恐怖症であり、それが治らない限り、女性に恋をしようとも思えない。触れられない相手に好意を抱いたところで欲求が満たされることはないし、好意を抱いた相手に馬鹿にされて嫌われるのも御免だ。
なにより、リュシエンヌは王太子の婚約者で、セルジュはその王太子に仕える騎士だ。そこにあるのは主従という覆しようのない関係だけだ。
セルジュとしては充分に納得のいく答えを出したつもりだった。だが、コレットにとっては違ったようだ。
彼女はふうんと頷くと、セルジュを置いて小走りにリュシエンヌの元へと向かい、ジゼルとともに花畑の中央でお茶会の準備をはじめた。
程なくして、あまい花の香りに混じって焼き菓子と紅茶の匂いが漂いはじめ、リュシエンヌがぱたぱたとセルジュの元に駆けてきた。
「コレットがお茶とお菓子を用意してくれたの。セルジュさんも、どうぞこちらにいらして」
ふわりと微笑んで、リュシエンヌがセルジュの手に触れる。瞬間、びくりと身体に震えが走り、セルジュは反射的にその手を払い除けた。
ぱちんと軽い音が響く。場の空気が凍りつき、庭園に静寂が降りた。
はっと我に返ったセルジュの瞳に、呆然と眼を瞬かせるリュシエンヌが映る。
「も、申し訳ございません! 私は……私はッ!」
酷く動揺していた為か、セルジュの声は情けないほど震えていた。心臓がばくばくと耳触りな音を立て、嫌な汗が額に滲む。全身の肌が粟立ち、血の気が引いた。
弁解する余裕もなかった。とにかく気を落ち着けたくて、セルジュは脇目も振らずその場から逃げ出した。
その日、朝食の席で、リュシエンヌが唐突に庭園の散策を願い出た。
デュラン王城の庭園には広々とした花畑がある。城外で暮らす人々の噂にものぼるその花畑を、リュシエンヌは以前から一目見たいと思っていたという。
リュシエンヌに対しては食後のデザートよりも甘いヴィルジールだ。彼は婚約者との安らぎのひとときを期待して、二つ返事でその願いを聞き入れた。
だが、朝食を終え、執務室に顔を出したヴィルジールの目に止まったのは、うず高く積み上げられた国内各地の治水工事に関する書類の山だった。
ヴィルジールは政務に追われて執務机に齧り付くことになり、その日のリュシエンヌの散策には護衛も兼ねてセルジュが同行することとなった。
散歩道の両脇に並ぶ植え込みの前に立ち、セルジュはぼんやりと花畑を眺めていた。風に吹かれて波を打つ淡い花の絨毯のうえに、リュシエンヌと彼女に付き添う侍女の姿がある。
涅色の髪の侍女は、確か名をジゼルと言った。初日にもリュシエンヌの傍に控えていたが、騒がしいコレットと違い大人しくて目立たないため、今朝顔を合わせるまで、セルジュはその存在すら忘れかけていた。ジゼルは無口で無表情で何を考えているか判らないが、見目は良く品もある。落ち着きなく騒ぐだけ騒ぎ、仕事も満足にしない誰かと比べれば、格段に優秀だと思われた。
コレットの姿が見えないことで、ほっと肩の力を抜く。花を愛でるリュシエンヌの可憐な姿にセルジュはしばし見惚れていた。
可憐な少女がふたり花と戯れるその光景は、一枚絵のように洗練された美しさを感じさせる。女性と接するのは苦手だが、こうして遠目で眺めているだけで、荒んだ心が洗われる気がする。
たまにはこんな仕事も悪くない。心地良い安らぎを胸に、セルジュが頬を緩ませたときだった。
「セールージュさんっ」
唐突に背後から声を掛けられる。聞き間違えようのないその声に、セルジュはチッと舌を打った。
「……居たのか」
渋々振り返ると、ナプキンを被せた篭を片手に提げて、コレットが大きく手を振っていた。小走りでセルジュの元に駆け寄ると、彼女は見やすい位置まで両手で篭を持ち上げてみせた。
「リュシエンヌ様が庭園でお茶にしたいと仰っていたので、厨房で焼き菓子をいただいてきました」
「誰もそんなことは訊いていない。それより、二度と俺に近付くなと言ったはずだ」
「昨日あのあと、セルジュさんがなんで怒っているのか考えてみたんですけど――」
冷たく突き放すように言ったのに、コレットは相変わらず素知らぬ顔だ。
両手で篭を持ったまま、きりりと表情を引き締めると、彼女ははっきりとした物言いでセルジュに告げた。
「やらかしたことが多すぎて全くわかりませんでした!」
「……もういい、お前と居ると疲れる。そっとしておいてくれ……」
軽く額に手をあてて、セルジュは小さく溜め息を零した。視線を花畑に戻し、癒しの空間に見入る。
隣に並んだ小さな影には気が付かないふりをした。
しばらくのあいだ、コレットは黙ってセルジュの視線の先を眺めていた。珍しいこともあるものだとセルジュが密かに感心したところで、コレットはセルジュを見上げ、小首を傾げて呟いた。
「セルジュさんて、リュシエンヌ様のことが好きなんですか?」
「は?」
「昨日からずっと熱い視線送ってますよね」
率直に指摘され、セルジュは反射的に隣を見た。榛色のつぶらな瞳にみつめられると、後ろめたいことでもしているような罪悪感にかられる。
確かにリュシエンヌは可憐で美しく、セルジュにとっては理想の女性だ。だが、セルジュが彼女に抱いている感情はコレットが言うような恋愛のそれとは違う。
「……リュシエンヌ様のように可憐でお美しい女性をお護り出来ることは、騎士としてこれ以上ない誉というだけのことだ」
美しく可憐な姫と英雄と呼ばれる騎士の恋物語は、昔から大衆に人気のある王道中の王道だ。多くの少年は騎士に、少女は姫に憧れるもので、幼い頃のセルジュも例外ではなかった。女性恐怖症になどならなければ、セルジュもコレットの言うような夢を抱いていたかもしれない。
だが、現実にセルジュは女性恐怖症であり、それが治らない限り、女性に恋をしようとも思えない。触れられない相手に好意を抱いたところで欲求が満たされることはないし、好意を抱いた相手に馬鹿にされて嫌われるのも御免だ。
なにより、リュシエンヌは王太子の婚約者で、セルジュはその王太子に仕える騎士だ。そこにあるのは主従という覆しようのない関係だけだ。
セルジュとしては充分に納得のいく答えを出したつもりだった。だが、コレットにとっては違ったようだ。
彼女はふうんと頷くと、セルジュを置いて小走りにリュシエンヌの元へと向かい、ジゼルとともに花畑の中央でお茶会の準備をはじめた。
程なくして、あまい花の香りに混じって焼き菓子と紅茶の匂いが漂いはじめ、リュシエンヌがぱたぱたとセルジュの元に駆けてきた。
「コレットがお茶とお菓子を用意してくれたの。セルジュさんも、どうぞこちらにいらして」
ふわりと微笑んで、リュシエンヌがセルジュの手に触れる。瞬間、びくりと身体に震えが走り、セルジュは反射的にその手を払い除けた。
ぱちんと軽い音が響く。場の空気が凍りつき、庭園に静寂が降りた。
はっと我に返ったセルジュの瞳に、呆然と眼を瞬かせるリュシエンヌが映る。
「も、申し訳ございません! 私は……私はッ!」
酷く動揺していた為か、セルジュの声は情けないほど震えていた。心臓がばくばくと耳触りな音を立て、嫌な汗が額に滲む。全身の肌が粟立ち、血の気が引いた。
弁解する余裕もなかった。とにかく気を落ち着けたくて、セルジュは脇目も振らずその場から逃げ出した。
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