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第9話 ぎゅってしちゃっていいですよ
②
***
「はい、どうぞ」
部屋の中央でセルジュに向かい合い、コレットが両腕を広げる。行き場のない右手のひらを握り締め、机に置かれた砂時計をちらりと見やると、セルジュは片方の眉尻を吊り上げた。
「なんのつもりだ」
「なにって、訓練の続きですよ。ダンスの練習をするならリュシーと密着するのは必然なんですから、女性を抱きしめるくらいはできないと」
にっこり笑ってそう言って、コレットは一歩前へと踏み出した。
恥じらいもなく平然と「抱きしめろ」などと要求するとは、相変わらずコレットの言動は品位に欠けている。
セルジュの眉間に深々と皺が刻まれる。大袈裟な溜め息がひとつ溢れた。
だが、コレットの言うことは尤もでもあった。
子供のお遊戯ではあるまいし、婚約披露パーティーのダンスで手を繋いで終わりのはずもない。身体を密着させるほどではなくとも至近距離で向き合うのは必然で。護衛の任務も考慮すれば、いざというときに女性を抱き上げる程度のことが出来ないようでは話にならない。
ごくりと息を呑み、セルジュはコレットに歩み寄った。
隣に並んで歩いたことは何度もあった。至近距離であることに違いはないのに、向かい合っているだけで全く心境が違っていた。身長差があるおかげでお互いの顔のあいだに距離はあるが、改めてみつめられると妙に落ち着かない。
緊張で強張る身体を無理矢理に動かして、セルジュは恐る恐るコレットの身体に腕を回した。手を繋ぐことでコレットに触れるのにも随分慣れたと思っていた。けれど、いざこうして触れてみると、コレットの小柄な身体は思っていた以上に華奢で柔らかで。セルジュの心臓は大袈裟に暴れ出し、内側から痛いほどに胸を打ち付けた。
冷静になれ。相手はコレットだぞ。
胸の内で己を叱咤して、セルジュは平静を取り戻すために、少年の頃からそうしてきたように、知り得る限りの筋肉の名を脳内で羅列した。
大胸筋、小胸筋、前鋸筋、広背筋――。
「僧帽筋、三角筋、上腕二頭筋……」
「何ぶつぶつ言ってるんですか?」
「……いや、些か冷静になろうかと」
いつの間にか声に出していたことに気付き、セルジュは視線を泳がせた。くすりと笑う声がして、コレットがセルジュの身体にぴたりと身を寄せた。細い腕が背中に回され、分厚い胸板に頬が触れる。亜麻色の髪がほんのりと甘く香り、セルジュの鼻腔をくすぐった。
庭園で失態をおかしたときは、リュシエンヌに触れられただけで反射的にその手を払い除けてしまったのだから、抱き付かれようものなら突き飛ばしてしまうのではないかと思っていた。けれど、実際に女性に触れられてみると、あのとき感じたような嫌悪感は全く覚えなかった。
ただ騒がしく暴れる心臓の音をコレットに聞かれてしまいそうで、それだけがひたすらに恥ずかしくて。羞恥と緊張で流れた汗がセルジュの背筋をつたう。湿ったシャツをなぞるように、コレットの指がセルジュの背中を撫でた。
ごくり、と大きく喉が鳴った。
「……もっとぎゅってしちゃっていいですよ」
「う、うるさい、黙ってろ」
怒鳴るようにそう告げて、セルジュは恥ずかしさを誤魔化すようにコレットを抱き寄せた。
今にも爆ぜてしまいそうなセルジュの心臓の音が聞こえているのだろう。コレットは宥めるようにセルジュの広い背中を優しくさする。繰り返し繰り返し、ゆっくりと。
「大丈夫です、セルジュさん。そう、肩のちからを抜いて……大丈夫ですから……」
まるで小さな子供に言い聞かせるような微かな囁きが耳を掠める。
何が大丈夫なのか、説得力などかけらもなかった。けれど、何度も言い聞かされているうちに不思議と気分が落ち着いて。
セルジュはいつしか、この状況に安らぎを感じはじめていた。
さらさらと時の砂が零れ落ちる音が、静寂に包まれた室内に心地良く響いていた。
このまま永遠に砂がなくならなければいいのに、と。
そんな思いがほんの一瞬、セルジュの脳裏を掠めて消えた。
「はい、どうぞ」
部屋の中央でセルジュに向かい合い、コレットが両腕を広げる。行き場のない右手のひらを握り締め、机に置かれた砂時計をちらりと見やると、セルジュは片方の眉尻を吊り上げた。
「なんのつもりだ」
「なにって、訓練の続きですよ。ダンスの練習をするならリュシーと密着するのは必然なんですから、女性を抱きしめるくらいはできないと」
にっこり笑ってそう言って、コレットは一歩前へと踏み出した。
恥じらいもなく平然と「抱きしめろ」などと要求するとは、相変わらずコレットの言動は品位に欠けている。
セルジュの眉間に深々と皺が刻まれる。大袈裟な溜め息がひとつ溢れた。
だが、コレットの言うことは尤もでもあった。
子供のお遊戯ではあるまいし、婚約披露パーティーのダンスで手を繋いで終わりのはずもない。身体を密着させるほどではなくとも至近距離で向き合うのは必然で。護衛の任務も考慮すれば、いざというときに女性を抱き上げる程度のことが出来ないようでは話にならない。
ごくりと息を呑み、セルジュはコレットに歩み寄った。
隣に並んで歩いたことは何度もあった。至近距離であることに違いはないのに、向かい合っているだけで全く心境が違っていた。身長差があるおかげでお互いの顔のあいだに距離はあるが、改めてみつめられると妙に落ち着かない。
緊張で強張る身体を無理矢理に動かして、セルジュは恐る恐るコレットの身体に腕を回した。手を繋ぐことでコレットに触れるのにも随分慣れたと思っていた。けれど、いざこうして触れてみると、コレットの小柄な身体は思っていた以上に華奢で柔らかで。セルジュの心臓は大袈裟に暴れ出し、内側から痛いほどに胸を打ち付けた。
冷静になれ。相手はコレットだぞ。
胸の内で己を叱咤して、セルジュは平静を取り戻すために、少年の頃からそうしてきたように、知り得る限りの筋肉の名を脳内で羅列した。
大胸筋、小胸筋、前鋸筋、広背筋――。
「僧帽筋、三角筋、上腕二頭筋……」
「何ぶつぶつ言ってるんですか?」
「……いや、些か冷静になろうかと」
いつの間にか声に出していたことに気付き、セルジュは視線を泳がせた。くすりと笑う声がして、コレットがセルジュの身体にぴたりと身を寄せた。細い腕が背中に回され、分厚い胸板に頬が触れる。亜麻色の髪がほんのりと甘く香り、セルジュの鼻腔をくすぐった。
庭園で失態をおかしたときは、リュシエンヌに触れられただけで反射的にその手を払い除けてしまったのだから、抱き付かれようものなら突き飛ばしてしまうのではないかと思っていた。けれど、実際に女性に触れられてみると、あのとき感じたような嫌悪感は全く覚えなかった。
ただ騒がしく暴れる心臓の音をコレットに聞かれてしまいそうで、それだけがひたすらに恥ずかしくて。羞恥と緊張で流れた汗がセルジュの背筋をつたう。湿ったシャツをなぞるように、コレットの指がセルジュの背中を撫でた。
ごくり、と大きく喉が鳴った。
「……もっとぎゅってしちゃっていいですよ」
「う、うるさい、黙ってろ」
怒鳴るようにそう告げて、セルジュは恥ずかしさを誤魔化すようにコレットを抱き寄せた。
今にも爆ぜてしまいそうなセルジュの心臓の音が聞こえているのだろう。コレットは宥めるようにセルジュの広い背中を優しくさする。繰り返し繰り返し、ゆっくりと。
「大丈夫です、セルジュさん。そう、肩のちからを抜いて……大丈夫ですから……」
まるで小さな子供に言い聞かせるような微かな囁きが耳を掠める。
何が大丈夫なのか、説得力などかけらもなかった。けれど、何度も言い聞かされているうちに不思議と気分が落ち着いて。
セルジュはいつしか、この状況に安らぎを感じはじめていた。
さらさらと時の砂が零れ落ちる音が、静寂に包まれた室内に心地良く響いていた。
このまま永遠に砂がなくならなければいいのに、と。
そんな思いがほんの一瞬、セルジュの脳裏を掠めて消えた。
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