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第20話 彼女の想い
①
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どうやって自室に戻ったのか、はっきりと思い出せない。気付いたときにはすでに朝食が用意されていて、セルジュは黙々と皿に装われたスープとバケットを喉の奥に流し込んだ。
透きとおった黄金色のスープとさくさくのバケットは、きっと薫り高く味わい深いものだったに違いない。けれど、セルジュの感覚は空虚な想いですっかり鈍っていて、味も香りも食感も、なにひとつまともに感じることができなかった。
味気のない食事を終えると、セルジュはひとり、グランセル公爵邸の庭園へと向かった。
昨夜、月の光に青褪めていた庭園は、眩ゆい陽の光のもとで色鮮やかな草花に彩られていた。
穏やかな風に吹かれ、庭園の樹々がざわざわと音をたてる。庭園に続く白い石造りの階段に腰を下ろし、セルジュは茫然と空を仰いだ。
寒空の下、蒼白い満月を見上げて綺麗だと呟いたコレットの、どこか儚い横顔を思い出す。
あのとき、コレットはどんな想いで夜空を見上げていたのだろう。
目頭がじわりと熱くなり、涙が視界を滲ませる。
庭園に乾いた靴音が響いたのは、ちょうどそんなときだった。
「セルジュさん? こんなところで何をなさっているの」
唐突に声をかけられて、セルジュは慌てて涙を拭い、階段上を振り返った。
紅茶色の長い髪と薄紅色のドレスがふわりと揺れる。白いシフォンのストールを上品に身に纏い、リュシエンヌが段上からセルジュを見下ろしていた。
「お暇なら、散歩に付き合っていただけないかしら」
「ええ……私でよろしければ」
セルジュは素早く立ち上がり、佇まいを改めると、階段を降りてきたリュシエンヌの傍らにつき、歩調を合わせて歩き出した。
整然と立ち並ぶ剪定された樹々を横目に、緩やかな坂道を降っていく。真っ白な屋根と柱の東屋が見えたところで、セルジュはぴたりと足を止めた。
庭園の一角を埋め尽くす花の絨毯に、思わず目を奪われる。王城の一角に造られた花畑を思わせる、幻想的で美しい庭だった。
王城の庭園で初めてリュシエンヌの護衛を務めたあのとき、花畑ではリュシエンヌが花を愛で、ジゼルと戯れて、セルジュの隣にはコレットが居た。
ナプキンを被せた編み篭を手に提げて、無愛想なセルジュににこやかに笑いかけて、そして彼女は口にするのだ。
「セールージュさんっ」
はっとして、セルジュは隣に目を向けた。
翠玉に似たつぶらな瞳とセルジュの視線がぶつかると、リュシエンヌは柔らかく微笑んで小さく首を傾けた。
「何を考えていらしたの?」
「……いえ、何も……」
軽く首を振り、セルジュはふたたび花畑に目を向ける。リュシエンヌはセルジュと同じように花畑をみつめながら、澄ました調子で口を開いた。
「コレットはマイヤールに戻りましたの?」
「ええ、なにやら良い縁談が寄せられたとかで、婚約するそうです」
「まあ、本当に? あんなに渋っていたのに、昨夜のうちに心境の変化でもあったのかしら」
驚きの声をあげたリュシエンヌが、不思議そうに首をかしげる。リュシエンヌの言葉と思わせ振りな仕草が、セルジュをわずかに動揺させた。
「……渋っていたのですか?」
「ええ、もちろん。縁談が寄せられたのはこれが初めてではないけれど、いつもは話が出るたびに断っていたの。想う人がいるからって。とても優しくて格好良くて、子供の頃からずっと憧れていたひとなんですって」
おとぎ話でも聞かせるような口振りでそう言うと、リュシエンヌは夢見る乙女のように結んだ両手に頬を寄せ、話し続けた。
「わたしについて城に上がったのだってそう。行儀見習いなんて必要ないのに、そのひとが王太子の護衛騎士に就任したから会ってお祝いしたいんだって、頼み込まれたの」
庭園の樹々の向こうで、鳩の群れが羽ばたいた。
風が吹き、リュシエンヌの紅茶色の髪が、薄紅色のドレスの裾が翻る。
「ねえ、それって……貴方のことでしょう?」
茫然と立ち尽くすセルジュの顔を覗き込み、リュシエンヌは少し寂しそうに微笑んだ。
――ずっと、憧れていた?
たった今耳にしたその言葉が、セルジュの胸を揺さぶった。
相談もなく一方的に婚約を解消したのは、コレットの意思ではなかったのか。
手淫でイッたセルジュを情けなく思い、その後も顔を見せない意気地のないセルジュに呆れ果てたのではなかったのか。
今まで信じてきた苦々しい記憶が、音をたてて崩れ去っていく。
「……コレットは不甲斐ない私に幻滅して……婚約の解消を持ちかけたはずです」
「わたしが聞いた話では、婚約解消を申し出たのはそちらからだったようですけど」
リュシエンヌがあっさりとセルジュの言葉を否定する。強張ったセルジュの頬を、一筋の汗が流れ落ちた。
確かにあのとき、セルジュの父は「婚約は解消だ」としか言わなかった。
セルジュは依然としてコレットを想い続けており、婚約を解消するつもりなど微塵もなかったから。だからあのとき、セルジュは勝手に思い込んだのだ。
婚約は、解消されたのだと。
「ねえ、セルジュさん。コレットは一度だって貴方のことを悪く言ったりしなかったわ。貴方に何を言われても、いつも貴方を褒めていた。いつだって貴女のちからになろうと一生懸命だったの」
リュシエンヌの唇が祈るように言葉を紡ぐ。
王城で再会してからこれまでのコレットと過ごした日々の記憶が、次々とセルジュのなかで呼び覚まされていく。
初めて部屋に連れ込んだとき、ベッドの縁に腰掛けて恥じらうようにうつむいていたコレットの顔が。
汗まみれのセルジュの手を、優しく握り返してくれた小さな手のひらが。
不器用な褒め言葉に喜んで、セルジュの胸に飛び込んできた華奢な身体が。
セルジュの姿を映してきらきらと輝く榛色のつぶらな瞳が。
素直に受け入れられずにいたあの頃とは違う。
改めて思い返せばいつだって、コレットは真っ直ぐに一途な想いを伝えてくれていた。
最も伝えたかったはずの一言を彼女が口にできなかったのは、セルジュがそれを認めようとしなかったからだ。
「貴方は……? コレットに、好きって伝えた?」
白いレースに包まれたリュシエンヌの手のひらが、セルジュの腕に触れる。
両手を硬く握り締め、唇をぐっと引き結ぶセルジュの顔を認めると、リュシエンヌはドレスのポケットから何かを取り出して、セルジュに向けて差し出した。
「これ……」
手渡されたのは、白い革表紙の手帳だった。
「今回の行儀見習いのあいだにコレットが書いたものなの。貴方も一度、読んでみてはどうかしら」
リュシエンヌに促され、セルジュは手帳のページをぱらぱらとめくってみた。
白い紙に綴られた文字は、なめらかで整然として、けれどもどこか繊細で、美しかった。
身体の奥から熱い想いが込み上げる。受け取った手帳を胸に抱いて、セルジュはリュシエンヌに向き直り、小さく頭を下げた。
「申し訳ございません。本日の護衛は別の者に任せてもよろしいでしょうか」
「ええ、わたしも今日はゆっくり本でも読みたい気分だったの。殿下をお誘いしてサロンでのんびりお茶をいただくわ」
リュシエンヌがふわりと優しい笑みをみせる。
もう一度、今度は深々と頭を下げて。セルジュは素早く踵を返し、颯爽と庭園をあとにした。
透きとおった黄金色のスープとさくさくのバケットは、きっと薫り高く味わい深いものだったに違いない。けれど、セルジュの感覚は空虚な想いですっかり鈍っていて、味も香りも食感も、なにひとつまともに感じることができなかった。
味気のない食事を終えると、セルジュはひとり、グランセル公爵邸の庭園へと向かった。
昨夜、月の光に青褪めていた庭園は、眩ゆい陽の光のもとで色鮮やかな草花に彩られていた。
穏やかな風に吹かれ、庭園の樹々がざわざわと音をたてる。庭園に続く白い石造りの階段に腰を下ろし、セルジュは茫然と空を仰いだ。
寒空の下、蒼白い満月を見上げて綺麗だと呟いたコレットの、どこか儚い横顔を思い出す。
あのとき、コレットはどんな想いで夜空を見上げていたのだろう。
目頭がじわりと熱くなり、涙が視界を滲ませる。
庭園に乾いた靴音が響いたのは、ちょうどそんなときだった。
「セルジュさん? こんなところで何をなさっているの」
唐突に声をかけられて、セルジュは慌てて涙を拭い、階段上を振り返った。
紅茶色の長い髪と薄紅色のドレスがふわりと揺れる。白いシフォンのストールを上品に身に纏い、リュシエンヌが段上からセルジュを見下ろしていた。
「お暇なら、散歩に付き合っていただけないかしら」
「ええ……私でよろしければ」
セルジュは素早く立ち上がり、佇まいを改めると、階段を降りてきたリュシエンヌの傍らにつき、歩調を合わせて歩き出した。
整然と立ち並ぶ剪定された樹々を横目に、緩やかな坂道を降っていく。真っ白な屋根と柱の東屋が見えたところで、セルジュはぴたりと足を止めた。
庭園の一角を埋め尽くす花の絨毯に、思わず目を奪われる。王城の一角に造られた花畑を思わせる、幻想的で美しい庭だった。
王城の庭園で初めてリュシエンヌの護衛を務めたあのとき、花畑ではリュシエンヌが花を愛で、ジゼルと戯れて、セルジュの隣にはコレットが居た。
ナプキンを被せた編み篭を手に提げて、無愛想なセルジュににこやかに笑いかけて、そして彼女は口にするのだ。
「セールージュさんっ」
はっとして、セルジュは隣に目を向けた。
翠玉に似たつぶらな瞳とセルジュの視線がぶつかると、リュシエンヌは柔らかく微笑んで小さく首を傾けた。
「何を考えていらしたの?」
「……いえ、何も……」
軽く首を振り、セルジュはふたたび花畑に目を向ける。リュシエンヌはセルジュと同じように花畑をみつめながら、澄ました調子で口を開いた。
「コレットはマイヤールに戻りましたの?」
「ええ、なにやら良い縁談が寄せられたとかで、婚約するそうです」
「まあ、本当に? あんなに渋っていたのに、昨夜のうちに心境の変化でもあったのかしら」
驚きの声をあげたリュシエンヌが、不思議そうに首をかしげる。リュシエンヌの言葉と思わせ振りな仕草が、セルジュをわずかに動揺させた。
「……渋っていたのですか?」
「ええ、もちろん。縁談が寄せられたのはこれが初めてではないけれど、いつもは話が出るたびに断っていたの。想う人がいるからって。とても優しくて格好良くて、子供の頃からずっと憧れていたひとなんですって」
おとぎ話でも聞かせるような口振りでそう言うと、リュシエンヌは夢見る乙女のように結んだ両手に頬を寄せ、話し続けた。
「わたしについて城に上がったのだってそう。行儀見習いなんて必要ないのに、そのひとが王太子の護衛騎士に就任したから会ってお祝いしたいんだって、頼み込まれたの」
庭園の樹々の向こうで、鳩の群れが羽ばたいた。
風が吹き、リュシエンヌの紅茶色の髪が、薄紅色のドレスの裾が翻る。
「ねえ、それって……貴方のことでしょう?」
茫然と立ち尽くすセルジュの顔を覗き込み、リュシエンヌは少し寂しそうに微笑んだ。
――ずっと、憧れていた?
たった今耳にしたその言葉が、セルジュの胸を揺さぶった。
相談もなく一方的に婚約を解消したのは、コレットの意思ではなかったのか。
手淫でイッたセルジュを情けなく思い、その後も顔を見せない意気地のないセルジュに呆れ果てたのではなかったのか。
今まで信じてきた苦々しい記憶が、音をたてて崩れ去っていく。
「……コレットは不甲斐ない私に幻滅して……婚約の解消を持ちかけたはずです」
「わたしが聞いた話では、婚約解消を申し出たのはそちらからだったようですけど」
リュシエンヌがあっさりとセルジュの言葉を否定する。強張ったセルジュの頬を、一筋の汗が流れ落ちた。
確かにあのとき、セルジュの父は「婚約は解消だ」としか言わなかった。
セルジュは依然としてコレットを想い続けており、婚約を解消するつもりなど微塵もなかったから。だからあのとき、セルジュは勝手に思い込んだのだ。
婚約は、解消されたのだと。
「ねえ、セルジュさん。コレットは一度だって貴方のことを悪く言ったりしなかったわ。貴方に何を言われても、いつも貴方を褒めていた。いつだって貴女のちからになろうと一生懸命だったの」
リュシエンヌの唇が祈るように言葉を紡ぐ。
王城で再会してからこれまでのコレットと過ごした日々の記憶が、次々とセルジュのなかで呼び覚まされていく。
初めて部屋に連れ込んだとき、ベッドの縁に腰掛けて恥じらうようにうつむいていたコレットの顔が。
汗まみれのセルジュの手を、優しく握り返してくれた小さな手のひらが。
不器用な褒め言葉に喜んで、セルジュの胸に飛び込んできた華奢な身体が。
セルジュの姿を映してきらきらと輝く榛色のつぶらな瞳が。
素直に受け入れられずにいたあの頃とは違う。
改めて思い返せばいつだって、コレットは真っ直ぐに一途な想いを伝えてくれていた。
最も伝えたかったはずの一言を彼女が口にできなかったのは、セルジュがそれを認めようとしなかったからだ。
「貴方は……? コレットに、好きって伝えた?」
白いレースに包まれたリュシエンヌの手のひらが、セルジュの腕に触れる。
両手を硬く握り締め、唇をぐっと引き結ぶセルジュの顔を認めると、リュシエンヌはドレスのポケットから何かを取り出して、セルジュに向けて差し出した。
「これ……」
手渡されたのは、白い革表紙の手帳だった。
「今回の行儀見習いのあいだにコレットが書いたものなの。貴方も一度、読んでみてはどうかしら」
リュシエンヌに促され、セルジュは手帳のページをぱらぱらとめくってみた。
白い紙に綴られた文字は、なめらかで整然として、けれどもどこか繊細で、美しかった。
身体の奥から熱い想いが込み上げる。受け取った手帳を胸に抱いて、セルジュはリュシエンヌに向き直り、小さく頭を下げた。
「申し訳ございません。本日の護衛は別の者に任せてもよろしいでしょうか」
「ええ、わたしも今日はゆっくり本でも読みたい気分だったの。殿下をお誘いしてサロンでのんびりお茶をいただくわ」
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