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隻眼の男
しおりを挟むがちゃりと錠が外れる音が響き、ぎいと重い音を立てて、錆び付いた鉄の扉がゆっくりと開かれた。
真っ暗で何も見えない扉の向こう側から現れたのは、くたびれたシャツの上に古びたコートを羽織り、小さな杯を手にした男だった。不揃いに伸びた濃灰色の髪のその男は、籠の中で蹲るわたしを見て動きを止めた。鋭い視線を向けられて、背筋がぞっと凍り付く。
この男が、わたしをここに閉じ込めた張本人に違いない。わたしは瞬時にそれを悟った。
身構えたわたしの渇いた喉がごくりと大きな音をたて、送り込まれた空気にかさかさの喉が震えた。思い掛けず噎せ返り、わたしは床に手をついて咳き込んだ。そのあいだ、濃灰色の髪の隙間から男の鋭い視線が絶えずわたしに注がれていた。
ややあって、鉄の扉が閉まる重々しい音が室内に響く。ごつごつと硬い靴音が近付いて、なんとか咳を抑え込んだわたしの視界に黒革のロングブーツが映り込んだ。
恐る恐る見上げれば、無言のままわたしを見下ろす男の姿が眼前にあった。
「……あなたは、誰? どうしてわたしを閉じ込めているの?」
震える声でわたしが訊ねると、濃灰色の髪の隙間から琥珀に似た金色の瞳を覗かせて、男は黙って首を振った。ぎこちない動きで籠の前に膝をつき、男は小さな杯をわたしに向かって差し出した。
精巧な細工が施された金色のその杯は鮮やかな朱紅い液体で満たされていて、つんと香るその匂いは、先程からこの部屋を満たす不愉快な臭いとどこか似ていた。
頭の奥のほうで警笛が鳴り響く。ぶわと両腕が粟立ち、じっとりとした嫌な汗が背中を伝った。
「飲め」
発せられた声色はこの状況には似合わない、穏やかで柔らかな優しいものだった。けれど、わたしはその言葉に素直に従うことなどできなかった。
だって、こんなもの、飲めるわけがない。どう考えたってこれは、この杯を満たしているこの液体は、血だ。
ふるふると首を振って、わたしは籠の端まで後退った。琥珀の瞳をすっと細め、男が眉根を寄せる。怯えるわたしを苛むように、男は凄んだ声で言った。
「腹が減っているだろう」
確かにお腹が減っていた。喉もからからに渇いていた。それでも、なみなみと杯を満たしている血を飲み干すなんて無理だった。
ことりと小さな音がした。男は籠の隙間から腕を差し入れ、杯を床に置くと、感情の籠らない目で黙ってわたしをみつめていた。
わたしは大きく息を吐いて、目の前の男に聞こえるように、はっきりと声を出した。
「飲めません。水と、何か食べ物を」
「何日も眠ったままで、何も食べていない。固形物など口にすれば吐き戻すだけだ」
即座にそう吐き捨てると、男は厳かに告げた。
「杯を取れ」
わたしは大きく首を振った。空腹のせいか、嫌な臭いのせいか、とても具合が悪かった。心臓が胸を打つ間隔が妙に狭まっていて、血が抜かれたように手足が冷たくて、べたつく汗が気持ち悪い。
男はどこか鬼気迫る様子で、鳥籠越しにわたしをみつめていた。顔を上げているのもだんだん辛くなって、額に脂汗が滲む。男の挙動を警戒して睨み付けることすらままならなくなって。わたしがぐったりと項垂れたとき、がちゃりと大きな音がした。
無機質な手がわたしの頬に触れる。鉄錆に似た生々しい臭いがして、ひんやりとした冷たさがわたしの唇に押し付けられて。
驚いて目を開けば、あの杯が無理矢理唇に押し付けられていた。
「いやっ」
思わず手を振り上げて、わたしは逃げるように顔を背けた。籠にもたれた身体はそれ以上後退ることすらできなかったけれど。
からんと乾いた音がして、目を開けると、石造りの床の上に杯が倒れていた。なみなみと杯を満たしていた朱紅い液体がじんわりと床に広がって、並んだブロックの隙間へと流れ落ちていく。
その先に、黒革のブーツを履いた足が見える。男は石の床に膝をついたまま、微動だにしなくて。重い首をもたげるようにして見上げれば、大きく見開かれた琥珀の瞳が目に映った。
どうしてだろう。彼は酷く傷付いているように見えた。
わたしの顔をまじまじとみつめると、彼は眉間に深く皺を寄せて、険しい表情のまま部屋を出て行った。
籠の扉が開いている。今なら逃げ出すことができるのに。
身体が重たくて、立ち上がることすらできなくて。
わたしはただ呆然と、扉の向こうの暗闇をみつめていた。
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