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第8話 さよなら、わたしの初恋の人
5
ロッテの背丈の三倍はある豪奢な扉が開かれると、その奥には初めて目にする光景が広がっていた。
王宮に上がってからも、ロッテは一日の大半を宮殿の隅にある研究室で過ごしていたし、たまに部屋を出たとしても、行き先は階下の厨房や洗濯室、別館の図書館、庭園の一角に造られた薬草園くらいのものだった。王族や上流貴族が出入りする宮殿の中枢部には立ち入ることすらなかったし、玄関ホールの奥にある広々としたパーティーホールの中を覗き見たことすらなかった。上階に上がったのだってエリクシア採取の前日くらいのもので、それもユリウスの執務室前の廊下までだった。だから、同じ宮殿の中で暮らしていても、王族や貴族が出入りする煌びやかな世界は、ロッテにとって別世界のようなものだった。
けれども今、その別世界の最も煌びやかで神聖な場に、ロッテは生まれて初めて立っていた。
式典の際には何百という数の人々が集まるのであろう広大な広間。その壁には背の高い窓が規則正しく並んでおり、合間合間に片翼の鷹のタペストリーが飾られている。天井には絢爛なシャンデリアが幾つも煌めいて、立ち並ぶ支柱には精巧な細工が施された燭台が取り付けられていた。石造りの床は真っ白で、扉と玉座を繋ぐように片翼の鷹の刺繍が施された青い絨毯が敷かれている。壇上の両端には赤銅色の髪の年配の騎士と背の高い上位貴族風の男が立っており、中央に置かれた玉座にはフィオラント国王の姿があった。
と言っても、ロッテは国王の顔を知らない。ユリウスと同じ栗色の髪と橄欖石の瞳、そしていつになく威儀を正したゲオルグの様子からそう判断しただけだ。
フィオラント国王は肘掛に片肘を突き、しばらくのあいだロッテを値踏みするように眺めていた。それから隣に立つゲオルグを一瞥して、溜め息混じりに呟いた。
「どうやら間違いないようだな」
何が間違いないのだろう。
ロッテがぱちくりと目を瞬かせていると、上位貴族らしき男が王の傍に歩み寄り、何やら耳元で囁いて、一歩前に進み出た。男は壇上からロッテを見下ろして、そして告げた。
「これより国王陛下からの有難いお言葉がある。知ってのとおり、陛下は先日病床を離れ、国政の場に戻られたばかりであり、この謁見は速やかに済ませるべきものである。謹んで拝聴せよ」
男の視線はロッテに向けられていたものの、高らかに響き渡るその声は、広間に集まる全ての者に向けられているように感じられた。
ロッテが改めて顔を上げ、真っ直ぐに壇上へと目を向けると、王は肩肘を突くのをやめて、堂々と玉座に身を沈め、朗々とした声を響かせた。
「魔女ロッテを反逆罪で国外追放処分とする」
ロッテは我が耳を疑った。それはゲオルグとて同じようで、ちらりと隣に目を向けると、彼は茫然と壇上の玉座に眼を向けていた。
「どういうことですか……?」
訳がわからないままにロッテが王に尋ねると、王は深々と溜め息を吐き、「宰相」と先程の上位貴族らしき男を呼んだ。僅かの間もなく、宰相が問いに答える。
「密告があった。森の魔女リーゼロッテの弟子を名乗る者が王宮に潜り込み、禁忌とされる惚れ薬を用いて王太子ユリウスと騎士アインベルクを意のままに操り、王権の簒奪を図っていると」
——どこの誰がそんな大それた事を!?
ロッテは目をまるくした。あまりに突拍子もない話過ぎて、反論する言葉が出てこない。
ロッテが作ったのはただの媚薬だ。その効能は精力を増強させるだけであって、人の心を操るなんて高度な魔法のような効果はない。そしてそれ以前に、ロッテは王権なんて大それたものに一欠片の興味もない。
ロッテが口を開きかけたとき、広間にゲオルグの声が響いた。
「そのような事実はございません! 全くの出鱈目です!」
「控えよ、アインベルク! すでに魔女の術中にあるお前の言葉など、陛下が耳を傾けるに値しない」
高圧的な物言いでゲオルグを黙らせると、宰相は改めてロッテに目を向けて、淡々と続けた。
「魔女ロッテ。万能の薬であるエリクシアの霊薬を完成させたにも関わらず、病床の陛下を差し置き、王太子の婚約者に使用したそうだな? 陛下が病にお倒れになれば、王太子であるユリウス殿下がこのフィオラントの王位を継承する。王となったユリウス殿下と契約を結べば、お前は晴れて契約の魔女となり、一国の王と同等の地位を得ることが出来る。改めて婚約者であるシャルロッテ様を排斥し、王妃となることも可能だと、そう考えたのであろう?」
宰相の色素の薄い氷のような瞳が、冷ややかにロッテを見下ろしていた。ロッテはふるふると首を振り、怯えるように呟いた。
「そんな……わたし、そんなこと……」
言葉に詰まったところで視界がすっと遮られる。ロッテを背に庇い、ふたたびゲオルグが声を荒げた。
「閣下の主張は矛盾しております! この者はシャルロッテ様を疫病から救うため、一歩間違えれば命を落としかねない危険な任務に自ら身を投じたのです! 閣下の仰るような考えがあったのならば、そのような危険を犯すとは思えません!」
「控えよと言っている!」
重厚な声が場の空気を震わせる。壇上の隅に控える赤銅色の髪の騎士が、腰に携えた剣の柄を握り、射るような視線をゲオルグに向けていた。ゲオルグがぐっと唇を引き結ぶと、宰相は「アインベルク卿」と声を掛け、壇上の騎士を宥めた。
足元に視線を落とし、ロッテは黙って考えた。
シャルロッテの命を救うことに夢中で、病床にあったフィオラント国王を後回しにしたのは事実だ。けれど、シャルロッテが回復したおかげで特効薬を作ることが可能になり、結果として王は病から回復し、疫病患者の九割の命が救われた。ユリウスやロッテの選択は間違っていなかったはずだ。
だが、王の臣下である宰相が、王の命を何よりも優先すべきだと考えるのは当然のことだとも言える。特効薬が完成しない可能性を考えれば尚更だ。
「シャルロッテ様は疫病の特効薬開発の第一人者です。彼女を失っていれば特効薬の開発は不可能でした。私には殿下とこの者が下した判断が間違っていたとは考えられません!」
尚も食い下がるゲオルグの声に、剣身と鞘が擦れる涼やかな音が重なる。続けざまに、アインベルク卿の怒声が響いた。
「もう良い、退がれゲオルグ!」
「退がりません! 命を懸けてまで国に尽くした者に対してこのような仕打ち……納得出来るはずがない!」
「黙れゲオルグ! 目を覚ませ! お前は魔女の術中にあるのだ! 監視役を名乗り出たはずのお前がその娘を庇うのは、件の怪しい薬を飲まされたからであろう!」
「————ッ!」
ゲオルグが一瞬言葉を詰まらせる。深々と眉間に皺を刻み、彼は苦々しく声を絞り出した。
「……あの薬は精力を増強させるだけで、他人の心を意のままに操るようなものではありません」
「あのリーゼロッテが独自に開発した秘薬であろう。精力を増強させるだけの陳腐な薬のはずがない。アインベルク、お前は体良く騙されて魔女の手先にされたのだ」
宰相が冷ややかに言い捨てる。ゲオルグの黒曜石の瞳が、ちらりとロッテに向けられた。
——違う! あの薬はただの媚薬だ!
そう訴えることだって、できたはずだった。けれど、ロッテは何も言えなかった。だってロッテにはわからない。レシピに書かれていた効能が、本当に正しいのかどうかなんて。
ロッテは確かにゲオルグのことが好きだ。けれど、ゲオルグのロッテへの想いが本物かどうかはわからない。もしかしたら本当にあの薬はただの媚薬ではなくて、宰相が言うように強力な惚れ薬のようなものだったのかもしれない。出会った頃のゲオルグの言動から鑑みれば、そのほうが余程自然だ。そしてそれが真実ならば、ゲオルグのロッテに対する想いは薬によって形成された偽りの感情ということになる。
「そんな……そんなことって……」
「違う……ッ! 違います、私は……!」
宰相の蔑むような視線がロッテを射抜く。王とアインベルク卿は、憐れむような眼で黙ってゲオルグを見下ろしていた。
ロッテは俯いて唇を引き結び、ぎゅっとエプロンを握り締めた。
仮にゲオルグの想いが薬によって形成された偽りのものだったとしても、ゲオルグはロッテを庇うことをやめないだろう。このままではよそ者のロッテだけでなく、フィオラント王家に忠誠を誓ったゲオルグの立場まで悪くなってしまう。
そんなこと、絶対に許されない。
今はもう真面目に王家に仕えるつもりだとしても、惚れ薬ではないにしろ、ロッテが王太子に薬を盛って既成事実をつくろうとしたのは事実だ。こうして今、ロッテが苦境に立たされているのも自業自得でしかない。
「ゲオルグさん、ありがとう」
ゲオルグの上衣の裾をつんと引っ張って、ロッテはぽつりと呟いた。大きく見開かれた黒曜石の瞳が、真っ直ぐにロッテに向けられる。ロッテはにっこり微笑むと、顔を上げ、一歩前に進み出た。国王と対峙して、リーゼロッテならきっとこうするだろうと想像を巡らせて、魔女らしく堂々とその言葉を口にした。
「承りました、陛下。今日中にでも荷をまとめて王宮を離れます。つきましては、恐れながら、国境までの馬車の手配をお願い致します」
***
ファナの森を出たときに持ってきた私物だけを旅行鞄に詰め込むと、ロッテは手早く部屋を片付けて、宮殿を後にした。
手荷物は旅行鞄ひとつだけ。服装も王宮にやって来たときと変わらない。変わったものと言えば、短くなった薔薇色の髪と、その髪に咲く白い花の髪飾りだけだ。
精巧な調薬器具もお気に入りの硝子のティーセットも、国のお金で用意されたものは、全て部屋に置いてきた。
広々とした庭園を抜けると、道の先に初めて見る黒い馬車が停められていた。窓に備え付けられた鉄格子を見る限り、恐らく囚人を移送する際に使われる馬車だろう。足早に近付くと、馬車の側でゲオルグとディアナが待っていた。
「お見送り、ありがとうございます」
旅行鞄を抱きかかえてロッテが笑うと、ゲオルグは眉間に皺を寄せ、苦々しく呟いた。
「すまない。俺があの薬を飲んだりしなければ……」
「薬を持ち出したのは私でしょう。使ったのも私。この子は薬を作っただけで、宰相の言い分は滅茶苦茶だわ。それでも話を聞く限り、陛下は聞き入れてはくださらないでしょうね。まさか殿下の不在時にこんなことになるなんて……」
ディアナが唇を噛む。
——そっか。ユリウス様はお出掛けされていたのね。
ぼんやりと考えて、ロッテはふるふると首を振った。
「あの場にユリウス様がいても、結果は同じだったと思います。わたしがあの薬を使ってユリウス様を誑かそうとしたのは、紛れもない事実ですから」
「だが、実際には使わなかった。そうだろう?」
「そうですけど……」
それでもやはり自業自得なのだ。やましい気持ちがなかったのなら反論の余地もあるだろうけれど、少なくとも、あのときロッテはユリウスに使うつもりで薬を作ったのだから。
悔しそうに眉を顰めるゲオルグとディアナにぺこりと頭を下げて、ロッテはふたりの前を通り過ぎた。車両に鞄を押し込んで、それからゲオルグを振り返る。ロッテには、王宮を去る前に確認しておきたいことがひとつだけあった。
「……ゲオルグさん、八年前の大規模な魔獣討伐の際、討伐隊を指揮していた若い騎士というのは、あなたのことですか?」
「ファナの森の魔獣討伐のことなら、そうだ」
「やっぱり……」
ゲオルグの剣の型を北の霊峰で目の当たりにしたときから薄々勘付いてはいたけれど、これではっきりと確信することができた。この事実を知ることができただけでも王宮にきた甲斐は充分にあった。
ロッテはゲオルグに駆け寄ると、精一杯つま先立って彼の制服の襟を掴んだ。驚いて眼を見開いた彼の顔をぐいと引き寄せて、その唇にそっと口付ける。
「ゲオルグさん、大好き!」
弾けるような笑顔でそう告げて、ロッテはくるりと身を翻し、素早く馬車に乗り込んだ。
御者が鞭を振るい、馬の嘶きを周囲に響かせる。動き出した馬車に僅かに遅れて、ゲオルグがあとを追ってきた。
「必ず陛下を説得して迎えに行く! だから手紙でもなんでもいい。落ち着いたら連絡を寄越せ!」
「……はい!」
両手で鉄格子を握り締めて、ロッテは笑って頷いた。みるみるうちにゲオルグの姿が小さくなり、白亜の宮殿が遠ざかる。
ゲオルグの姿が見えなくなると、ロッテは窓から離れ、硬い座席に腰を下ろした。がたがたと馬車に揺られながら、膝を抱えて蹲る。涙がぽろぽろとこぼれ落ちて、エプロンに滲みをつくった。
手紙は出さない。そう決めていた。
ロッテと連絡を取っていることが知られれば、ゲオルグはきっと罰を受けるから。ゲオルグには今までどおり、ユリウスの騎士でい続けて欲しいから。魔獣に怯える人々を、守ってあげて欲しいから。
不機嫌を絵に描いたような無愛想な顔が、少し凄みのある低い声が好きだった。剣の腕は一流なのに、手先はてんで不器用なところが可愛いと思っていた。笑った顔を見られれば嬉しくて、触れられれば胸がきゅんとときめいた。
このままずっとそばに居られたら、と——そう思っていた。
手のひらで涙を拭い、ロッテは顔を上げた。鉄格子の窓の向こう——フィオラントの華やかな街と丘の上に建つ王宮を眺めながら、ぽつりと呟きが洩れる。
「……さようなら、ゲオルグさん」
——さよなら、わたしの初恋の人。
王宮に上がってからも、ロッテは一日の大半を宮殿の隅にある研究室で過ごしていたし、たまに部屋を出たとしても、行き先は階下の厨房や洗濯室、別館の図書館、庭園の一角に造られた薬草園くらいのものだった。王族や上流貴族が出入りする宮殿の中枢部には立ち入ることすらなかったし、玄関ホールの奥にある広々としたパーティーホールの中を覗き見たことすらなかった。上階に上がったのだってエリクシア採取の前日くらいのもので、それもユリウスの執務室前の廊下までだった。だから、同じ宮殿の中で暮らしていても、王族や貴族が出入りする煌びやかな世界は、ロッテにとって別世界のようなものだった。
けれども今、その別世界の最も煌びやかで神聖な場に、ロッテは生まれて初めて立っていた。
式典の際には何百という数の人々が集まるのであろう広大な広間。その壁には背の高い窓が規則正しく並んでおり、合間合間に片翼の鷹のタペストリーが飾られている。天井には絢爛なシャンデリアが幾つも煌めいて、立ち並ぶ支柱には精巧な細工が施された燭台が取り付けられていた。石造りの床は真っ白で、扉と玉座を繋ぐように片翼の鷹の刺繍が施された青い絨毯が敷かれている。壇上の両端には赤銅色の髪の年配の騎士と背の高い上位貴族風の男が立っており、中央に置かれた玉座にはフィオラント国王の姿があった。
と言っても、ロッテは国王の顔を知らない。ユリウスと同じ栗色の髪と橄欖石の瞳、そしていつになく威儀を正したゲオルグの様子からそう判断しただけだ。
フィオラント国王は肘掛に片肘を突き、しばらくのあいだロッテを値踏みするように眺めていた。それから隣に立つゲオルグを一瞥して、溜め息混じりに呟いた。
「どうやら間違いないようだな」
何が間違いないのだろう。
ロッテがぱちくりと目を瞬かせていると、上位貴族らしき男が王の傍に歩み寄り、何やら耳元で囁いて、一歩前に進み出た。男は壇上からロッテを見下ろして、そして告げた。
「これより国王陛下からの有難いお言葉がある。知ってのとおり、陛下は先日病床を離れ、国政の場に戻られたばかりであり、この謁見は速やかに済ませるべきものである。謹んで拝聴せよ」
男の視線はロッテに向けられていたものの、高らかに響き渡るその声は、広間に集まる全ての者に向けられているように感じられた。
ロッテが改めて顔を上げ、真っ直ぐに壇上へと目を向けると、王は肩肘を突くのをやめて、堂々と玉座に身を沈め、朗々とした声を響かせた。
「魔女ロッテを反逆罪で国外追放処分とする」
ロッテは我が耳を疑った。それはゲオルグとて同じようで、ちらりと隣に目を向けると、彼は茫然と壇上の玉座に眼を向けていた。
「どういうことですか……?」
訳がわからないままにロッテが王に尋ねると、王は深々と溜め息を吐き、「宰相」と先程の上位貴族らしき男を呼んだ。僅かの間もなく、宰相が問いに答える。
「密告があった。森の魔女リーゼロッテの弟子を名乗る者が王宮に潜り込み、禁忌とされる惚れ薬を用いて王太子ユリウスと騎士アインベルクを意のままに操り、王権の簒奪を図っていると」
——どこの誰がそんな大それた事を!?
ロッテは目をまるくした。あまりに突拍子もない話過ぎて、反論する言葉が出てこない。
ロッテが作ったのはただの媚薬だ。その効能は精力を増強させるだけであって、人の心を操るなんて高度な魔法のような効果はない。そしてそれ以前に、ロッテは王権なんて大それたものに一欠片の興味もない。
ロッテが口を開きかけたとき、広間にゲオルグの声が響いた。
「そのような事実はございません! 全くの出鱈目です!」
「控えよ、アインベルク! すでに魔女の術中にあるお前の言葉など、陛下が耳を傾けるに値しない」
高圧的な物言いでゲオルグを黙らせると、宰相は改めてロッテに目を向けて、淡々と続けた。
「魔女ロッテ。万能の薬であるエリクシアの霊薬を完成させたにも関わらず、病床の陛下を差し置き、王太子の婚約者に使用したそうだな? 陛下が病にお倒れになれば、王太子であるユリウス殿下がこのフィオラントの王位を継承する。王となったユリウス殿下と契約を結べば、お前は晴れて契約の魔女となり、一国の王と同等の地位を得ることが出来る。改めて婚約者であるシャルロッテ様を排斥し、王妃となることも可能だと、そう考えたのであろう?」
宰相の色素の薄い氷のような瞳が、冷ややかにロッテを見下ろしていた。ロッテはふるふると首を振り、怯えるように呟いた。
「そんな……わたし、そんなこと……」
言葉に詰まったところで視界がすっと遮られる。ロッテを背に庇い、ふたたびゲオルグが声を荒げた。
「閣下の主張は矛盾しております! この者はシャルロッテ様を疫病から救うため、一歩間違えれば命を落としかねない危険な任務に自ら身を投じたのです! 閣下の仰るような考えがあったのならば、そのような危険を犯すとは思えません!」
「控えよと言っている!」
重厚な声が場の空気を震わせる。壇上の隅に控える赤銅色の髪の騎士が、腰に携えた剣の柄を握り、射るような視線をゲオルグに向けていた。ゲオルグがぐっと唇を引き結ぶと、宰相は「アインベルク卿」と声を掛け、壇上の騎士を宥めた。
足元に視線を落とし、ロッテは黙って考えた。
シャルロッテの命を救うことに夢中で、病床にあったフィオラント国王を後回しにしたのは事実だ。けれど、シャルロッテが回復したおかげで特効薬を作ることが可能になり、結果として王は病から回復し、疫病患者の九割の命が救われた。ユリウスやロッテの選択は間違っていなかったはずだ。
だが、王の臣下である宰相が、王の命を何よりも優先すべきだと考えるのは当然のことだとも言える。特効薬が完成しない可能性を考えれば尚更だ。
「シャルロッテ様は疫病の特効薬開発の第一人者です。彼女を失っていれば特効薬の開発は不可能でした。私には殿下とこの者が下した判断が間違っていたとは考えられません!」
尚も食い下がるゲオルグの声に、剣身と鞘が擦れる涼やかな音が重なる。続けざまに、アインベルク卿の怒声が響いた。
「もう良い、退がれゲオルグ!」
「退がりません! 命を懸けてまで国に尽くした者に対してこのような仕打ち……納得出来るはずがない!」
「黙れゲオルグ! 目を覚ませ! お前は魔女の術中にあるのだ! 監視役を名乗り出たはずのお前がその娘を庇うのは、件の怪しい薬を飲まされたからであろう!」
「————ッ!」
ゲオルグが一瞬言葉を詰まらせる。深々と眉間に皺を刻み、彼は苦々しく声を絞り出した。
「……あの薬は精力を増強させるだけで、他人の心を意のままに操るようなものではありません」
「あのリーゼロッテが独自に開発した秘薬であろう。精力を増強させるだけの陳腐な薬のはずがない。アインベルク、お前は体良く騙されて魔女の手先にされたのだ」
宰相が冷ややかに言い捨てる。ゲオルグの黒曜石の瞳が、ちらりとロッテに向けられた。
——違う! あの薬はただの媚薬だ!
そう訴えることだって、できたはずだった。けれど、ロッテは何も言えなかった。だってロッテにはわからない。レシピに書かれていた効能が、本当に正しいのかどうかなんて。
ロッテは確かにゲオルグのことが好きだ。けれど、ゲオルグのロッテへの想いが本物かどうかはわからない。もしかしたら本当にあの薬はただの媚薬ではなくて、宰相が言うように強力な惚れ薬のようなものだったのかもしれない。出会った頃のゲオルグの言動から鑑みれば、そのほうが余程自然だ。そしてそれが真実ならば、ゲオルグのロッテに対する想いは薬によって形成された偽りの感情ということになる。
「そんな……そんなことって……」
「違う……ッ! 違います、私は……!」
宰相の蔑むような視線がロッテを射抜く。王とアインベルク卿は、憐れむような眼で黙ってゲオルグを見下ろしていた。
ロッテは俯いて唇を引き結び、ぎゅっとエプロンを握り締めた。
仮にゲオルグの想いが薬によって形成された偽りのものだったとしても、ゲオルグはロッテを庇うことをやめないだろう。このままではよそ者のロッテだけでなく、フィオラント王家に忠誠を誓ったゲオルグの立場まで悪くなってしまう。
そんなこと、絶対に許されない。
今はもう真面目に王家に仕えるつもりだとしても、惚れ薬ではないにしろ、ロッテが王太子に薬を盛って既成事実をつくろうとしたのは事実だ。こうして今、ロッテが苦境に立たされているのも自業自得でしかない。
「ゲオルグさん、ありがとう」
ゲオルグの上衣の裾をつんと引っ張って、ロッテはぽつりと呟いた。大きく見開かれた黒曜石の瞳が、真っ直ぐにロッテに向けられる。ロッテはにっこり微笑むと、顔を上げ、一歩前に進み出た。国王と対峙して、リーゼロッテならきっとこうするだろうと想像を巡らせて、魔女らしく堂々とその言葉を口にした。
「承りました、陛下。今日中にでも荷をまとめて王宮を離れます。つきましては、恐れながら、国境までの馬車の手配をお願い致します」
***
ファナの森を出たときに持ってきた私物だけを旅行鞄に詰め込むと、ロッテは手早く部屋を片付けて、宮殿を後にした。
手荷物は旅行鞄ひとつだけ。服装も王宮にやって来たときと変わらない。変わったものと言えば、短くなった薔薇色の髪と、その髪に咲く白い花の髪飾りだけだ。
精巧な調薬器具もお気に入りの硝子のティーセットも、国のお金で用意されたものは、全て部屋に置いてきた。
広々とした庭園を抜けると、道の先に初めて見る黒い馬車が停められていた。窓に備え付けられた鉄格子を見る限り、恐らく囚人を移送する際に使われる馬車だろう。足早に近付くと、馬車の側でゲオルグとディアナが待っていた。
「お見送り、ありがとうございます」
旅行鞄を抱きかかえてロッテが笑うと、ゲオルグは眉間に皺を寄せ、苦々しく呟いた。
「すまない。俺があの薬を飲んだりしなければ……」
「薬を持ち出したのは私でしょう。使ったのも私。この子は薬を作っただけで、宰相の言い分は滅茶苦茶だわ。それでも話を聞く限り、陛下は聞き入れてはくださらないでしょうね。まさか殿下の不在時にこんなことになるなんて……」
ディアナが唇を噛む。
——そっか。ユリウス様はお出掛けされていたのね。
ぼんやりと考えて、ロッテはふるふると首を振った。
「あの場にユリウス様がいても、結果は同じだったと思います。わたしがあの薬を使ってユリウス様を誑かそうとしたのは、紛れもない事実ですから」
「だが、実際には使わなかった。そうだろう?」
「そうですけど……」
それでもやはり自業自得なのだ。やましい気持ちがなかったのなら反論の余地もあるだろうけれど、少なくとも、あのときロッテはユリウスに使うつもりで薬を作ったのだから。
悔しそうに眉を顰めるゲオルグとディアナにぺこりと頭を下げて、ロッテはふたりの前を通り過ぎた。車両に鞄を押し込んで、それからゲオルグを振り返る。ロッテには、王宮を去る前に確認しておきたいことがひとつだけあった。
「……ゲオルグさん、八年前の大規模な魔獣討伐の際、討伐隊を指揮していた若い騎士というのは、あなたのことですか?」
「ファナの森の魔獣討伐のことなら、そうだ」
「やっぱり……」
ゲオルグの剣の型を北の霊峰で目の当たりにしたときから薄々勘付いてはいたけれど、これではっきりと確信することができた。この事実を知ることができただけでも王宮にきた甲斐は充分にあった。
ロッテはゲオルグに駆け寄ると、精一杯つま先立って彼の制服の襟を掴んだ。驚いて眼を見開いた彼の顔をぐいと引き寄せて、その唇にそっと口付ける。
「ゲオルグさん、大好き!」
弾けるような笑顔でそう告げて、ロッテはくるりと身を翻し、素早く馬車に乗り込んだ。
御者が鞭を振るい、馬の嘶きを周囲に響かせる。動き出した馬車に僅かに遅れて、ゲオルグがあとを追ってきた。
「必ず陛下を説得して迎えに行く! だから手紙でもなんでもいい。落ち着いたら連絡を寄越せ!」
「……はい!」
両手で鉄格子を握り締めて、ロッテは笑って頷いた。みるみるうちにゲオルグの姿が小さくなり、白亜の宮殿が遠ざかる。
ゲオルグの姿が見えなくなると、ロッテは窓から離れ、硬い座席に腰を下ろした。がたがたと馬車に揺られながら、膝を抱えて蹲る。涙がぽろぽろとこぼれ落ちて、エプロンに滲みをつくった。
手紙は出さない。そう決めていた。
ロッテと連絡を取っていることが知られれば、ゲオルグはきっと罰を受けるから。ゲオルグには今までどおり、ユリウスの騎士でい続けて欲しいから。魔獣に怯える人々を、守ってあげて欲しいから。
不機嫌を絵に描いたような無愛想な顔が、少し凄みのある低い声が好きだった。剣の腕は一流なのに、手先はてんで不器用なところが可愛いと思っていた。笑った顔を見られれば嬉しくて、触れられれば胸がきゅんとときめいた。
このままずっとそばに居られたら、と——そう思っていた。
手のひらで涙を拭い、ロッテは顔を上げた。鉄格子の窓の向こう——フィオラントの華やかな街と丘の上に建つ王宮を眺めながら、ぽつりと呟きが洩れる。
「……さようなら、ゲオルグさん」
——さよなら、わたしの初恋の人。
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