魔女見習いのロッテ

柴咲もも

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最終話 フィオラント王国の花の魔女

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 晴れ渡る青空を海鳥が飛び交って、三日月形の砂浜に白波が打ち寄せては引いていく。碧い海から吹きつける潮風が、屋根の上の風見鶏をくるくると踊らせていた。
 海辺の街の片隅に建つ小さな店。その玄関扉には『準備中』の札が掛けられており、店員が箒を片手に店先に立っていた。タイル張りの足元を綺麗に掃いて、砂埃をはたき終えた玄関マットを敷き直すと、彼女は小さく息を吐き、空を仰いだ。
 緩く編んだ薔薇色の髪と、白い花の髪飾りが風に揺れる。
 今日も良い天気になりそうだ。

 ロッテがこの街で暮らすようになって、はやくも半年が経とうとしていた。
 フィオラントを追われた当初は、見知らぬ土地にたったひとりでなんて、どうなることかと思ったけれど、この街の人々は他国の者にも親切で、行く宛てのなかったロッテを温かく迎え入れてくれた。王宮にいた頃にユリウスから支払われた給金で、こうして店を借りることもできたし、裕福とは言えないものの、国を追われた身とは思えないほどに、穏やかに暮らすことができている。
「さてと、今日の予定は……」
 玄関の隅に箒を立て掛けて店内に戻ると、ロッテは壁掛けのコルクボードに目を向けた。ピンで留めたメモ用紙にひとつひとつ目を通し、本日付けの依頼を確認する。
 今日は街に出掛けて足の悪いシルケ夫人に薬を届ける日だ。ついでに買い出しも済ませたいところだけれど、午後には店での引き渡しも数件あるから、出来れば昼過ぎには戻りたい。
 調薬用の白いエプロンを身に付けて、ロッテは早速調薬に取り掛かった。
 
 すべての薬を作り終えると、ロッテはほっと息をついて壁時計に目を向けた。
 正午までにはまだ余裕がある。ハーブティーでも飲んでひと休みしてから街に出ても良さそうだ。
 エプロンの紐を解いて調理場に向かい、水を汲んだポットをコンロの火にかける。お湯が沸くのを待ちながら、ぼんやりと物思いに耽っていると、ふと誰かに呼ばれた気がした。
「おい」
 ロッテは慌てて振り返り、調理場の外に目を向けた。けれど、店内はしんと静まり返っていて、誰の姿も見当たらない。小首を傾げて調理場に戻ると、また誰かの声がした。
「おい! こっちだ馬鹿ロッテ」
 小憎らしい口調でそう呼ばれて、ロッテはようやく状況を理解した。ぐるりと調理場を見渡して、部屋の隅に置かれた水瓶に目を止める。
 この街では各建物に水道が引かれていて、普通に生活するうえでは水に困ることはない。けれど、嵐や津波などの災害への備えとして、各家庭に水を備蓄する水瓶が置いてある。ロッテを罵倒する声は、どうやらその水瓶から聞こえるようだ。
 ロッテは急いで水瓶に駆け寄ると、蓋を開け、中を覗き込んだ。
 たっぷりと中を満たす水面に、ぼんやりと人影が浮かび上がる。闇色の髪と紫水晶の瞳を持つその魔女は、ロッテと眼が合うやいなや、すかさず声を張り上げた。
「やっとみつけたぞ! とっくに任務は終えただろうに、なぜ連絡を寄越さない!」
 相変わらずの高慢な口振りに、何故だか懐かしさを覚えてしまう。ちょっぴり困った振りをして、ロッテはリーゼロッテに口答えした。
「連絡って……だってお師匠様、わたしは魔法が使えないんですよ」
「ディアナとか言う女に頼めばいいだろうが」
「あはは……それが、色々あって、王宮を追い出されちゃって……」
「はぁん? そいつは聞き捨てならないな」
 ロッテがぽりぽりと頬を掻くと、リーゼロッテは片方の眉をぴくりと跳ね上げて、それから酷く不機嫌な顔で詳しい話を促した。

 ロッテが粗方説明を終えると、リーゼロッテは腕を組んで踏ん反り返り、つまらなそうにロッテに言った。
「どうりで、そんな辺鄙な街にいるわけだ」
「えへへ……フィオラントには戻れませんけど、一応薬を売って生活はできてますから。わたしのことは心配しないで、お師匠様も身体に気をつけてくださいね」
「りょーかい」
 軽い口調でそう言うと、リーゼロッテは目を閉じて、そのまま黙り込んでしまった。
 結局、要件はなんだったのだろう。
 ロッテが不思議に思っていると、少しばかり間を置いたあと、リーゼロッテはふたたび眼を開けて、いつになく優しい表情で口を開いた。
「……ロッテ、お前は魔法が使えないと思っているようだけど、本当はそうじゃない。お前にはちゃんと魔法のちからが備わっているんだよ」
 ロッテは驚いた。悪い冗談なのか、それとも本当に本当のことなのか。すぐには判断できなくて、見開いた琥珀の瞳で水面に映るリーゼロッテを凝視した。
 リーゼロッテは穏やかに笑い、そして続けた。
「それは例えば、お前が客人のためにお茶を淹れるとき、怪我人や病人のために薬を拵えるとき、傷の手当てや看病をするときなんかに、皆の身体にもともと備わっている傷や疲れを癒やすちからをほんの少しだけ助けることができる、そういう健気で優しいものだ。どんな相手にも分け隔てなく接することができるお前だからこそ使いこなすことができる、癒しの魔法だ」

 徹夜明けのディアナや討伐帰りのゲオルグが、ロッテが淹れたハーブティーを飲むと癒されると褒めてくれたのは。
 同じレシピと材料で作った傷薬でも、ロッテが作った傷薬が一番よく効くと皆に褒められたのは。
 それらは全て、ロッテ自身も気づいていなかった魔法のちからによるものだったのだ。

「お前は見事にフィオラントの危機を救った。だから、この偉大なる森の魔女リーゼロッテ様が認めてやる。魔女見習いは卒業だ。駆け出しの『花の魔女』ロッテ」
 リーゼロッテの優しい声が胸の奥まで沁み渡る。ずっとずっと長いあいだ胸の奥につかえていた楔が、粉々に砕け散った気がした。
 高名な魔女であるリーゼロッテに師事していても、魔法のひとつも使えなかったから、ロッテはずっと、自分には才能がないのだと、魔女になんてなれないのだと思い込んでいた。
 けれど、それは違っていた。リーゼロッテのように強大な魔法は使えなくても、ロッテにはロッテだけの魔法のちからがあったのだ。
 嬉しくて、視界がぼんやりと滲む。涙ぐんだロッテの耳に、リーゼロッテの晴れやかな声が響いた。
「疫病の件も無事に片付けたみたいだし、卒業祝いに何かくれてやる。何が欲しい?」
 ロッテは目をまるくして、それから穏やかに瞼を伏せた。
 この身体に魔法のちからが備わっていた。その事実だけで充分だった。欲しいものなんて他には何もない。ロッテが本当に欲しかったものは——王宮で皆と過ごしたあの日々は、もう戻っては来ないのだから。
「わたしは……フィオラントの王宮で過ごせただけで……いっときでもあの人のそばにいられただけで、もう充分です」
 呟いて、薔薇色の髪を飾る白い花に指先でそっと触れる。リーゼロッテは少し寂しそうに「そうか」と笑い、それからいつもの気怠げな声でロッテに言った。
「んじゃあ、祝いの品はお前が喜びそうなものをこっちで適当に見繕ってあとで送るわ」
 同時に水面が揺らぎ、リーゼロッテの姿が歪む。水鏡の魔法が解けて調理場に元の静けさが戻り、ロッテはまたひとりになった。
 水瓶を満たす透きとおる水の奥で、瓶の底に描かれた花の模様がゆらゆらと揺らめいていた。 


***


 リーゼロッテと話をした、その数日後の早朝のこと。馬の嘶きが聞こえた気がして、ロッテはのそりと顔を上げた。朝早くから調薬をはじめ、本日付けの依頼の薬を全て作り終えて、ほんの少し休憩を取ろうと机の上に顔を伏せた、そんな矢先のことだった。
 人の多い街中ならともかく、こんな街外れで馬の声を聞くなんて珍しい。外の様子を確かめにロッテが窓辺に向かおうとしたとき、ちりんちりんと玄関先の呼び鈴が鳴った。思ったとおり、お客のようだ。
 ロッテが玄関に向かうと、いつもは陽の光でほんのり明るい玄関が、今日はちょっぴり暗かった。どうやら今日のお客は随分と背が高いようで、その人影が飾り窓から溢れる陽の光を遮っているようだ。
 ロッテは飾り窓を見上げ、扉の向こう側に声を掛けた。
「すみません、まだ開店前で。何かご入り用ですか?」
 扉の向こうから返事はなく、店先はしんと静まり返っていた。街外れに建つ一軒家に一人暮らしということもあり、不用意に玄関を開けるのは気が引けてしまって。ロッテがどうしようかと考えていると、ややあって扉の向こうで声がした。
「この街に腕のいい薬師がいると聞いて来た。珍しい病を患っているのだが、医者では治せないらしい。この病に効く薬に心当たりはないだろうか」
 落ち着いた、どこか凄味のある低い声に、心臓がとくんと大きく胸を打った。
 ロッテはおそるおそる扉を開けて、来客の顔を仰ぎ見た。店の玄関扉よりも背の高いその人は、ロッテの顔を見ると、険しかった表情を穏やかに綻ばせた。
「寝ても覚めてもある女性のことを考えている。彼女のことを考えるだけで胸が苦しくて、今にも張り裂けてしまいそうだ。この胸の痛みを取り除く薬が欲しい」
 芝居がかった物言いに、どうしようもなく胸が締め付けられる。ロッテは少し躊躇って、ぽつりぽつりと呟いた。
「……それは、薬でどうこうできるものではないと思います」
「では、どうすればいい?」
 彼が一歩距離を詰める。黒曜石の瞳にまっすぐみつめられて、ロッテは咄嗟に俯いた。
「……忘れてください」
 ロッテが答えると、彼は一言「それは出来ない」と口にして、また一歩ロッテに歩み寄った。
 節くれだった指がロッテの指先に触れる。懐かしいぬくもりに、どうしようもなく心が震えてしまう。
 会えて嬉しい。心からそう思う。けれど、ロッテは素直に喜ぶことができなかった。目の前の彼が、初めて街に出掛けた日と同じ、普通の服を着ていたから。
「お前が好きだ。側にいたい」
 乞い願うような囁きが、ロッテの耳をふわりと掠めた。ロッテは顔を俯かせたまま、震える声を絞り出した。
「騎士は、辞めてしまったの……?」
「……いや、続けたいと思っている。だから、お前が選べ。俺と王都に帰るのか、ここに残って暮らすのか」
 絡まり合った指先に、ぎゅっとちからが込められた。目頭が熱くなり、涙で視界が滲む。
 ロッテだって許されるならフィオラントに戻りたい。ずっと彼のそばに居たい。けれど、ロッテはもう——。

「追放処分は取り消された」
 穏やかに告げられて、ロッテは思わず顔を上げた。
 ——どういうこと? 本当に、あの宰相を説得することができたの?
 ロッテがぱちくりと目を瞬かせていると、ゲオルグは軽く肩を竦め、困ったように微笑んだ。
「リーゼロッテ様が突然いらして、陛下に直談判してくださった。あのレシピは魔女の薬の中で最も難易度の高いエリクシアの霊薬を調薬するための練習用のものであり、出来上がった薬も特殊な調薬法を用いるだけのただの媚薬でしかないのだと」
 ゲオルグはそう言って、ちょっぴり恥じ入るように視線を逸らした。
 生真面目な彼のことだから、ロッテの無実を自力で証明できなかったことを情けなく思っているに違いない。けれど、今はそれよりも。
 ——『んじゃあ、祝いの品はお前が喜びそうなものをこっちで適当に見繕ってあとで送るわ』
 気怠そうなあの声が、胸の奥に蘇る。
 適当に、だなんてとんでもない。ロッテが何よりも欲しかったものを、リーゼロッテは贈ってくれた。
 普段はとっても意地悪なくせに、ほんとうに、あの魔女ひとはどうしようもなくロッテの友であり姉であり母であり、お師匠様なのだ。

「ロッテ、俺と帰ろう。魔女として名を馳せたいのなら、王の御前で改めて殿下と契約すれば良い。王子様と結婚したいと言うのなら、俺がお前の王子様になってやる」
 芝居掛かった台詞とともに、ゲオルグがそっと手を差し伸べる。薄紅色に染まったロッテの頬を、涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「……全然、王子様っぽくないですけど」
 唇を尖らせて拗ねるように見上げると、彼はちょっぴりはにかんだ笑みを浮かべ、涙に濡れたロッテの頬に優しく触れた。
「随分と待たせてしまったな」
 背中まで伸びた薔薇色の髪をみつめながら、ぽつりとそう呟いて。彼の腕が、ロッテの身体を抱き寄せた。
 とくとくと胸を打つ心地よい音に、潮騒のさざめきが混ざり合う。港を発つ漁船の鐘の音が、賑やかな海辺の街に響き渡った。


 *
 *
 *


 フィオラント王国の国王には代々契約の魔女がいる。
 十七代目の契約の魔女ロッテは取り立てて目立った魔法が使えない無名の魔女だった。けれど、少なくとも彼女が契約を終えるまでフィオラントの国民が疫病に怯えることはなく、彼女は歴代の契約の魔女の誰よりも人々に親しまれ愛された、と。
 後のフィオラントの歴史書には、そう記されている。





 魔女見習いのロッテ —— 終わり

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