魔女見習いのロッテ

柴咲もも

文字の大きさ
39 / 47
最終話 フィオラント王国の花の魔女

番外編 騎士と休暇と海辺の街①

しおりを挟む
 頬を撫でる風にほんのりと潮の香りが混じる。馬を繰り、坂道を駆け上がれば、丘の向こうに光り輝く海の碧が見えた。
 魔獣討伐でフィオラント全土を駆け巡り、国内であれば知らない土地などないと言っても過言ではない自分が、こうして見知らぬ異国の地を馬で駆けている。その事実を噛み締めるたびに、自分はまだこの世界のほんの一部にしか触れていなかったことを、まざまざと思い知らされた。
 彼女と関わらなければ、魔獣の巣窟であるあの山にも、このような異国の地にも、足を踏み入れることはなかったかもしれない。傷薬の作り方も、この国の古い言葉も知ることなどなかったはずだ。
 彼女が居たから、今まで興味のなかったものや、知ろうともしなかったことに触れることができた。剣の修行と魔獣討伐に明け暮れる殺伐とした日々の中に、穏やかで優しいひとときを得ることができた。
 今となってしまっては、彼女がいない日常に価値を見出すことなどできそうにない。

 この半年間、結局、彼女は一度も手紙を寄越さなかった。心配したし不安にもなった。けれど、そのような日々もようやく終わる。
 ぐっと口元を引き結び、眼下に広がる海沿いの街を一望すると、ゲオルグは手綱を引き、坂道を駆け下りた。


***


 夜明け前に海から戻った漁師たちが、新鮮な魚を朝市に卸しているのだろう。潮騒と海鳥の鳴く声が音楽のように響く早朝の街は、予想外に賑やかだ。
 通りを埋め尽くす人混みを遠巻きに眺めながら、ゲオルグは白い石畳の道を馬で進んだ。
 思っていたよりも大きな街だった。闇雲に捜し回るだけでは彼女を見つけるのは難しい。途中、中年の女性が三人、道の端で立ち話をしていたので、ゲオルグは馬から降りて声を掛けた。
「失礼、この街に腕の良い薬師がいると聞いて来たのだが、心当たりはないだろうか」
「薬師……って、薬屋さん?」
「……もしかして、ロッテちゃんのことかしら」
 女性が口にしたその名前を耳にして、胸がじんと熱くなった。
 思ったとおり。リーゼロッテが言っていたこの街に住む腕の良い薬師とは、やはりロッテのことだったのだ。
「坂の上に赤い屋根の店が見えるだろう? あれが彼女のお店だよ」
 坂の上を指差して小太りの女性が言った。彼女の示す方向に目を向けてその家を確認すると、ゲオルグは「感謝する」と一言礼を言って、ひらりと馬に跨った。手綱を引き、坂道を馬で駆け上がる。
「ちょっと、お兄さん! まだ開店前だよ!?」
 慌てて呼び止める声が聞こえたけれど、ゲオルグは構うことなく馬を走らせた。

 坂道を登った先に、赤い屋根の家が建っていた。店だと言われなければ普通の家にしか見えないが、おそらくはこれが例の薬屋だろう。ゲオルグはひらりと馬の背から降りて、逸る気持ちを抑えながら店先へと向かった。
 店には庭があるようで、背の高い柵の向こうに多種多様な草花が見え隠れしていた。玄関扉は直立したゲオルグがぎりぎり通れるかどうかという高さで、「準備中」の文字が書かれたプレートが飾り窓の下に掛けてあった。
 一度大きく深呼吸をして、ちょっぴり緊張しながら呼び鈴を鳴らすと、ほんの少しの沈黙の後、店の中から声がした。
「すみません、まだ開店前で。何かご入り用ですか?」
 間違いない。彼女の声だ。
 途端に胸が苦しくなり、目頭がじんと熱くなった。
 半年ぶりの彼女の声は最後に聞いた空元気なものとは違う、柔らかで優しい、王宮で穏やかに暮らしていたあの頃と同じものだった。
 すぐにでも彼女の顔が見たかった。だが、ゲオルグは思い止まった。
 彼女がいつからこの街で暮らすようになったのかはわからない。けれど、少なくとも街の人々に「ロッテちゃん」などと慣れ親しんだ呼び方で呼ばれる程度にはこの街で暮らしているはずなのに、彼女は一度もゲオルグに手紙を寄越さなかったのだ。
 ——もしかしたらロッテは、俺との再会を望んではいないのかもしれない。
 拒まれるのを恐れる気持ちと会いたい気持ちがせめぎ合う。ぐっと両手を握り締めて、ゲオルグは扉の向こうに声をかけた。
 この街への道すがら、馬の背に揺られながら考えに考えた、芝居掛かったその台詞を。


***


 外からは小さな家のようにしか見えなかったけれど、実際に入ってみると、店内は予想外に広々としていた。王宮の片隅にあった彼女の研究室と同じように、窓辺には鉢植えの草花が飾られていて、カウチの代わりに長椅子が置かれていた。カウンターの奥は調薬室になっているようで、少し広めの作業台と、壁際に戸棚があって、作り置きの精油や乾燥ハーブの小瓶が棚の中に並べられているのが見えた。
 ぼんやりと店内を見渡していたゲオルグを、ロッテはさらに奥の部屋へと案内した。

 その部屋は居間と食堂と台所がひとつになっていて、ロッテはそこで、王宮で暮らしていたあの頃と同じように、特製のハーブティーを淹れてくれた。
 懐かしい香りに満たされた小さな部屋で、ふたりは向かい合ってテーブルに着いた。
 聞きたいことや伝えたいことがたくさんあった。けれど、何から話せばいいかわからなくて。ゲオルグがどう話を切り出そうかと迷っていると、店先でカランカランと呼び鈴が鳴った。
 ぱっと顔を上げたロッテの視線が、壁時計と玄関のあいだを行き来する。「ごめんなさい」と頭を下げると、ロッテはそそくさと部屋を出て行った。
 生活感の漂う小さな部屋で、ゲオルグは落ち着かない気分のままロッテの仕事が終わるのを待った。客足には絶え間がないようで、ロッテはときどきゲオルグの様子を覗きに来ては、申し訳なさそうに頭を下げて店へと戻っていた。
 正午になると昼食にサンドウィッチを作ってハーブティーを淹れなおしてくれたものの、午後一番に薬を引き取りに来る客がいるらしく、ロッテはすぐに店に戻り、黙々と調薬作業を続けていた。

 王宮にいた頃と同じだった。彼女は患者のひとりひとりに親身になって、詳しい話を聞きながら症状に合わせた薬を作っている。宮廷の医師や薬師よりも頼りにされていただけあって、この街でも彼女を頼る患者は多いようだ。子供から老人まで、店には幅広い年齢層の客が訪れていた。
 彼女は相変わらず誰にでも明るい笑顔で接していて、若い男性客にも愛想良く接するものだから、ゲオルグはその度にそわそわしてしまって、落ち着かない気分のまま彼女の仕事が終わるのを待った。

 突然国を追い出されて、知らない土地に放り出されて、途方に暮れているのではないかと思っていた。手紙がないのは、未だ落ちついた暮らしが出来ていないからではないかと心配していた。けれど、それは杞憂に過ぎなかったのかもしれない。
 彼女はこの街でも、たくさんの人に親しまれていた。


***


 漁船が行き交う海の向こうに夕陽が沈みかけた頃、ようやく薬の引き渡しが終わったのか、ロッテが店を閉めて部屋に戻ってきた。けれど、三日三晩馬を走らせたせいか、ロッテの店を訪れる客の様子に長い時間神経を研ぎ澄ませていたせいか、ゲオルグはすっかり疲れてしまっていて、ロッテが部屋に入ってきたことにすぐには気が付けなかった。
 唐突に肩をつつかれて、驚いて振り返る。すると、ロッテは「ふふふっ」と嬉しそうに笑いながら、後ろ手に持っていた何かをゲオルグの目の前に差し出した。
「じゃーん! これなーんだ」
 黄色くて丸っこい手のひら大の木の実に、ふと懐かしさが込み上げる。
「リウの実か」
 ゲオルグが答えると、ロッテはにっこり笑い、
「今日の夕食はリウの実これで美味しいお料理作りますから、期待しててくださいね」
そう言ってリウの実を抱え、台所に立った。
 食材を切る包丁の音や調理器具を洗う水の音が、心地良い音楽のように部屋を満たす。ゲオルグは心なしか浮かれた気分で、調理台に向かうロッテの背中を見守った。

 ロッテの手料理を食べるのは久しぶりだ。
 以前に一度食べたとき、美味しいと感じた記憶はあるものの、どのような料理を食べたのか、その記憶は定かではなかった。
 あのときはまだ、ロッテとの関係は今のようなものではなく、ゲオルグも片意地を張っていて、騎士団宿舎の大勢の騎士たちが次々と料理を平らげる傍らで、ツマミ程度に彼女の料理を食べたのだった。
 今となっては、とてつもなく勿体無いことをしたものだと思う。けれど、今夜ロッテはゲオルグのために——ゲオルグのためだけに、料理を作ってくれるのだ。
 じんわりと熱くなった目頭を押さえながら、ゲオルグはぐっと拳を握り締めた。

 しばらくすると、ロッテも調子が出てきたようで、楽しそうな鼻歌が聴こえてきた。あの日、騎士団宿舎の厨房で耳にしたものと同じ、不思議と心地良い旋律だ。料理が美味くなる魔女の唄なのかもしれない、などと考えて、思わず口元が緩んだ。
 ——それにしても。
 久しぶりに見るロッテは、王宮にいた頃よりもずっと綺麗になっていた。緩く編んだ薔薇色の髪も、田舎の村娘のような服も、背格好も振る舞いも、どれもこれも初めて出会った頃と変わらないはずだ。それなのに、長い髪の陰に見え隠れする白い肌からほのかな色気が漂って、誘われているのでは、と錯覚しそうになる。
 ——禁欲生活が長すぎたのかもしれんな。
 欲求不満なのだと自嘲して、ゲオルグはふうと大きく溜め息を吐いた。

 その日の晩の食卓には、リウの実の果肉を使ったサラダと炒め物と、海辺の街らしく貝や魚の焼き料理が並べられた。
 軽めの昼食だけでは正直物足りなかったこともあり、彩り良く盛り付けられた手料理の数々を前にしたゲオルグの胃袋は、既に万全の準備を整えていた。
「豪勢だな」
「ゲオルグさんにたくさん食べて欲しくて……今朝買ってきた食材、ほとんど使っちゃいました」
 ロッテがえへへと照れ笑う。
 胸を擽られる思いでナイフとフォークを手に取ると、ゲオルグは次々に恋人の手料理を口に運んでいった。
 優しい味が空腹に沁み渡る。食卓に並べられた皿や器は瞬く間に空になった。
 料理はどれも美味しかったけれど、向かいの席に着いたロッテの嬉しそうな笑顔は殊更に絶品だった。

しおりを挟む
感想 18

あなたにおすすめの小説

贖罪の花嫁はいつわりの婚姻に溺れる

マチバリ
恋愛
 貴族令嬢エステルは姉の婚約者を誘惑したという冤罪で修道院に行くことになっていたが、突然ある男の花嫁になり子供を産めと命令されてしまう。夫となる男は稀有な魔力と尊い血統を持ちながらも辺境の屋敷で孤独に暮らす魔法使いアンデリック。  数奇な運命で結婚する事になった二人が呪いをとくように幸せになる物語。 書籍化作業にあたり本編を非公開にしました。

代理で子を産む彼女の願いごと

しゃーりん
恋愛
クロードの婚約者は公爵令嬢セラフィーネである。 この結婚は王命のようなものであったが、なかなかセラフィーネと会う機会がないまま結婚した。 初夜、彼女のことを知りたいと会話を試みるが欲望に負けてしまう。 翌朝知った事実は取り返しがつかず、クロードの頭を悩ませるがもう遅い。 クロードが抱いたのは妻のセラフィーネではなくフィリーナという女性だった。 フィリーナは自分の願いごとを叶えるために代理で子を産むことになったそうだ。 願いごとが叶う時期を待つフィリーナとその願いごとが知りたいクロードのお話です。

憧れの騎士さまと、お見合いなんです

絹乃
恋愛
年の差で体格差の溺愛話。大好きな騎士、ヴィレムさまとお見合いが決まった令嬢フランカ。その前後の甘い日々のお話です。

「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」

透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。 そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。 最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。 仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕! ---

愛しい人、あなたは王女様と幸せになってください

無憂
恋愛
クロエの婚約者は銀の髪の美貌の騎士リュシアン。彼はレティシア王女とは幼馴染で、今は護衛騎士だ。二人は愛し合い、クロエは二人を引き裂くお邪魔虫だと噂されている。王女のそばを離れないリュシアンとは、ここ数年、ろくな会話もない。愛されない日々に疲れたクロエは、婚約を破棄することを決意し、リュシアンに通告したのだが――

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

大人になったオフェーリア。

ぽんぽこ狸
恋愛
 婚約者のジラルドのそばには王女であるベアトリーチェがおり、彼女は慈愛に満ちた表情で下腹部を撫でている。  生まれてくる子供の為にも婚約解消をとオフェーリアは言われるが、納得がいかない。  けれどもそれどころではないだろう、こうなってしまった以上は、婚約解消はやむなしだ。  それ以上に重要なことは、ジラルドの実家であるレピード公爵家とオフェーリアの実家はたくさんの共同事業を行っていて、今それがおじゃんになれば、オフェーリアには補えないほどの損失を生むことになる。  その点についてすぐに確認すると、そういう所がジラルドに見離される原因になったのだとベアトリーチェは怒鳴りだしてオフェーリアに掴みかかってきた。 その尋常では無い様子に泣き寝入りすることになったオフェーリアだったが、父と母が設定したお見合いで彼女の騎士をしていたヴァレントと出会い、とある復讐の方法を思いついたのだった。

ツンデレ王子とヤンデレ執事 (旧 安息を求めた婚約破棄(連載版))

あみにあ
恋愛
公爵家の長女として生まれたシャーロット。 学ぶことが好きで、気が付けば皆の手本となる令嬢へ成長した。 だけど突然妹であるシンシアに嫌われ、そしてなぜか自分を嫌っている第一王子マーティンとの婚約が決まってしまった。 窮屈で居心地の悪い世界で、これが自分のあるべき姿だと言い聞かせるレールにそった人生を歩んでいく。 そんなときある夜会で騎士と出会った。 その騎士との出会いに、新たな想いが芽生え始めるが、彼女に選択できる自由はない。 そして思い悩んだ末、シャーロットが導きだした答えとは……。 表紙イラスト:San+様(Twitterアカウント@San_plus_) ※以前、短編にて投稿しておりました「安息を求めた婚約破棄」の連載版となります。短編を読んでいない方にもわかるようになっておりますので、ご安心下さい。 結末は短編と違いがございますので、最後まで楽しんで頂ければ幸いです。 ※毎日更新、全3部構成 全81話。(2020年3月7日21時完結)  ★おまけ投稿中★ ※小説家になろう様でも掲載しております。

処理中です...