鮮血の非常識

おしりこ

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007

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「…………」
「…………」

 時刻は夕暮れを過ぎ、夜空に星が瞬き始めるとき。
 姫を鉄竜の自宅へと連れ帰った二人は、何も言わずに座っている。
 鉄竜は図書館で借りてきた吸血鬼カーミラを読み、姫は何も言わず、ただ心配そうに姫を見つめる。
 あの場所、あの時に起こった姫の大きな変化。それに二人は戸惑いを隠せず、嫌な動揺が走っている。
 動揺が、空間に重苦しい雰囲気を流しつつも、鉄竜は何も言わず、ただ本のページを捲る。
 本の内容が頭に入ってくる訳ではない。ただ、何もせず呆けていることが出来なかった。
 心が彼女が、姫が心配だといっているから。それをごまかす為に。何かをしていないと落ち着かなかった。
 静まり返る部屋の中に本を捲る音だけが響き渡っていたが、唐突に愛が口を開いた。

「……姫ちゃん、何かあったのかな」
「何かあったからこうなったんだろ」
「それはそうだけど……」

 未だベッドで眠る姫の頭を軽く撫でる愛。
 鉄竜のその姿をチラリと見つめてから、本を閉じ、口を開いた。

「記憶喪失の姫に、赤い城。殺人事件に不可解な錯乱……わけわかんねぇな」

 鉄竜は本を閉じてから、その場に寝転がり、天井を見上げる。
 この数時間であまりにも多くの事が起こりすぎた。
 眠る前、昨日の帰り道に姫を拾い、赤い城の記憶を探ってから、殺人事件について調べて、姫自身が錯乱し、気絶する。とても一日に起こるには密度が濃すぎる。
 鉄竜は後頭部に手を動かし、天井を見上げたまま、目を閉じる。
 この密度の濃い時間の中でも、不可解な点が多い。
 姫の記憶喪失。記憶喪失といっても、彼女の場合はごく普通にコミュニケーションは取れている。だが、分かっていないのは、己の事だけ。
 そして、その僅かな記憶から分かる『赤い城』
 インドにあるデリー城かと思えば、そうではなく、そもそも現存しているのかも怪しい。
 そして、殺人現場に行ってからの錯乱に、姫自身のあまりにもブレている性格。
 時には強気で、時には弱気で、時には別人のように怯えた子犬のようになる。
 それは個性だと一口に言ってしまえば、それまでなのだが――。
 と、鉄竜が思考の海に潜ろうとしていたとき、ベッドから声が聞こえた。

「うっ……うぅ……ここは……」
「姫ちゃん!?」
「愛……ああ、そうか。ここは、鉄竜の家か……」
「大丈夫か? 姫」

 鉄竜は姫が目を覚ました事に気が付き、身体を起こす。
 まだ完全に覚醒しきっていないのか、瞼は重いが、すぐに目を見開いた。

「そうだ! 私は……」
「姫ちゃんはあの場所で倒れたんだよ。いきなり人が変わったみたいになって……」
「……そうか。また……迷惑を掛けたんだな……」
「それは別に良いんだよ。それより、姫。大丈夫なのか?」

 大丈夫なのか? そう尋ねると、姫は顔を俯かせ、ぎゅっと被せていた掛け布団を握り締める。

「……ああ。大丈夫だ。それと……少しだけだが、思い出せたよ。私の正体が」

 その言葉に鉄竜と姫は驚き、目を見開いた。

「本当か!?」
「ああ。私がどういう存在だったのか……どうして私は忘れていたんだろうな……」

 ギュッと握るその手はとても震えていた。それが恐怖なのか、それとも知ってしまった真実があまりにも残酷だったのか、それは分からない。
 けれど、姫は震えたまま、恐る恐る口を開いた。

「私は……その侍従をしていたんだ。……この時代で言うならば――メイド、だろうな」
「この時代?」

 妙な言い方に引っかかりを覚えたのは愛だけではなく、鉄竜も覚えた。

「この時代? それってどういう事だ?」
「君たちは、バートリー家。その名について、聞き覚えは無いか?」

 その家の名前を聞いた瞬間に、鉄竜と愛の顔が一気に強張る。
 バートリー家。その名前は世界史を多少なりとも嗜んでいれば、分かる。良く聞く名前だ。
 その悪行も、その悪事も、その悪魔の所業も。全て鉄竜も愛も知っていた。
 バートリー家。1500年から1600年代頃まで栄華を誇っていた名家だ。
 けれど、名家なんて言葉は名ばかりで、本性は――血狂いの一族だ。
 鉄竜は机の上に置かれていた吸血鬼カーミラを手に取り、姫に見せた。

「……バートリー。有名どころで、エリザベートバートリー……。この本のモデルになった人物だ」
「吸血鬼……。そうか……やはり、奴は……悪魔だったのだな」
「悪魔どころの騒ぎかよ……美しさの為に何人もの女性を殺害し、血を浴びたっていう狂った女だぞ! その為に奴隷だって手に入れて……拷問道具も使ってな。今じゃ、血の伯爵夫人だなんて呼ばれてやがる。お前は、そいつの関係者なのか? だとすると、何で、お前は今、この場で生きてるんだ?」
「――っ!?」

 ビクっと身体を震わせ、姫は身体を小さくする。それから、全身を震わし、何かに怯えた様子になる。
 今までとは違う強気な姿は影に消え、今じゃまるで肉食獣に睨まれたウサギのような姿に変わってしまっている。鉄竜は一度深呼吸をし、落ち着きを取り戻す。怯えさせては話が出来るはずも無い。

「……いや、悪い。お前も混乱してるのによ」
「姫ちゃん。話したい事だけ話して。それだけでも私たちは十分だから」
「……私は、私は――」

 姫はぎゅっと布団のシーツを強く握り締めると同時に、瞳から涙が一つまた一つと零れていく。
 とめどなく溢れる涙は姫の手の甲へと落ちていく。落ちる度に強く、強く握られるシーツ。
 悔しさを堪えるように。辛さを噛み締めるように。姫は唇を震わせ、意を決したように、口を開いた。

「私は――バートリー家の侍従で、奴隷だった」
「……え? 奴隷……」

 姫の語る真実が受け止める事が出来ないのか、目を丸くする愛に対し、鉄竜は唇から血が流れるほど強く、強く唇を噛んだ。
 奴隷。その言葉が鉄竜は大嫌いだった。人を人とも思わない、人権すらも与えられず、家畜同然の扱いである存在。
 一体、何のために生きているのかも分からないような存在。そんな存在が――大嫌いだった。
 鉄竜は湧き上がる怒りを拳に込めて、堪え、口を開いた。

「じゃあ、お前は……エリザベート・バートリー。奴が生きていた時代を生きていて、奴隷だった……あれだけの事を、語られてるあれだけの拷問を全部、知ってるって事なのか!? 知っているだけじゃねぇ……お前は……」

 これ以上の言葉を語るよりも前に姫は小さく頷いた。
 
「……そうだ。私が思い出した赤い城、。私が知っている城はたった一つ。エリザベートが居を構えていたチェイテ城……その場所で私たち奴隷は――地獄のような毎日を送っていたんだ」

 その一つ、一つを思い出しているのか、どんどんと涙が溢れていき、姫は顔を手で覆った。

「ぐっ……何なんだ、この記憶は……私は……なんで、こんな記憶を忘れていたんだ……こんなにも、辛い、悪魔のような毎日を何故、思い出したんだ……。こんな記憶ならば――私は思い出したくなかった!!」
「……姫ちゃん」

 どんな言葉を掛けていいのか、愛にはまるで分からないだろう。
 エリザベートバートリーが行った悪行の数々はあまりにも悲惨であり、残酷である。
 エリザベートは血を浴びると美しくなるという迷信を本気で信じていた。そして、あろう事か、それを実行に移したのだ。
 エリザベートは、チェイテ城でありとあらゆる拷問道具を用い、人を殺し、血を浴びていたという。
 更にはその断末魔に、性的快楽を得ていたとまで言われる程、狂っていたのだ。
 奴隷を人とも思わず、いかに自分が満足できるように殺すか。そんな事ばかりを考えていたに違いない。現にその結果は遺されている。拷問道具の一つである、アイアンメイデンである。
 鉄の処女と呼ばれる、聖母マリアを模した女性の形をした空洞人形。その中に入れば最後、左右に開く扉の内側に設置されたいくつもの釘が内部に居る人間に突き刺さり、閉ざされる事で、悲鳴すらも無くなる悪魔の道具である。
 そんなものを使い、更にはその内部に溢れ出た血を浴びたというほどに、エリザベートバートリーは狂っていた。
 己の美の為に。己の快楽の為に。己が充実感を得る為に。ただただ無作為に人を殺し続けた。
 そんな常に晒される死の恐怖と狂信者の中に居て、心が壊れないはずが無い。心が辛いと叫ばないはずが無い。辛さ、苦しさ、強い狂気性は全て姫にしか分からない。
 けれど、鉄竜にはそれが分かる。いつ死ぬかも分からない恐怖と人を人とも思われない人生。生きる希望すらも奪い去ってしまう絶望を、鉄竜には理解できる。
 だから、鉄竜は真っ直ぐ俯く姫を見つめ、口を開いた。

「……姫、お前の気持ち。俺にも何となくだけど分かるよ」
「なんだと……お前は知っているのか? お前に分かるのか!? 私がどんな気持ちで毎日を送っていたのか!? 一人、また一人を消えていく。次は私なのか、私が殺されてしまうのか、と怯え続ける毎日が、お前に、分かるのか!? 薄暗い中でただ死を待つだけの希望すらも見えないその時間がお前には分かるのか!?」
「だって……俺も奴隷だったからな……何となく奴隷の気持ちってのは理解出来る」
「なっ――お前が、か?」

 驚いているのか、両手から顔を上げる姫に、鉄竜は小さく頷いた。

「ああ。奴隷といっても、俺の場合はお前みたいな完全な奴隷って訳じゃなくて、実験体っていう感じだけどな」
「実験体?」
「俺はな、二、三年くらい前までずっとある実験の被験体だった。しかも、その実験を行ってるのが両親なんだぜ? ホント、狂ってると思ったよ。俺がどれだけの言葉を投げかけたって、自分たちの成果を求めるばかりで、俺にクスリを常にぶち込み続けた。その副作用で苦しんだって、それをデータとして取られる毎日。辛くない訳ないだろ? 苦しくない訳ないよな?」
「鉄竜……」

 今でも充分に思い出せる。ただベッドに拘束されて、腕に注射を打たれ、その副作用で苦しんでいる間も、何の慰めも無く、ただただ紙と向き合って、ペンを走らせるだけ。
 そこに人権があっただなんて微塵も思えない。親に子としてすら見られていないんだな、と思った。辛くないはずがない。苦しいはずが無い。哀しくないはずがない。
 けれど、けれど、それがあったから、そんな毎日があったから、鉄竜の今がある。
 鉄竜は愛へと視線を動かし、愛の頭の上に手を置いて、口を開いた。

「けど、俺にはそんな辛い過去があったから、こいつと出会って、お前と出会って、色んな人たちと出会って、今がある。俺はそう思ってる。辛く、苦しい過去があったとしても、俺は無かったことにはしたくねぇよ」

 研究室を破壊し、脱出してから、鉄竜はすぐ路頭に迷った。
 無理もない、中学生が一人で生きていけるほど世の中は甘くない。空腹も限界になって倒れかけたとき、ちょうど制服を着た彼女に出会った。
 恋久保愛という少女に出会った。優しい彼女が手を差し伸べてくれて、彼女の家族が受け入れてくれたから、暖かい人間の気持ちを知る事が出来たから、今の鉄竜がある。
 それは絶対に姫も同じのはずだ。ただ気づいていないだけで。彼女にだって鉄竜と同じ権利があるはずだ。

「過去を受け入れろとはいわねぇよ。そんなのどんだけの時間が掛かっても出来ない。けど、それを否定すれば、俺達との時間を否定する事になると俺は思う。そんなの寂しいじゃねぇか。せっかく、俺達は出会う事が出来たんだ」
「鉄竜……君は……」

 姫が呟くと、愛もまた姫の手に優しく手を重ねた。

「私はテツくんや姫ちゃんみたいにね、辛い過去なんて何も無い。けど――人を助けたいって願う気持ちに間違いなんてないって思う。一番大事なのは、人の経歴でも、体裁でもなく……私は心なんだと思うから。だから、私は姫ちゃんを否定しない。奴隷だったとしても、テツくんみたいに……とっても優しい人が居るって私は知ってるから」
「愛……君たちは優しすぎるんだ……なんで、なんで、私にそんなに優しくしてくれるんだ? 私は穢れた奴隷だ……君たちとは住む世界も違う。それに……あんな悪魔の従者、私に生きる価値なんて……」
「生きる価値なんてこれから生きてないのに、分かるもんじゃねぇだろ。少なくとも、俺はまだそれを見つけてねぇよ。んで、これから見つけるつもりだ。だからよ、姫。俺と一緒に、見つけようぜ。俺達の生きる価値って奴をよ。奴隷にだって生きる価値があるんだって、胸張って言えるように、頑張ろうぜ!」

 奴隷だから生きてはいけない、生きる価値は無い。人権を与えられていないから、それは人間ではないから、生きる意味を求めてはいけない。
 そんな事は間違っている。人間ではない存在でも、奴隷であったとしても、生きる権利は全員に等しく与えられているはずだ。
 この世に必要の無い人間なんて居ない。鉄竜はそれを信じ続けたいと願っている。
 鉄竜自身がろくでもない男だ。けれど、ろくでもない男が誰かを救えたのなら、それは救った事と同じだ。そして、救うだけの力は等しく誰にだって与えられているという事だ。
 例え、過去に何かを抱えていようとも、過去を知るからこそ、出来る事だってある。鉄竜はそう信じている。

「だから、お前は何でも良いし、ここに居てもいいんだよ。辛いなら泣けばいい。嬉しいなら笑えばいい。辛いなら、俺達が受け止めてやる。嬉しいなら一緒に笑ってやる。それが、友達ってもんだろ」
「トモダチ……」

 反芻するように言葉を紡ぐ姫は、ぎゅっと強く、強く拳を握り締め、大粒の涙が零れるその眼差しを鉄竜に向けた。

「私は、お前たちの、友達でもいいのか? また迷惑を掛けてしまうかもしれないんだぞ? 私が君たちを傷つける事があるかもしれないんだぞ? それでもいいのか?」
「友達なんだから、迷惑くらいいくらでもかけろ。それで嫌な顔をするような奴は友達じゃねぇ。少なくとも、俺はお前の過去を受け入れる。絶対に否定なんかしねぇ。お前はこれから幸せになる権利は絶対にある。俺はそう信じてるし、もし、信じられなくなったら――俺がお前を幸せにしてやるよ」
「……うぅ……」
「姫ちゃん」

 そっと姫に寄り添うように、そして、優しく、愛は姫を抱き締めた。

「テツくんみたいに私は強くないけど、私もちゃんと姫ちゃんの傍に居る。辛い時も苦しいときも、傍に居てあげる。絶対に見捨てないからね。友達は絶対に見捨てないって決めてるんだから」
「うん……うん……私は、本当に、君たちに出会えて良かった……君たちのような優しい人たちに出会えて、本当に……良かった」

 辛い過去なんて筆舌したくないものだ。
 辛い気持ちも、苦しい気持ちも、それを感じた本人にしか分かるはずが無い。
 だから、姫には姫にしか分からない辛さや苦しみがあるのを、鉄竜だって、愛だって充分に理解している。
 けれど、それでも、彼女を見捨てるという選択肢は彼らには無かった。
 姫はあまりにも優しい。奴隷だった自分が他人へと迷惑を掛けてしまうかもしれない、そんな周りの事を考えて、そんな人が優しくないはずが無い。誰かの気持ちに寄り添って考えられる事は、誰にだって出来る事ではない。世の中にはろくでもない人間が腐るほど居るんだから。

 鉄竜は愛に抱かれ、静かに涙を流す姫を見つめ、思う。

 まだまだ、分からない事は多い。不可解な点だって残っている。
 けれど、それら全てがもしも、彼女へ牙を剥くのだとするのなら――。

 己の全身全霊を持って、彼女を守ると。

 そう強く胸に誓った――。
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