小鳥遊医局長の結婚

月胜 冬

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――― 7月上旬。

日本へ戻って来た冬。

その日は朝から小鳥遊が邪魔だった。
子供達と一緒に冬の後をついて回った。

「トーコさんなんか化粧が濃くないですか?」

…煩い。染み隠しなのっ。

「あれ?今日はガーターベルトじゃないんですね?」

…パンツスーツなのに、なんでガーター履かなくちゃいけないのよ。

「ねえ。ガクさん…お願いだから自分の準備をして頂戴。子供達も居るんだし、遅れるわよ。」

鏡の前で髪をアップにきっちりとあげている間に、小鳥遊の手が冬の胸を包んだ。

…このク●忙しい時に、変態は一体何をやってるの?

「ガクさん…ちょっと。」

…もみもみもみもみ。

「ねぇ、やっぱり行く前に一回しません?」

…うざいんですけれど?

「子供達も起きてるし、もう時間無いわよ。」

あと15分もしたら、冬は先に家を出なければならない。

「トーコさんも気持ちよくさせて、尚且つ3分クッキングで♪」

…マジですか?

進化しすぎた変態さんのそれを見てみたい気もしたが、初出勤で遅れる訳にはいかない。

「あれってCM入れると3分じゃないんですって。」

大きな手をやんわりと振り払って、
バッグに携帯と書類を突っ込んだ。

「そんなこと言わないで…トーコさぁん。月性ちゃぁん」

…それ病棟でやったら、1ヶ月間エッチ無しな?

「ガクさん。ちょっとは、子供達を見習って下さいよ?」

保育園の準備が出来た子供達は静かにテレビを観ていた。冬はバタバタと子供部屋へ行き二人分の靴下を掴み、夏に渡した。

「お父しゃん。靴下。」

冬は夏に靴下を持たせ、指令を出した。

「夏さん偉いね。よし僕が履かせましょう。」

小鳥遊は夏を膝に乗せると、靴下を履くのを手伝った。自分でやりたがる夏は特に履かせるのに時間が掛かった。

…しめしめ。

華にも夏さんの次ね。順番…と言い靴下を渡した。その間に冬は靴を履いた。

「あっ…トーコさん!!」

子供達は小鳥遊が病院付属の24時間保育園へ連れて行く予定だった。

「じゃぁ。病棟で会いましょう♪」

玄関のドアを開け慌ただしい空間から解放され、早足で丁度来たエレベーターに乗り込み、冬は大きくひとつ深呼吸をした。





「月性さん。待ってたわよ♪」

病棟へあがると、師長がニコニコと嬉しそうな顔をして待っていた。

暫く現場から離れていたので、慣れた病棟で働かせて欲しいと師長と共に院長と看護部長にお願いをして、何とか病棟に入れて貰った。

ただし、混乱するので冬は旧姓を使うことになった。内縁関係にあることは、家族以外は知らなかった。

「今日は挨拶回りで終わるから、業務は明日からね。」

師長は始終にこにこしていた。

――― 8時15分。

日勤の看護師が全て揃ったところで、師長が冬を紹介した。

「皆さん。明日からこの病棟で働いて貰う月性主任です。」

病棟の看護師は半分程知らない顔だったが、同期と数人の後輩そして、設楽したらは、まだ働いていた。

「月性です。どうぞ宜しくお願い致します。」

冬は深々と頭を下げた。

「じゃぁ、私は月性さんと各病棟にあいさつ回りに行っていますので。」

「トーコ久しぶり~!」
「月性さんおかえりなさい♪」

皆、宜しくお願いしますと挨拶をし、顔見知りはそれぞれが冬に声を掛けた…設楽以外は。

…相変わらず…か。

「設楽さんもどうぞ宜しくね。」

冬はにこやかに声を掛けたが、設楽は、ナースステーションから出て行ってしまった。

「設楽さんは気にしないで。」

同期が冬に慌てて言った。

「うん。大丈夫よ。」

…また…何か色々起こりそうな予感。

冬は大きく深呼吸をした。

「おはようございます。」

小鳥遊が他の医師を連れ、
上機嫌でにこにこしながらやって来た。

…おいおい…顔に出てる。顔に出てるってば。

「月性さん~!!久しぶり。」

冬のファン高橋が近寄り、徐に冬にハグをした。

「あっ…ちょっと。」

他のスタッフは、戦々恐々しながら小鳥遊の顔を見たが、いつものように、にこにこと笑っていた。

「ちょっと…高橋先生。長すぎ!長すぎ!」

同期の榎木が、慌てて注意をした。

「また宜しくお願い致します。」

冬は医師たちにも頭を下げた。

「あれもう一人のストーカーは、何か言わなくていいの?」

これまた4月から脳外科勤務になった同期の友田が小峠を見て笑った。小峠はちらっと後ろから顔を出した。

…ちょ…直球だな…。おい。

友田は、昔から毒舌で有名だった。冬が小峠にしつこくされている時のことも良く知っていた。

「月性ちゃん。変わらないね~よろしくぅ。」

小峠もにこにこと顔を出し冬に挨拶をした。

…自分でストーカーの自覚があるんかい。しかも禿病進行してるじゃないか。

「ご無沙汰してます。また宜しくお願いしますね。」

冬は愛想笑いを浮かべた。

「じゃぁ。他の部署に回りますんで。あと大学の方も一応案内しておくわね。」

師長が言うと、冬は慌てて後をついていった。


「薬剤部長が変わったのよ。」

薬剤部へ行く道すがら、師長と話をした。

「今泉先生も、来年帰ってくるんですって?」

…ガクさん ちゃんと話してるんだ。

「ええ。」

カッコいいから渋いとか言われる年齢に突入した今泉は、適応できるだろうかと思うと、思わず笑ってしまった。

…ガクさんみたいに嘆きそう。

「きっと貫禄がついてるんでしょうね。」

「すっかり“おじさん”かも知れません。」

薬剤部は病院の中心部に位置しており、常に7-9人が働いていて、いつも忙しそうだった。

「あっ…丁度良かった。石動部長。」

背中を向けていた男性が振りかえると、
お互いに小さな声をあげた。

「あら…お二人とも知り合いだったの?」

石動が何かを言いかけたので、冬は慌てた。

「あ…昔からの友人です。」

「じゃぁ説明する必要は無いわね。月性さんは、脳外科の主任になったの。」

冬はドキドキしながら宜しくお願いしますと頭をぎこちなく下げた。

「あ…はいこちらこそ宜しく。」

では行きましょうかと師長に促され冬は歩き出したが、師長の院内携帯が鳴った。

「あら。ちょっと待ってね。」

心臓がドキドキとしていた。

…タイミング悪いよ…師長さん。

冬は少々気まずかったか、栄一郎はにこにこしていた。

「久しぶりだね。」

沖縄で会ったのが最後なので、もう3年近く前の話だ。

「いつからなの?」

以前より若々しいのは、髪を染めているからなのかも知れないと冬は思った。

「去年だよ。院長に引き抜かれたんだよ。ここでトーコが働いているとは思わなかったよ。」

冬はハッとした。

「それって、看護師の睡眠薬の大量盗難事件に関連すること?小峠先生が関わってるってホント?」

探偵からその事件があったことは聞かされていた。栄一郎はびっくりした顔をした。

「どうしてそのこと知ってるの?」

周りを見回してから声を潜めた。

「小峠先生とは色々と因縁があってね、色々調べているの。そのことで話を聞きたいんだけど、今日のお昼は時間ある?」

「ああ。判った。」

栄一郎は戸惑った表情を浮かべた。師長の話が終わり、お待ちどう様でしたと笑った。


「またお昼にね。食堂じゃ目につくから、屋上で暑いけどお昼でも食べましょう。」

師長の後を冬は慌ててついていった。

「ああ。」

冬は栄一郎の視線が自分の背中に注がれていることが判った。

…こんなところで会っちゃうなんて。

また何か起こりそうな気がしていた。
各病棟に回ると、藤田隆が外科病棟で働いていた。随分前から復帰したと聞いていた。目が合ったがお互いに話しかけたりしない方が良いだろうと思い会釈をした。

…良かった元気そうで。

その姿を見て冬はホッとした。
病棟へ戻り、師長から細々とした説明を受けた。

「あなたが働いていた頃と殆ど変わっていないと思うんだけど。」

師長は説明をしてくれたが、細かいところが変更になっていて、そのたびに冬はメモを取っていた。

「主任も一応管理者になるので、日勤が増えて、夜勤は月に1-2回ぐらいかしらね。」

…やばい…変態エロが何かしでかさなきゃ良いけれど。

朝の出来事と良い、小鳥遊が少し心配だった。午前中は挨拶回りとであっという間に終わってしまった。

「あなた達が日本に帰って来ると、すぐ分かったのよ。小鳥遊先生がとってもご機嫌が良くなるから。」

…恥ずかしい。

「折角、師長さんが私を推薦して下さったので、夫婦でご迷惑をお掛けしないように頑張ります。」

「あなた達ならきっと大丈夫。何年も私を騙し続けられたんだから。公私混同はしないでしょうから。」

師長は、にこにこと笑いながら冬の肩を抱いた。



日差しが強く、冬は屋上の唯一日陰になるベンチに座って栄一郎を待った。5分もしないうちに、売店で弁当を買ってきた栄一郎がやって来た。

「ごめん待った?」

そう言いながら栄一郎は、冬に冷たい無糖のミルク入り缶コーヒーを渡した。

「良く覚えてたわね。」

冬は笑いながらそれを受け取ると、実は私もと、栄一郎が好きな無糖のコーヒーを渡した。

「考えることは同じだね。」

ふたりで笑った。

「さっ。時間が無いから食べながら話しましょう。」

小峠のことをかいつまんで話した。

「小峠先生は女ったらしで有名らしいね。」

栄一郎も苦笑いをした。

「うん。それでね…薬物の盗難に小峠先生が関わってるって話。絶対に誰にも言わないから教えて欲しいの。」

暫く栄一郎はじっと冬の顔を見ていた。

「なんで、君がそれを知ってるの?」

院内でも知っているのは極僅かな人間だ。

「そこは今、拘ることじゃないの。」

冬の口の堅さを知っている栄一郎は、それ以上深く聞いても無駄なことを知っていた。

「…判った。で…何が知りたいの?」

栄一郎は缶コーヒーを開け一口飲んで、菓子パンの封を切った。

「小峠先生が書いて処方した睡眠薬の数と、薬局で照らし合わせた数。主に外科病棟の患者ね。」

「うーん。それは院長に聞かれて調べたんだけど、その時の記録が無いんだよね。」

「えっ…でもそれって何年か保存しておくものじゃないの?」

座っているだけで、日陰でも汗がじわじわと出て来た。

「PCには入っていると思うけど膨大な数だよ?」

風が吹くたびに冬の淡い香水の香りが栄一郎の顔を撫でた。

「でも…外科で眠剤のオーダーが増えたのがいつ頃からかなら判るでしょう?」

…香水の香りも全く変わってないんだな。

栄一郎は、懐かしさで胸が熱くなった。

「うん。それは判ってる…5年前からだ。」

お互いに歳をとったと、冬を見ながら思っていた。

「盗難が多かった薬品名も判ってるんでしょう?」

冬の目じりには笑うと小さな皺が出来た。

「ああ。超短期型のトリアゾラムとゾピクロンだよ。」

「またわかり易い王道に手を出しちゃって…。」

今度は冬が苦笑する番だった。

「そこまで判ってるのに、なんで小峠先生の仕業だって判らないの?」

冬の弁当を覗き込んだ。昔付き合ってた時と変わらず、おいしそうだった。

「多分、他のひとのID使ってるんじゃないかと思うんだよね。例えば、外科医局長とか。」

冬は下を向いて考えて居た。

熱気を含んだ風が吹き、涼しさよりも、蒸し暑さがそのたびにますような気がした。

「うーん。」

栄一郎は腕を組んで考え込んだ。
どこかにパターンが絶対にある筈だと冬は思っていた。

「その時、外科と併科になってる脳外患者がいなきゃおかしいでしょう?やるとすれば、小峠先生が当直の時とか、他の医者に見つかりにくい時間…だよね?」

「どのくらい盗まれていた可能性があるの?」

「供述によると、2000錠ぐらいって言ってるけど実際にはもっとやってるんじゃないかな?他の病院でも余罪があるようだし…。」

最初からその目的で小峠と付き合ったのかも知れないと冬は思った。

「単純計算で3人分の患者の薬を処方し続けたら、3年で3000錠ちょっとになるよね?」

冬は頭の中で素早く計算をした。これは少なく見積もった数だったが、人数がこれよりも多ければ、必然的にその数も増える。

「そう…なるね。トーコの言う通り、どこのPCからオーダーしたのか、確認することが出来れば、おおよその数は判るかも知れない。薬物の納品書は、とってあるから照らし合わせれば判るかも知れないね。」

「悪いけど、メールで送ってくれない?それと何かあったら、これ院内携帯の番号。栄一郎さんの番号も教えて欲しいの。」

「ああ…でも物凄く時間が掛かると思うよ。」

「うん。時間が掛かっても良いの。寧ろ時間を掛けてじっくりやるわ。私も出来るだけ手伝うようにするから」

栄一郎は食べた菓子パンの空袋をくしゃくしゃと丸め、ポケットにしまった。

「で…何か俺に見返りはくれるの?」

栄一郎は、冬の大きな目をじっと見つめて真面目な顔で言った。

「えっ…。」

冬は驚き、戸惑いをあらわにした。

「じゃぁデートして貰おうかな。」

冬の顔を見続けていた。

「デート?!…そんなの…無理よ。」

冬は戸惑いながらも、はっきりと栄一郎の眼を見て答えた。またすぐ本気にするんだから、トーコは相変わらずだね、冗談だよと栄一郎は笑った。こんな条件を冬は飲むはずがないと判っていたのに、栄一郎は思わず聞いてしまった。

「俺じゃ無くて、俺の娘と…。」

「栄一郎さんの娘と?何で?」

「女の子だろ?それに色々難しい年頃でさ、母親が居ないし細かいコトとか判らないんだよね。」

栄一郎は少し照れながら言った。

「そう…それは構わない…けど。」

冬は答えたものの、栄一郎の離婚の原因が、自分にあった事を考えると、気安く了承して良いものかふと思った。

「娘さんがそれでOKするかしら?」


栄一郎は、何も答えず自分の院内番号をメモに書いている、丁度その時、小鳥遊がひょこりと階段から顔を出した。

「わっ。」

冬が驚いて声をあげた。

…どこから聞いていたのだろう。

冬も栄一郎も一瞬顔を見合わせた。

「あ…小鳥遊先生。」

栄一郎は、どうもと挨拶をしながら冬にメモを渡した。

「あっ…あの栄一郎さん…実は小鳥遊先生は私の夫なの。」

冬はどぎまぎしながら、栄一郎に告げた。

「えっ…もうひとりの…旦那さんって小鳥遊先生だったんだ。」

…どうしてこの男がそのことを知っているんだ?

小鳥遊はとても気になり、ちらりと冬を見た。今のところ院内で知っているのは、師長だけだ。

「月性さんが、石動さんと知り合いだなんて知らなかったよ。」

…この男は何者だろう。

「あっ…ええと石動さんは、あの…。」

小鳥遊が石動の顔を見ず、じっと冬を見つめているので、流石の冬も少々戸惑ってしまった。


「昔からの友人なんです。」

栄一郎がすかさず言った。

「そうですか。それはそれは、どうぞ妻を宜しくお願いしますね。」

小鳥遊はにこにこと笑っていたが、冬は後で根掘り葉掘り聞かれることになると思った。

「あの…それから、夫がふたりいることは、院内では、内緒なの。だから誰にも言わないでね。」

冬は慌てて付け加えた。

「ああ判ってるよ。じゃぁトーコ…娘のことは頼んだよ。また連絡する。」

栄一郎はゆっくりと立ち上がり、小鳥遊に会釈をすると、屋上を去った。

名前を呼び捨てで呼ばれドキドキしたが、小鳥遊は何も言わず、では…といって栄一郎を見送った。

「石動さんと、あなたがお知り合いだとは知りませんでした。」

小鳥遊は冬の隣に腰かけた。風に白衣の裾がひらひらと舞ってそのたびに日の光を反射して眩しかった。

「ええ。今日薬剤部へいってびっくりしたの。」

これ、少しぬるいけど飲む?石動さんに貰ったの…と言ってコーヒーを小鳥遊の傍に置いた。ふたつ並んだ同じ缶コーヒー。

…あ…まずい。

言った後から、冬は慌てた。好みを何で知っているのかと言われたらどうしようと内心焦ったが、鈍感な小鳥遊のことだ。気が付かないかも知れない。

「で…なんのお話ですか?」

少しぬるくなってしまった冬のコーヒーを小鳥遊は開けた。

…やっぱりそこに喰いつくよね。

冬はなるべく自然に伝えることが出来るように慎重に言った。

「石動さんは、女の子がいるんだけど、奥様とは離婚されいて、その娘さんの買い物に付き合って欲しいって言われたの。」

小鳥遊は射抜くような目でじっと冬を観察していた。これは嘘ではないのだから大丈夫。

「都合が良い時に電話してねって、院内番号を貰っただけよ。」

冬はほらっと言ってメモを小鳥遊に見せた。

「…そうだったんですね。」

小鳥遊は信じたようだった。

「それより、ガクさんはどうしたの?」

「一緒にお弁当を食べようと思って♪これからは、ずっと一緒にお弁当を食べたいです。」

小鳥遊は嬉しそうにお弁当の包みを見せた。

「じゃぁ。食べ終わるまで、ガクさんと一緒にいてあげる♪」

夫婦二人で堂々とお弁当を食べる日が来るなんて。小鳥遊が一緒に食べたがる気持ちは良く判った。

「そうだ。ガクさんここ数年の当直表って持ってる?」

大きな手で小さな弁当を持つ小鳥遊は何だか可愛らしかった。

「ええ。家に帰ればあると思いますよ。どうしてですか?」

白いご飯と梅干を美味しそうに頬張っていた小鳥遊の手が止まり、再び冬を観察するような眼でじっと見た。

「ちょっと調べたいことがあるの。」

…どうしよう…疑われないように気を逸らすには…。

冬は静かに微笑んで周りに誰も居ないことを確認すると、

――― チュッ。

冬が頬にキスをすると、
小鳥遊は顔をほころばせた。

「トーコさん…お昼休みはあとどれくらい残っていますか?」

あっという間に小鳥遊は食べ終わると、
立ち上がって冬の手を引いた。

「えっ…あと30分…かな。」

「霊安室傍のトイレへ行きましょう♪あそこなら涼しいし、誰も来ないから♪」

…えっ。

屋上から建物に入り、普段は人が殆ど通らない標本室や、カルテ保管庫を通り過ぎた。

「トーコさんやっぱり、スカートの方が良いですよ。すぐにできますから。」

「ちょっ…ちょっと…待ってよ!」

「あんまり気持ちよくしませんから。お願いします。」

ギュッと繋がれた手は、しっかりと掴んで離さず、大股の早歩きの小鳥遊に冬は小走りでついていかなければならなかった。

…しまった…エロ型MS3地雷を踏んじゃったのか?余計なことをするんじゃ無かった。

冬が後悔した時には、小鳥遊に多目的トイレの中に既に押し込まれた後だった。

🐈‍⬛♬*.:*¸¸

「よくのこのこと帰ってこれたものよね?それも自分の結婚式に元カレの今泉先生を呼びつけたんだよあの人。」

ロッカールームで冬が着替えていると、自分の噂話が聞こえてきた。看護師だけで500人以上は居る病院だ。ロッカーも何列にも連なって、シャワーや仮眠室、トイレに自動販売機まであった。

「ひっどーい。」

管理職になると奥を使えるようになるので、必然的に入り口から一番遠くのロッカーで冬は着替えていた。

「あの人と、小鳥遊先生は結婚したけど、裏で今泉先生と愛人関係続けてるって噂があったわよね?」

声からすると外科の看護師達のようだった。

「そうそう。あの人が留学だか何だか知らないけれど、アメリカに行った後、突然今泉先生も渡米だもの。」

ロッカールームのトイレでも大きな声で話を続けているので嫌でも耳に入ってしまう。

「小鳥遊先生はきっと知らないのよそんなこと。真面目だから。」

冬はこのようなことも承知で戻って来たつもりだった。今まで何も聞かされてなかったが、看護師はおしゃべり好きだし、病院のゴシップ好きだ。きっと小鳥遊や今泉にだって噂は届いていたに違いない。けれど、それを冬に言わずにいてくれたのだと今、気が付いた。

「でさー不思議なんだよね。産科の看護師から聞いたんだけどさ、あの人のお産の時にも今泉先生が付き添ってたって言ってたの。」

こうして陰で言われていることを直接聞くのは、やはり辛かった。

「小鳥遊先生も公認の仲じゃないの~。」

子供達のお迎えの時間が迫っていた。

「うわぁ~最低。」

冬は大きな深呼吸をしてロッカーの列から出て入口に向かった。

「私の友達なんて今泉先生のファンだったから、暫くショックで立ち直れなったんだよね。その子もう辞めちゃったけどさ。」

噂をしていた看護師達のロッカーの傍を通り過ぎるときに、
驚いている相手と目があった。

「お疲れさまでした。」

冬は何事も無かったかのように声を掛け、足早に病院の敷地内にある保育園へと向かった。


冬は淡々と仕事をこなした。小鳥遊の手術予定は相変わらず、びっしり入っていた。

「小鳥遊先生。●●さんの血圧高めで頂いたオーダーですけど、ちょっと下がりすぎです。」

ナースステーションのモニターの前に座った小鳥遊に、患者の血圧データーを見せた。

「ああ。それね…丁度見てたところです。本人の症状は無いんだよね?では…。」

ふたりは病棟の端で静かに話をしていた。

「…ねぇ。あのふたりってさ、言われなきゃ夫婦だなんて判らないよね?」

点滴の確認をしながら、同僚の榎木が言った。

「…トーコも公私混同しないタイプだけど、小鳥遊先生もそうだったんだね。」

隣で点滴のルートや針を準備しながら、看護師の友田が笑った。二人とも冬とは学生時代からの友人だった。独身時代は、務める病棟は別々だったが、仕事帰りに飲みに行ったり、同じ習い事をしていた。

新人が山口と廊下で回診車を押していくのを見ると冬はすかさず声を掛けた。

「あ…友田さん。悪いけど新人さんが処置に行ったみたいだから、付き添って貰っても良い?」

「オッケー。今行く♪…てか…何で山口先生は、新人と行くかね。」

友田は慌ててナースステーションを出た。

「榎木さん。●●さん16時からリハよね?私連れて行くけど、まだPC上、今日の記録が付いてないから聞くけど、今日は体調代わりないよね?」

冬は率先してチームの仕事を手伝った。

「あっ!忘れてた…うん助かる。熱も無いし血圧も大丈夫だった。」

榎木が時計を見て慌てた。

「判った。車いすの全介助よね。」

車いす置き場へと歩きながら、冬は再び聞いた。

「うん。」

「はーい判った。リハ室行ってきまーす。」

冬はステーションにいる看護師に声を掛けながら、患者を搬送した。

冬は殆ど休む暇も無く、動いていたが小鳥遊が病棟に居る時には、いつも冬の姿を眼で追っていた。




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