Blue Rose 2度目の恋 最後の愛

月胜 冬

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柔らかな光

giocoso

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「いらっしゃい♪先生今日はお早い…あ。同僚の先生も今日は御一緒なんですね。」

タエが隆と同僚の恩田を連れて店に入って来た。隆がちらりとピアノを見たが、そこには理紗の姿は無かった。

「ああ…理紗ちゃん?今日はえーっとどこだったかしら?どこかの交響楽団のオーディションに行ってくるとかで少し遅くなるみたい。」

隆に聞かれても居ないのに、タエは答えた。

「前から思ってたんだけど、わたしあの人どこかで見た事があるのよねぇ。」

同僚の恩田が考え込んだ。

「あの方のお名前は?」

「理紗ちゃん?苗字なんて言ってたっけ…。」

タエが水割りを作りながら自分の額をポンポンと手で叩きながら思い出そうとしていた。

宮子 理紗ミヤコ りささんだよ。」

隆がタエの代わりに答えた。

「宮子理紗っ?宮子理紗って…あの宮子理紗?」

「ちょ…恩田先生声が大きいですよ。」

恩田が大きな声を出したので、隆が窘めた。恩田はバッグからスマホを取り出し、ささっと検索をしてある記事を見せた。

「リサ・コンスタンティー二・ミヤコ。日本じゃ無名に近いけど、コアなファンは多いのよ。海外じゃ既に名前が知れてるわ。ピアニストの伏見真啓ふしみ まひろも認めた人。わたしね、伏見くんからリサのことを良く聞かされてたの。」

隆とタエが覗きこんだ。

「へぇ。先生は有名なピアニストとも知り合いだったんだね。」

隆は驚いた。

「ええ。伏見くんとは旧知の仲だったの。」

恩田が何かを思い出すように微笑んだ。

≪失声の美しい日本人ピアニストの失踪。指揮者で大学の恩師でもある夫イヴァン・コンスタンティー二氏や家族が依然としてピアニストのリサ・ミヤコ・コンスタンティーニさんの行方を捜している≫

夫婦揃っての写真が掲載されていた。

「あらっまぁっ!ホントだ。理紗ちゃんじゃなーい。」

タエまでもが大きな声をあげた。

写真の中の理紗は、ピアノの横に立ち、少し濃いめのメイクで、長い黒髪は大きく巻いていた。

真っ赤なマーメード・ドレスを優雅に着こなす理紗は、とても輝いていた。

隆は、暫くその写真を眺めていた。


――― カラーン♪


丁度その時、店の入り口のドアベルが鳴った。

(遅くなってすみません~!!)

理紗は慌てた様子でジェスチャーで拝む恰好をしながら入って来た。

「あっ。ちょっとっ!理紗ちゃん待って。」

タエが呼び止めた。

「リサ・ミヤコ・コンスタンティー二?!」

恩田が興奮した様子でスマホの記事を見せた。理紗の顔が一瞬で曇ったが慌ててメモを書いた。

(よく似てると言われるけれど違うわ。)

「もうちょっとお化粧を濃くして眼鏡を外したら、あなたじゃない?」

恩田が再び聞いた。理紗は静かに首を振った。

(人違いです…ちょっと着替えて来ます。)

そういって理紗は荷物を店の奥へと置きに行った。

「凄いのよ。リサのチケットは当日完売するし、そろそろ日本でも有名に…って時に交通事故にあって、その後も暫く体調を崩して療養生活をしてたけど、ある日、愛する夫の前から忽然と姿を消したんですって。」

店の奥でそれを聞いて居た理紗は上手く話を作ったものだと苦笑していた。

「あらぁ旦那さんも渋くて素敵な人ねぇ。コンダクターだったのね。」

「ええ。それも世界的に有名な指揮者でプレイボーイ。でも渋くて素敵よねぇ~。」

恩田が目を細めた。

「もともと悪戯が過ぎる人だったみたい。だけど、コンスタンティー二がリサのその美貌と音楽的な才能にほれ込んで猛烈なアタックをしたって話。」

…本当に理紗がそのピアニストなのだろうか?

隆はちらりと店の奥から出て来た理紗をみた。

「へぇ~。」

理紗の優しい音色が店内に響き始めた。少し前に流行った曲A Thousand Years、そしてJar of Heartsどちらもバラードだが、対極のような曲。

「この曲どちらも大好きなの♪」

アメリカ人の女性が彼氏と思われる男性と静かに話していた。

隆はいつもの様に、恩田を送った後、店に戻って来た。ふたりで一緒に帰る。それは暗黙の了解だった。

「理紗ちゃんお休みなさい。良い週末を♪」

タエがふたりの背中に声を掛けると、理紗は微笑んで隆が開けてくれた店のドアを出た。

金曜の夜は、この界隈はとても騒がしくなる。

(15日は米軍のお給料日なんですって。だからその週末はとても混むのよ。)

「そうなんだ。知らなかったよ。」

隆は理紗に寄り添って静かに歩いた。

「同じ歌手が歌うあのふたつの対照的な曲…理紗さんの境遇に近いのはどちらですか?」

隆が静かに聞いた。

(両方とも…わたしです。)

理紗は長い髪の毛をひとつにして、くるりと後ろで纏めた。まるで興奮したような蒸し暑い風が何度も吹いていた。

(今日もとても蒸し暑いわね。)

「アイスでも買って食べながら駅へ行こう。」

ふたりでコンビニに寄りアイスを買って食べながらゆっくりと駅までの遊歩道を歩いた。

(色んなアイスがあるのね。知らなかったわ。)

「アメリカには無いの?」

(日本ほど種類が無いのよ。)

理紗が笑うと、隆が自分の食べていたソーダ味のアイスを差し出した。

「食べてみる?」

理紗は端を少し齧り、自分のソフトクリームを差し出した。

「僕は、2人兄弟なんだけど、弟とお菓子を買うときは、必ず違うものを買ったんだ。そうすれば違う味が楽しめるだろ?って弟に言い聞かせて、買わせてた。」

(なんかそれちょっとズルいわね。)

「うん。僕もそう思う。」

終電も近いので、沢山の人が駅へと向かって歩いていた。夏休みに入り高校生と思われる若い子達も駅周辺で屯していた。

「あーっ♪隆ちゃーん♪」

生徒と思われる女の子達が隆に近づいて来た。

…隆ちゃん…。

理紗はくすくす笑うと、隆は慌てて生徒に言った。

「おい…教師に向かって隆ちゃんは無いだろ?」

カラフルでおしゃれな女の子達は、ジェリー・ビーンズの様にキラキラしており、とても可愛かった。

「うわぁ美人。」「ねっ彼女?彼女?」「もうぅ~隆ちゃんってば、女っ気無いからみんな心配してたんだよぉ。」「あたし恩田が彼女かと思ってたぁ。」「あははは。」

隆は女生徒達に圧倒されてタジタジだった。

「モデルさんですか?」

理紗は首を振り、ピアノを弾く真似をした。

「タイプライター?」「ピアノ?」「どう見たってピアノじゃん。あんたほんと頭悪いね。」「あははは~タイプライターとか無いから。」

会話を聞いて居るだけで理紗は楽しかった。

「もうっ。お前達良いから早く帰れ!宿題だってあるだろ?」

「はーい♪じゃあねぇ~隆ちゃん。」「またねぇ♪」

女生徒達はそう言いつつも、帰らずまたおしゃべりをしていた。

(可愛い子達ね。)

「大人を馬鹿にしてばかりで困りますよ。」

隆は頭を掻いた。

(彼女と間違えられちゃったら、恩田先生に怒られちゃいますね。)

「えっ?」

隆はびっくりした顔をした。

「いや…ち…違います!違います!恩田先生はただの同僚ですから。」

隆は理紗が勘違いしていると思い慌てて訂正した。

(あら…そうだったんですか。わたしはてっきり…。)

理紗は隆の慌てようにくすくすと笑った。

(隆さん素敵ですし恩田先生も綺麗な方だから、お似合いだと思ってたの。)

「いやいや…僕…彼女いないですから。」

駅に着くとすぐに電車がやって来た。大きな声で話す酔っ払いのサラリーマンなどで電車はいつもより少し混んでいた。隆も理紗も黙って隣に並んでいた。

ふたりが降りる駅のアナウンスが入り、混み合う入口へと向かう。押されてよろけた理紗を隆がさりげなく支えると理紗が済みませんと口を動かした。

――― プシューッ。

ドアが開き、ふたりは駅へ降り立った。改札を出て、商店街を抜けると、ふたりは反対方向へと別れる。

理紗は、ここで隆と別れるのが、なんと無く寂しかった。

(もし宜しければ、わたしの家で飲みなおしませんか?)

理紗はジェスチャーで伝えた。

「えっ?」

(ビールもご近所さんから頂いたお刺身もあるの。)

メモに書いて見せた。人妻の家にあがりこむのは如何なものかと思いつつも美しい理紗の誘いを断れなかった。

…下心が無いと言えば嘘になる。

いつもは、タイジが一緒なのでふたりっきりになったことが無かった。

「でも…。」

隆の戸惑った顔を見た理紗は慌てて手を振った。

(ごめんなさい。突然誘ったりして…夜も遅いですし…そうですよね。)

とうとう二人が別れるところまで歩いてきてしまった。

(じゃぁ…お休みなさい。)

理紗は会釈をすると、隆とは反対の方向へと歩いた。

「お休みなさい。」

理紗はもしかしたら勇気を持って自分に聞いて来たのかも知れない。

…いやそんなことは無い筈だ。

きっと社交辞令に違いない。隆は目まぐるしく色々なことを頭の中で考えながら、自分のマンションへと向かった。

…でも。

隆は慌てて理紗にメッセージを送った。

(やはり、お家へ伺っても宜しいですか?)

我ながら決断力が欠けると思いつつも返事を待った。

(丁度家に戻って来たところです。お疲れで無いようなら是非お越しください。)

隆は荷物を置き、シャワーを浴び汗ばんだ洋服を着替えて、途中コンビニに寄ってつまみを買い理紗の家へと向かった。




🐈‍⬛

玄関のベルを鳴らすとすぐに理紗が出て来た。部屋に入ると涼しく、小さな音でクラッシックが流れていた。

(どうぞ。)

「僕もつまみを買って来ました。」

気にしなくても良かったのにというそぶりを理紗は見せた。いつもはダイニングテーブルでタイジと勉強をしているが、今日はリビングへと案内された。

リビングの奥には真っ黒で大きなピアノが置かれていて、そこに座ると崖の向こう側に海が見えた。

昼間なら船の行き来が見えたが、今は怖いほどに真っ暗で、空に明るい月が出ていた。

「夜の海って怖く無いですか?」

ビールを持ってきた理紗に言った。

(そう?とっても幻想的で素敵だと思うわ。)

隆は理紗の生い立ちをどうしても聞きたくなった。

「あの…お話ししたく無ければ良いんですけれど、理紗さんは恩田先生が言ってたピアニストなんですか?」

今までタイジとふたりでピアノのレッスンに来たりしていたが、自分の話は良くするが一度も理紗のプライベートな事は聞いたことが無かった。


――― プシュッ。

理紗はビールをグラスに注ぎ隆に渡そうとしたが、僕はこのままでと言って、自分で缶を開けて飲んだ。

(ニュースってね、いつも本当のことを伝えているとは限らないのよ。)

理紗は寂しく微笑んだ。

「あなたの失踪したこと…ですか?」

理紗は答えずに、ガラス窓の外に広がる暗い海を見て,ポツリポツリと過去の出来事を話し出した。

(お人形のような生活はもう嫌になってしまったの。)

「あなたはまだ若いしここでやり直せば良いんです。」

自分よりも少し若い隆に言われて思わずくすくすと笑った。

「なんで笑うんですか?本当のことですよ?失敗したらやり直せば良い。」

隆の真面目な顔を見て、ごめんなさいと理紗は謝った。

(色々なことに疲れちゃったの。)

「だったら好きなだけ休めば良い。」

隆の熱の籠った眼差しは、理紗をドキドキさせた。

(人に決めて貰う人生では無くて、自分で決めたいと思ったの。)

「自分で決めて生きれば良い。僕が…僕がお手伝いしますから。」

隆は自分の言葉にハッとした。

「済みません。お手伝いなんて出過ぎた事を言ってしまって…。」

理紗は首を横にふり、憂いの篭る瞳で隆を見つめて、ありがとうと微笑んだ。

「日本は久しぶりだと言ってましたね?もしよろしければ…一緒に出掛けませんか?ってあの…この辺りなら案内出来ますし…その一緒にコンサートへ行ったりとか…。」

真っ赤な顔をしてあたふたしている隆を見て理紗はクスクスと笑った。

「な…夏休みなら…僕も…時間的に…余裕がありますし…あの…もし良かったらですけれど…。」

隆は自分の言葉を流し込むように、慌ててごくごくとビールを飲んだ。

(隆さんとデート嬉しいです…お願いします。)

理紗は優しい眼で隆を見つめた。

「デ…デート。」

隆はその言葉にドキドキしてしまった。

(私とデートはお嫌ですか?)

少し憂いを含んだ瞳の理紗が、隆の顔を覗き込んだ。

「いいえ!とんでもない。あなたとデート出来るなんて…光栄です。」

いつもは無口な隆だったが、酒が入り陽気にしゃべり、理紗を笑わせた。

理紗がリラックスしているのを見ると、隆も嬉しかった。この屋敷の中だけが、理紗が心が休まる場所なのかも知れないと隆は思った。




🐈‍⬛

数日後

――― ピンポーン。

玄関のチャイムが鳴った。タイジにピアノのレッスンをしているところだった。

(誰かしら?ちょっと待っててね。)

譜面のここからここまで練習しててとジェスチャーでタイジに伝えると、玄関へと向かった。

「やあ 理紗。」

にこにこと微笑みながら立っていたのは、学院で一緒に過ごした友人でもありライバルでもあった男性だった。

真啓まひろ!!)

理紗は溢れる涙を拭きもせずに笑顔を見せた。

「久しぶりだね。元気だったかい?」

真啓は理紗にそっと近づいて、ハグをした。身長差のあるハグは何度しても奇妙だった。理紗は慌ててペンを走らせた。

(どうしてここが判ったの?)

「恩田さんから、連絡を貰ったんだよ。理紗に間違いないって。」

真啓はにこにこしながら、恩田が送った動画を見せた。バーでピアノを弾いている理紗の姿だった。

「心配してたんだ。なんで僕に連絡をくれなかったの?水臭い。」

真啓も理紗と同じく将来を期待されたピアニストだった。コンクールでは、真啓と1・2位をいつも争う良きライバルだった。

彼は医学部を卒業後、医師になった。そして日本でも世界でも知られるピアニストにもなった。理沙は、真啓を見るたびに天は二物を与えるんだと思った。

「君が事故にあったと聞いて、すぐに連絡を取ったんだけど、コンスタンティー二教授は、療養中だと言うばかりで…心配して居たら、失踪事件でしょ?本当に驚いたよ。君が日本に帰って来てるなんて。本当に良かった。」

真啓まひろは再び理紗を抱きしめた。

「生徒さんかい?」

理紗は真啓に紅茶を出した。
タイジは言われた通り、練習していた。

(ええ。)

「耳が良いんだね。」

洩れていた音を聞いて真啓が言った。

(あなたみたいでしょ?)

理紗が笑い、タイジを真啓の前に連れて来た。

(有名なピアニストの伏見 真啓ふしみ まひろさんよ。)

「あぁ!いっつも理紗が聞いてるCDの人だ。でけぇ…。」

タイジは190cmはありそうな大きな真啓を仰ぎ見た。

真啓がこんにちはと言って大きな手を差し出したのでタイジは、握手をした。

「すげぇ…手も…でけぇ。」

タイジは、真啓まひろの手を眺めて言った。真啓がタイジの顔の前に手を翳すとすっぽりと包まれてしまうぐらい大きかった。

「君はピアノが好きなんだね?」

「うん。なんか弾いてくれる?」

タイジが真啓に人懐っこく言ったので、理紗が慌てて止めた。

「良いよ。何が良い?」

理紗に大丈夫だよと真啓は笑い、麻のジャケットを脱いだ。

「うーんとね…。」

---♩

タイジが鼻歌を歌った。

「ああ判ったよ。」

真啓はベートーベンのピアノソナタ第3番 ハ長調第1楽章を弾きながらこれでしょう?とタイジに向かって微笑んだ。

「それだ!それそれっ。」

10分ちょっとの曲を、ピアノを弾く真啓のすぐ傍でタイジは食い入るように、その演奏を見ていた。

弾き終わるとタイジは訝し気な顔をしていた。

(どうしたの?)

「なんか僕が聞いたのと1ヶ所違うとこがあった。」

真啓と理紗が顔を見合わせた。

「凄いねタイジくん。僕1ヶ所間違えちゃった。」

真啓が大きな手でタイジの頭を撫でた。

「そっかぁ~♪ピアニストでも間違うのかぁ。面白いね。」

真啓は困った顔をしたが、理沙はクスクスと笑った。

「僕も早く上手に弾けるようになりたいなぁ。」

理紗がタイジと真啓の写真を撮った。

「うん。練習すればきっとなれるよ。」

僕も撮って貰おうかなと、真啓が自分の携帯をタイジに渡して理紗と一緒に撮った。

タイジは壁掛け時計をちらりと見た。

「あっ…いけねっ…僕、友達と遊ぶ約束してるんだった。」

バッグの中に譜面を押し込み慌てて出て行った。

「じゃあね。理紗センセ、おじさんありがとう。バイバーイ。」

真啓が、え?僕のこと?と自分の事を指差した。

「おじさんって…言われたの…初めてだ。」

真啓が困った様に頭を掻いたので、
理紗はお腹を抱えて笑った。

「元気そうで良かったよ。」

真啓は優しい目で理紗を見つめた。学生時代からずっと理紗は真啓の事が好きだった。

その長く切ない秘めた恋は、片思いのまま終わり、お互いに別々の人と結婚した。


「君のピアノをもっと多くの人達にも聞いて貰いたいと僕は思ってる。」

理紗は俯いた。真啓は紅茶を口にした。

「その時にはぜひ僕に手伝わせて欲しい。」

真啓の大きな手に、ティーカップは似合わなかった。

(ええ。いつかそうしたいと思ってるわ。)

「コンスタンティー二教授と何があったのか判らないけれど、きちんと知らせた方が良いと思う。」

――― ガシャンッ。

理紗は乱暴にティーカップを置いた。驚いた真啓は一瞬動きを止めた。

(お願い…あの人には知らせないで。)

「でも…教授は君をとても心配して…酷い有様だよ。」

…酷い有様?

(交通事故なんかじゃないの…。)

「えっ?」

(わたしはコンサートの帰りに…。)

理紗の手は、震えていた。

(イヴァンが指揮をしたあの夜…。)

尋常じゃ無い様子に、真啓思わずソファーから立ち上がり、理紗の隣に座った。

「理紗。」

(大丈夫…私は大丈夫…。)

理紗は何度も自分に言い聞かせ、大きくひとつ深呼吸をした。

(複数人にレイプされたの。)

真啓の眼が理紗の口唇を読み取り、
大きく見開かれた。

「そんな…。」

(コンサートホールから遠くない場所で…。)

あの時の事を思い出すだけで節々が痛み、凍えるような寒気に襲われた。

(イヴァンに助けを求めに戻ったら…あの人…女と一緒に居たのよ。)

真啓は何も言えなかった。

(妊娠して…家に軟禁されてたの。ずっと。)

ぶるぶると震え出した両手を隠す様に理紗は擦った。

「理紗…何で早く教えてくれなかったの?」

(友人とも連絡を取らないように見張られてたの。)

安定剤や眠剤を飲まされて、まるで廃人のような生活をしていたことを真啓に打ち明けた。

「なんてことだ。」

真啓は大きな目に涙を溜めていた。自分のライバルだと思っているピアニストにこんな酷い事が起こっていたのに、気が付かなかったことを悔やんだ。

(子供も堕ろそうとしたけれどさせてくれなかった。)

「君は…君は…教授の妻じゃないか!教授はどうしてそんな酷いことが君に出来るんだ。」

今まで一度も怒ったところを見た事が無い真啓が怒りで震えていた。


(子供は死産だと言われたけれど、あの人の子供では無くて…どこかに里子に出されたの。)


「それはいつの話だい?」

(事件が起こったのは、結婚式の2ヶ月前よ。妊娠が判ったのは、結婚してすぐだったの。)

「…。」

真啓はそれ以上聞けなかった。

(だから…お願い。あの人には言わないで?お願いします。アメリカにはもう戻らない。)

理紗は泣きながら手で顔を覆い、必死に頭を下げた。

「理紗…そんなこと止めて。そんな酷いことを聞いて僕が、教授に君の事を言うと思うかい?」

理紗は大きな眼で真啓を見つめた。

「約束するよ。教授には言わない。」

(ありがとう…。)

「でも…これだけは忘れないで?僕のライバルは君だけだ。僕は待ってる…だから絶対に戻って来て欲しい。」

真啓は大きな手で、震える理紗の両手をしっかりと握った。

(うん。)

「僕が出来ることであれば、協力するから連絡を頂戴?いいね?」

理紗はこくりと頷いた。

「いいね?必ずだよ?」

真啓は、何度も念を押した。

そして今度は自宅に遊びに来て欲しいと優しく笑った。自分のことを忘れないで待っていてくれた人がいた事を、知れただけで理紗は嬉しかった。

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