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消えた苦悩
夢なら覚めるはず
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「…危ないっ!!」
隆が学校に置きっぱなしだった車で、屋敷まで帰って来ると、近所に住む漁師のタスクが突然家から飛び出してきた。
慌ててブレーキを踏み、文句を言おうと窓を開けた瞬間、タスクが早口で隆に言った。
「大変だよ。理紗さんが病院へ運ばれたんだ。早く行け!この辺で見た事無いガイジン野郎が理紗さんと一緒に病院へついてったんだ。旦那だって言ってた。」
…外国人?
隆はタスクに教えて貰った病院へと駆けつけた。
命に別状は無いと聞いたが、一瞬でも早く理紗の顔がみたかった。
受付で病室を聞き急いで部屋へ行くと、男性ふたりが待合室に座っていた。
その中のひとりの男性の顔に、見覚えがあった。
…コンスタンティー二!理紗の夫だ。
その前を通り過ぎ、ナースステーションに声を掛けた。
「お薬を使って今は寝ていらっしゃいます…どうぞ。」
看護師が理紗の部屋へと案内をした。ベッドに横たわる理紗には酸素マスクや、点滴、心電図などが付いていた。
「旦那さんのことが…判らなくてパニックになって、あなたのことを呼んで欲しいとずっといってらっしゃったんですよ。」
看護師が薄暗い部屋の中で点滴を確認しながら小さな声で隆に言った。
「後で先生からお話があると思います。」
失礼しますと看護師は病室から出て行った。理紗は顔色が悪く、呼吸をするたびに、ヒューヒューと音がしていた。理紗の手にそっと触れると温かくホッとした。
病室を静かに出ると、イヴァンの所へ向かい、つかつかと近寄ると、通訳が隆に自己紹介をした。
「僕は理紗の内縁の夫です。あなたは、理紗の旦那さんですね。一体何があったんですか?」
通訳は隆の一言一句を省略せずにイヴァンに伝えた。
「崖から飛び降りたんだ。」
医師が隆とイヴァンが話しているのを見つけ、隆に声を掛けた。
「お話し中、ちょっと宜しいですか?」
医師は、隆を連れ出した。
「少し気になる事がありまして…。」
医師はとても言い難そうに言葉を切った。
「こちらに搬送された時に,奥様の着衣の乱れがありまして。処置をするので、くまなく調べたのですが…裂傷が…それ程酷いわけではありませんが、警察に届を出した方が…。」
医師のその言葉を全て聞かないうちに、隆はイヴァンの元へとつかつかと歩いていた。
「理紗に何をしたんだ!あなたは有名な指揮者かも知れないが、最低のクズ野郎だ。」
隆は怒りに打ち震えていた。医師が慌てて追いかけて来て二人を止めようとしたが、隆は大丈夫ですからと医師に毅然とした態度で言った。
イヴァンは通訳の言葉にも何も返さず、ただ隆をじっと見つめていた。
「暴行された形跡があるそうだ。あなたもこれ以上事を荒立てたく無いでしょう?理紗を自由にしてやってください。」
隆はイヴァンを殴りつけたい気持ちで一杯だったが必死に堪えていた。
「理紗はわたしの妻だ。わたしの妻に不貞を働いたのは君じゃないか。」
イヴァンは隆を睨んだ。
「理紗からあなたの事は全て聞いてるんだ。女癖が悪かったことも、事件のことも…理紗は離婚を望んでる。サインをしないのはあなたじゃないかっ!!」
隆は感情が高ぶり怒鳴り散らしてしまいそうなのを必死に堪えた。
「君には判らないかも知れないが、わたしは理紗を愛しているんだ。私達夫婦のことに関わらないでくれ。」
イヴァンも苛立ちを隠さなかった。
「このまま帰って下さい。あなたが沢山の女性と不貞を働いていたこと、今回のレイプだって証拠はあるんだ。」
イヴァンは隆を睨んだ。
「彼女はわたしの妻だ。連れて帰るんだ!もう関わるな!」
間に入った通訳も一触即発の雰囲気にオロオロしていた。
「あなたこそ僕と理紗に関わって欲しく無い。これ以上しつこいようだと、警察を呼びますよ?」
イヴァンの眼には隆に対する怒りが込められていた。
「それに、こんなスキャンダラスな事を、世間に知られたく無いですよね?強姦をされた妻を監禁して、望まない妊娠なのに、出産迄させて、自分の子供じゃ無いからと、理紗には、死産だったと説明し、里子に出した。その後も、あなたは彼女労るどころか、屋敷に女を連れ込んで…。」
通訳は、オロオロしながらも必死で説明していたが、それを聞くとイヴァンは気まずそうな顔をした。
「もう二度と理紗に会わないと約束して下さい。出来なければ、僕は、最もダメージがある手段で、あなたの名声を傷つけることだって出来るんです。」
隆は一歩も譲らなかった。
イヴァンは、イライラを隠せず隆のことを罵ったが、通訳は黙っていた。
「コンスタンティー二さん。理紗の前に現れないと約束して下さい。そして、あなたがするべき離婚手続きを1日も早くして下さい。」
通訳とイヴァンは早口で何かを話していた。
「今ここで約束して下さいっ!!」
通訳はイヴァンに伝えるとボソボソと小さな声で通訳に何かを話すと、席を立ち暗い廊下をエレベーターホールの方へと歩いて行った。
「…判った…と彼は言ってます。」
イヴァンの代わりに通訳がはっきりと隆に伝え、慌ててイヴァンを追いかけた。
「理紗は、僕の命に変えても守ります。」
隆は通訳に一礼すると、イヴァンの背中に向けて言い、そして理紗の主治医の元へと戻った。
🐈⬛
――― 朝。
理紗が目を覚ますと、隆がベッドの傍で手を握ったまま眠っていた。
「隆さん?」
その声に隆はハッと目を開けた。
「大丈夫かい?話せるようになったんだね。」
隆は理紗を抱きしめた。
「隆さん…愛してるわ。愛してる…。あなたのことを愛してる。」
理紗は隆に涙を流しながら何度も囁いた。
「僕もだよ。」
隆の眼には涙が溜まっていた。
「約束したでしょう?」
隆は涙を拭った。
「約束?」
「話せるようになったら、一番にあなたに愛してるって伝えたかったの。」
理紗は隆の頬を優しく撫でた。
「そうだったね…。どこか辛いところはある?大丈夫?」
「ええ…。ちょっと胸が苦しいぐらい。昨日は、知らない方が、わたしの夫だなんて言うので怖かったわ。」
ゴホゴホと咳をしながら、理紗が言った。医師から記憶喪失があると説明を受けていた。
「僕の事は覚えているんだね。」
「嫌だ…隆さん。おかしなこと言わないで。忘れるわけが無いでしょう?」
理紗が微笑んだ。
「あなたは、その男性とは一度も面識は無いの?」
隆は理紗の様子をじっと伺っていた。
「ええ。初めて会った人なの。目が覚めたら、急に抱き付かれて…怖かったわ。」
隆は少し考えてから理紗に言った。
「そう…何か行き違いか勘違いがあったのかもしれないね。もう大丈夫だよ。」
苦しい言い訳だったが、隆にはそれ以上の言葉が思い浮かばなかった。
「今日学校は?お仕事あるんでしょう?」
理紗は話すたびに、小さな咳をした。
「ああ。休ませて貰ったよ。」
隆は理紗の背中を優しく撫でて手にキスをした。指輪がキラキラと光っていた。
「ごめんなさい…。」
「昨日は何があったの?」
隆は静かに聞いた。
「それが…お昼過ぎからの記憶が無いの。お昼ご飯を食べたことまでは覚えているんだけれど…その先を思い出そうとすると、酷い頭痛がしてくるの。」
理紗はそう言いつつ、また痛み出したこめかみを両手で押さえた。
「良いよ…無理しなくて…少しゆっくり休もう。」
理紗の身体からは、潮の香りと薬品の香りがした。
「あ…でも今日はピアノのお稽古が…。」
午後から生徒が来ることになっていたのを思い出し理紗は慌てた。
「僕が連絡をしておくよ。」
「ありがとう。」
隆は理紗の手をぎゅっと握った。
「選択的な…記憶喪失…ですね。」
理紗に話す前に、精神科医と隆は話をしていた。理紗は肺炎を起こし、暫く入院が必要となった。
「主治医の先生にお聞きしたところによると、前夫さんの事をすっかり忘れているみたいですね。」
「ええ…。」
理紗を刺激しないように話を聞くと、イヴァンに関する全ての記憶が抜け落ちていた。数カ月の結婚生活、学院でイヴァンに指導を受けたこと、そしてレイプのこと。
「宮子さんにとっては、忘れたい過去だったのかも知れません。」
「時間が経てば、記憶が戻ることもあるんでしょうか?」
「脳の機能的には問題は無いので、精神的なものだと思います。戻ることもありますが、一生戻らないときもありますし、部分的に思い出すこともあります。」
理紗にとって都合の悪いことなら忘れたままで良いと隆は思った。
「無理に思い出させようとしないで、気長に見守ってあげて下さい。記憶喪失の患者さんの中には、無理に思い出そうとすると酷い頭痛や、眩暈吐き気を訴える患者さんも居ます。」
隆は前夫との間にあった様々な出来事を医師に話した。
「そうですね…思い出さない方が彼女の為には良いかも知れませんね。ご家族のサポートが必要ですが、無理は禁物です。」
「僕は…出来れば彼女自身に過去のことを思い出して欲しく無いです。彼女を苦しめるだけでしょうから。僕が彼女を守ります。」
レイプや、軟禁結婚生活、妊娠、そして再び元夫からのレイプに自殺未遂。コンスタンティー二が関わったことを理紗が全て忘れてくれているのなら、その方が理紗の為になると隆は思った。
…真実を知って不幸になるより、知らずに過ごした方が幸せだ。
「しかし、もしも思い出してしまった時のことをきちんと考えて置けなければいけませんよ?その時には、酷いショックを受けるかも知れませんし、真実を教えなかったあなたを恨むかも知れません。」
「…。」
隆は、診察室の淡いクリーム色をしたリノリウムの床を静かに見つめたまま考えて居た。
「少なくとも、今は精神的に不安定な状態なので、真実を話すべき時ではないのは確かです。」
「僕はやはり、辛い過去を思い出して欲しくはありません。」
隆は主治医にきっぱりと言い切った。
「判りました。では、こちらからも過去の事については、聞かれても触れないようにします。スタッフにも伝えておきます。」
隆と医師の面談は終わった。その後、理紗も含めて3人で今後についての話をした。理紗は入院中にカウンセリングを受けたが、記憶が戻ることは無かった。
浜辺を散歩中に虚血発作を起こした…理紗への説明はそれで通すことにした。
隆は理紗が退院前に、タスクの元へと向かった。船を出して理紗を救ってくれたタスクには、記憶を失ってしまったことなどを説明した。レイプなどの話はせずに、夫とのいざこざがあったことなど掻い摘んで説明した。
「そうか…先生も大変だったな。理紗さんが無事でよかった。」
普段は無口で武骨なタスクが、優しい笑顔を浮かべた。
…タスクに説明をしておけば、近所に上手く言ってくれるだろう。
「近所には俺から説明しておくから心配するな。」
タスクのお陰で近所に説明する手間が省けた。理紗が退院するまでに、しておくことは色々あった。伏見や音楽事務所への説明,離婚手続きを弁護士に確認したりなど、理紗が居ない間に全てを終わらせなければならなかった。
「ねぇ。たまには食事でもしましょう。」
仕事終わりに恩田に誘われた。ふたりで、ファミリーレストランへと入った。
「理紗さん大変だったんですってね?」
恩田はどうやらBarTaeで一人で飲んでいるようで、詳細をバーのママ、タエから聞いたようだった。
「ええ。今はやっと落ち着きました。」
「コンスタンティー二が来たんでしょう?会いたかったわ~♪」
理紗とイヴァンのことを何も知らない恩田は言った。
「…。」
「海辺で元旦那さんに倒れてるところを助けて貰えるなんて凄い偶然よねぇ。あの人に意地悪をして,コンスタンティーニに連絡しちゃったけど、結果的には良かったって事よね。」
「えっ…。」
隆は恩田の顔を見た。
「あなたに振られた夜、酔ってた勢いもあってコンスタンティー二にメールを送って理紗の居場所を知らせたの。」
隆はとても動揺していたし、苛立ちを感じた。
「恩田先生。」
「…でも…それで助けて貰えたんですもの。」
恩田はチキンサラダを食べながら笑った。
「あなたが…コンスタンティー二に知らせたんですね。あなたのせいで…理紗が…。」
怒りに打ち震える隆に恩田は驚いた。
「…何故あなたは理紗のことをそっとしておいてくれなかったんですか?」
恩田は隆の怒り様に驚いた。
「あなたが人妻に現を抜かしているのに腹が立ったのよ。」
恩田は悪びれずに言った。確かに恩田は、理紗とイヴァンの関係についての真実を知らない。けれど、あれだけそっとしておいてほしいと言ったのにも関わらず、イヴァンに連絡をした恩田が許せなかった。
「余計な詮索は止めて頂きたいんです。」
怒りを押し殺した声で、隆は恩田に言った。
「帯原…先生?」
腹いせにしたつもりが、結果的には良かったと思っていた恩田にとって、隆の怒りの理由が分からなかった。
「失礼します。」
隆は、テーブルにお金を置くと、恩田を置いてそのままレストランを出てしまった。
隆が学校に置きっぱなしだった車で、屋敷まで帰って来ると、近所に住む漁師のタスクが突然家から飛び出してきた。
慌ててブレーキを踏み、文句を言おうと窓を開けた瞬間、タスクが早口で隆に言った。
「大変だよ。理紗さんが病院へ運ばれたんだ。早く行け!この辺で見た事無いガイジン野郎が理紗さんと一緒に病院へついてったんだ。旦那だって言ってた。」
…外国人?
隆はタスクに教えて貰った病院へと駆けつけた。
命に別状は無いと聞いたが、一瞬でも早く理紗の顔がみたかった。
受付で病室を聞き急いで部屋へ行くと、男性ふたりが待合室に座っていた。
その中のひとりの男性の顔に、見覚えがあった。
…コンスタンティー二!理紗の夫だ。
その前を通り過ぎ、ナースステーションに声を掛けた。
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看護師が理紗の部屋へと案内をした。ベッドに横たわる理紗には酸素マスクや、点滴、心電図などが付いていた。
「旦那さんのことが…判らなくてパニックになって、あなたのことを呼んで欲しいとずっといってらっしゃったんですよ。」
看護師が薄暗い部屋の中で点滴を確認しながら小さな声で隆に言った。
「後で先生からお話があると思います。」
失礼しますと看護師は病室から出て行った。理紗は顔色が悪く、呼吸をするたびに、ヒューヒューと音がしていた。理紗の手にそっと触れると温かくホッとした。
病室を静かに出ると、イヴァンの所へ向かい、つかつかと近寄ると、通訳が隆に自己紹介をした。
「僕は理紗の内縁の夫です。あなたは、理紗の旦那さんですね。一体何があったんですか?」
通訳は隆の一言一句を省略せずにイヴァンに伝えた。
「崖から飛び降りたんだ。」
医師が隆とイヴァンが話しているのを見つけ、隆に声を掛けた。
「お話し中、ちょっと宜しいですか?」
医師は、隆を連れ出した。
「少し気になる事がありまして…。」
医師はとても言い難そうに言葉を切った。
「こちらに搬送された時に,奥様の着衣の乱れがありまして。処置をするので、くまなく調べたのですが…裂傷が…それ程酷いわけではありませんが、警察に届を出した方が…。」
医師のその言葉を全て聞かないうちに、隆はイヴァンの元へとつかつかと歩いていた。
「理紗に何をしたんだ!あなたは有名な指揮者かも知れないが、最低のクズ野郎だ。」
隆は怒りに打ち震えていた。医師が慌てて追いかけて来て二人を止めようとしたが、隆は大丈夫ですからと医師に毅然とした態度で言った。
イヴァンは通訳の言葉にも何も返さず、ただ隆をじっと見つめていた。
「暴行された形跡があるそうだ。あなたもこれ以上事を荒立てたく無いでしょう?理紗を自由にしてやってください。」
隆はイヴァンを殴りつけたい気持ちで一杯だったが必死に堪えていた。
「理紗はわたしの妻だ。わたしの妻に不貞を働いたのは君じゃないか。」
イヴァンは隆を睨んだ。
「理紗からあなたの事は全て聞いてるんだ。女癖が悪かったことも、事件のことも…理紗は離婚を望んでる。サインをしないのはあなたじゃないかっ!!」
隆は感情が高ぶり怒鳴り散らしてしまいそうなのを必死に堪えた。
「君には判らないかも知れないが、わたしは理紗を愛しているんだ。私達夫婦のことに関わらないでくれ。」
イヴァンも苛立ちを隠さなかった。
「このまま帰って下さい。あなたが沢山の女性と不貞を働いていたこと、今回のレイプだって証拠はあるんだ。」
イヴァンは隆を睨んだ。
「彼女はわたしの妻だ。連れて帰るんだ!もう関わるな!」
間に入った通訳も一触即発の雰囲気にオロオロしていた。
「あなたこそ僕と理紗に関わって欲しく無い。これ以上しつこいようだと、警察を呼びますよ?」
イヴァンの眼には隆に対する怒りが込められていた。
「それに、こんなスキャンダラスな事を、世間に知られたく無いですよね?強姦をされた妻を監禁して、望まない妊娠なのに、出産迄させて、自分の子供じゃ無いからと、理紗には、死産だったと説明し、里子に出した。その後も、あなたは彼女労るどころか、屋敷に女を連れ込んで…。」
通訳は、オロオロしながらも必死で説明していたが、それを聞くとイヴァンは気まずそうな顔をした。
「もう二度と理紗に会わないと約束して下さい。出来なければ、僕は、最もダメージがある手段で、あなたの名声を傷つけることだって出来るんです。」
隆は一歩も譲らなかった。
イヴァンは、イライラを隠せず隆のことを罵ったが、通訳は黙っていた。
「コンスタンティー二さん。理紗の前に現れないと約束して下さい。そして、あなたがするべき離婚手続きを1日も早くして下さい。」
通訳とイヴァンは早口で何かを話していた。
「今ここで約束して下さいっ!!」
通訳はイヴァンに伝えるとボソボソと小さな声で通訳に何かを話すと、席を立ち暗い廊下をエレベーターホールの方へと歩いて行った。
「…判った…と彼は言ってます。」
イヴァンの代わりに通訳がはっきりと隆に伝え、慌ててイヴァンを追いかけた。
「理紗は、僕の命に変えても守ります。」
隆は通訳に一礼すると、イヴァンの背中に向けて言い、そして理紗の主治医の元へと戻った。
🐈⬛
――― 朝。
理紗が目を覚ますと、隆がベッドの傍で手を握ったまま眠っていた。
「隆さん?」
その声に隆はハッと目を開けた。
「大丈夫かい?話せるようになったんだね。」
隆は理紗を抱きしめた。
「隆さん…愛してるわ。愛してる…。あなたのことを愛してる。」
理紗は隆に涙を流しながら何度も囁いた。
「僕もだよ。」
隆の眼には涙が溜まっていた。
「約束したでしょう?」
隆は涙を拭った。
「約束?」
「話せるようになったら、一番にあなたに愛してるって伝えたかったの。」
理紗は隆の頬を優しく撫でた。
「そうだったね…。どこか辛いところはある?大丈夫?」
「ええ…。ちょっと胸が苦しいぐらい。昨日は、知らない方が、わたしの夫だなんて言うので怖かったわ。」
ゴホゴホと咳をしながら、理紗が言った。医師から記憶喪失があると説明を受けていた。
「僕の事は覚えているんだね。」
「嫌だ…隆さん。おかしなこと言わないで。忘れるわけが無いでしょう?」
理紗が微笑んだ。
「あなたは、その男性とは一度も面識は無いの?」
隆は理紗の様子をじっと伺っていた。
「ええ。初めて会った人なの。目が覚めたら、急に抱き付かれて…怖かったわ。」
隆は少し考えてから理紗に言った。
「そう…何か行き違いか勘違いがあったのかもしれないね。もう大丈夫だよ。」
苦しい言い訳だったが、隆にはそれ以上の言葉が思い浮かばなかった。
「今日学校は?お仕事あるんでしょう?」
理紗は話すたびに、小さな咳をした。
「ああ。休ませて貰ったよ。」
隆は理紗の背中を優しく撫でて手にキスをした。指輪がキラキラと光っていた。
「ごめんなさい…。」
「昨日は何があったの?」
隆は静かに聞いた。
「それが…お昼過ぎからの記憶が無いの。お昼ご飯を食べたことまでは覚えているんだけれど…その先を思い出そうとすると、酷い頭痛がしてくるの。」
理紗はそう言いつつ、また痛み出したこめかみを両手で押さえた。
「良いよ…無理しなくて…少しゆっくり休もう。」
理紗の身体からは、潮の香りと薬品の香りがした。
「あ…でも今日はピアノのお稽古が…。」
午後から生徒が来ることになっていたのを思い出し理紗は慌てた。
「僕が連絡をしておくよ。」
「ありがとう。」
隆は理紗の手をぎゅっと握った。
「選択的な…記憶喪失…ですね。」
理紗に話す前に、精神科医と隆は話をしていた。理紗は肺炎を起こし、暫く入院が必要となった。
「主治医の先生にお聞きしたところによると、前夫さんの事をすっかり忘れているみたいですね。」
「ええ…。」
理紗を刺激しないように話を聞くと、イヴァンに関する全ての記憶が抜け落ちていた。数カ月の結婚生活、学院でイヴァンに指導を受けたこと、そしてレイプのこと。
「宮子さんにとっては、忘れたい過去だったのかも知れません。」
「時間が経てば、記憶が戻ることもあるんでしょうか?」
「脳の機能的には問題は無いので、精神的なものだと思います。戻ることもありますが、一生戻らないときもありますし、部分的に思い出すこともあります。」
理紗にとって都合の悪いことなら忘れたままで良いと隆は思った。
「無理に思い出させようとしないで、気長に見守ってあげて下さい。記憶喪失の患者さんの中には、無理に思い出そうとすると酷い頭痛や、眩暈吐き気を訴える患者さんも居ます。」
隆は前夫との間にあった様々な出来事を医師に話した。
「そうですね…思い出さない方が彼女の為には良いかも知れませんね。ご家族のサポートが必要ですが、無理は禁物です。」
「僕は…出来れば彼女自身に過去のことを思い出して欲しく無いです。彼女を苦しめるだけでしょうから。僕が彼女を守ります。」
レイプや、軟禁結婚生活、妊娠、そして再び元夫からのレイプに自殺未遂。コンスタンティー二が関わったことを理紗が全て忘れてくれているのなら、その方が理紗の為になると隆は思った。
…真実を知って不幸になるより、知らずに過ごした方が幸せだ。
「しかし、もしも思い出してしまった時のことをきちんと考えて置けなければいけませんよ?その時には、酷いショックを受けるかも知れませんし、真実を教えなかったあなたを恨むかも知れません。」
「…。」
隆は、診察室の淡いクリーム色をしたリノリウムの床を静かに見つめたまま考えて居た。
「少なくとも、今は精神的に不安定な状態なので、真実を話すべき時ではないのは確かです。」
「僕はやはり、辛い過去を思い出して欲しくはありません。」
隆は主治医にきっぱりと言い切った。
「判りました。では、こちらからも過去の事については、聞かれても触れないようにします。スタッフにも伝えておきます。」
隆と医師の面談は終わった。その後、理紗も含めて3人で今後についての話をした。理紗は入院中にカウンセリングを受けたが、記憶が戻ることは無かった。
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理紗とイヴァンのことを何も知らない恩田は言った。
「…。」
「海辺で元旦那さんに倒れてるところを助けて貰えるなんて凄い偶然よねぇ。あの人に意地悪をして,コンスタンティーニに連絡しちゃったけど、結果的には良かったって事よね。」
「えっ…。」
隆は恩田の顔を見た。
「あなたに振られた夜、酔ってた勢いもあってコンスタンティー二にメールを送って理紗の居場所を知らせたの。」
隆はとても動揺していたし、苛立ちを感じた。
「恩田先生。」
「…でも…それで助けて貰えたんですもの。」
恩田はチキンサラダを食べながら笑った。
「あなたが…コンスタンティー二に知らせたんですね。あなたのせいで…理紗が…。」
怒りに打ち震える隆に恩田は驚いた。
「…何故あなたは理紗のことをそっとしておいてくれなかったんですか?」
恩田は隆の怒り様に驚いた。
「あなたが人妻に現を抜かしているのに腹が立ったのよ。」
恩田は悪びれずに言った。確かに恩田は、理紗とイヴァンの関係についての真実を知らない。けれど、あれだけそっとしておいてほしいと言ったのにも関わらず、イヴァンに連絡をした恩田が許せなかった。
「余計な詮索は止めて頂きたいんです。」
怒りを押し殺した声で、隆は恩田に言った。
「帯原…先生?」
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