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141 母として譲れない領域
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雨は降ったり止んだりを繰り返して、さきほどまた、雨は降りだした。
南野家の墓前。花を持ってきたが、淵神利栄子は献花せず、持って帰ろうと決めた。雨に濡れては葉が腐り、早く枯れては虫がわく。次にいつ来られるかわからない。御家族の迷惑になっては、居た堪れない。
黒い傘に打ち付ける雨音を聴きながら、利栄子は手を合わせた。
「気にせず、花を飾ってあげてください」
利栄子の背後に、黒い傘。南野恭子が立っていた。利栄子と同じ白い菊を、恭子は抱き抱えていた。恭子は言う。
「腐る前に捨てるように、和尚様に頼んでおきましたから」
利栄子が後ろを振り向く前に、恭子は隣にやってきた。先に花を右側の瓶にさして、恭子は利栄子にも促す。
利栄子は花を左側の瓶にさした。
恭子は手を合わせながらも、利栄子を横目で見た。恭子は意外そうに言う。
「あなたは中立だと思っていました」
利栄子は合掌しながら、前を向いたままだった。無言のまま、祈りを捧げる。恭子は話を続けた。
「ーー今朝の新聞の一面は、全紙同じ。龍の血は滅んでいなかった。まだ売れ残っていたムーンバレットのチケットがソールドアウト。特に西日本には熱狂的な父のファンが多かった。崇拝していた大鬼河原田を失い、気力を失くされていた高齢者たちがこぞって購入したそうですーー利栄子さん、あなたの狙い通りですか?」
利栄子はようやっと重い口を開いた。
「カナちゃんを傷つけたことは謝罪します。しかし、このままでは、アポロニオスの牙城は崩せません。ムーンバレットの中で一番短気で喧嘩早いのは朝丘恵ーーアサちゃんなら必ず私の挑発に乗ってくると思いました」
黒目を正面に戻して、恭子は墓石を見つめる。
「いままで音楽関係のコラムは読まなかったけれど、娘がデビューしてからはたまに目を通します。アポロニオスとムーンバレット。どちらが天下を獲るのか。それは淵神利栄子が味方をしたほうだーーなんて記事もありました。私は馬鹿馬鹿しいと思っていました。あなたは政治に荷担しない人に見えましたから。父の指示ですか?」
「いえ。私の独断です」
元より利栄子はムーンバレットを贔屓している。ロックは自分の好きなジャンルだし、音楽性だけではなくメンバーの人間性にも惚れ込んでいる。ライブにも行くし、ファンクラブにも入っている。
ところがアポロニオスには、そこまで熱が入らない。配信ライブは仕事上チェックするが、現地ライブには行かない。ファンクラブには入らない。とはいえ、アポロニオスが嫌いなわけではない。
アポロニオスは、利栄子にとってクリスマスや教会での結婚式なのだ。仏教徒でありながら異教徒の文化をイベントとして楽しむ。その程度の思い入れしかない。
ましてや、ムーンバレットの南野歌奈は大鬼河原田龍大三郎の孫である。
大鬼河原田に貰った名前、エリー。
利栄子の名前を反転させただけ。
たったそれだけのこと。
しかし、そのエリーの名前なくして利栄子の現在はなかった。
自分の受けた恩は必ず返す。
淵神利栄子は決めていた。
恭子は利栄子に尋ねる。
「いつから気付かれていたのですか?」
「最初は笑いかたです。大鬼さん、あんなに強面なのに、笑うと少年のような笑顔になる。いたずら好きそうな、誰かにちょっかいを出しそうな、それでも憎めないような、愛らしさがある。カナちゃんの笑いかたは大鬼さんにそっくりだった。それでも、もしかしたら……くらいの感覚です。赤村朱人が主演を務めた劇団リリカルリリックの舞台に、カナちゃんも出たんです。知ってますか?」
「ええ。私は色々とやらなくてはいけないことがあって、観劇はできませんでしたが」
「当然です。大鬼さんが亡くなられた翌日ですもの。カナちゃんはさすが大鬼さんの血を引いているだけあって、堂々とした演技をしていました。最後の歌なんて、本当に素晴らしかった。舞台の上での輝きが、大鬼さんそのものだった」
それでも、歌奈本人が何も言わない以上、利栄子に確信はなかった。千葉公演で恭子と話したときも、恭子は利栄子に秘密を打ち明けていなかった。だがどうしても、左腕の龍が、利栄子の目を釘付けにする。何度も語りかけてくるようだった。
「やっぱり、確信したのは龍のタトゥーです」
「たしかに和彫りの龍なんて、若い子の趣味じゃない」
「それもそうですけど、カナちゃんの龍は、やっぱり大鬼さんなんです。龍の顔が常に上を向いている。天を睨んでいる。どんなときも下を向くなと言っている。それだけじゃない。龍の身体も大鬼さんらしい。カナちゃんの腕に巻きついていない。カナちゃんの自由を奪っていない。好きに生きろと言っている」
雨音は小さくなる。少しずつ雨があがっていく。雲の切れ間から、光が射していく。
恭子は不思議に思う。
父、龍大三郎が亡くなってまだ2ヶ月。1年くらいは引きずるものと予想していたのに、早くも過去の出来事として割りきれている自分がいる。
それも歌奈と一緒に乗り切ったからだと、恭子は思っている。
陽だまりと同じ温度を宿した笑顔が、あたたかく眩しい優しさが、恭子の挫けそうな心を救ってくれた。
「歌奈は変な子です。外見はともかく、父にも、私にも、似ていない。父の話では、私を産んですぐに亡くなった母によく似ているそうです。明るく振る舞うんじゃなくて、明るさが生きていると、父は言っていました」
恭子は利栄子のパーソナルデータを入手している。大体の生い立ち。父との関係。現在の交友関係。ミュージシャンとしての功績。家族の有無。
全てを知り得た上で、恭子は利栄子に牙を向いた。
「覚えておいてください。あなたがどんなに誠実な人であろうと、どんなに正当な理由があろうと、子どもを泣かされて、黙っていられる親はいないとーー今回は父に免じて許します。次は、絶対に許しません」
傘を閉じて、恭子は利栄子に背を向けた。
しかし利栄子は怖じ気づかなかった。口端を吊り上げた。普段の仕事では絶対に見せない、あつかましくて、ずうずうしくて、挑発的な笑みを浮かべた。
「所詮、その程度ですよね。あなたというひとは」
去ろうとしていた恭子は足を止めた。
「それは、どういう意味かしら?」
「私だって、あなたのことは調べたんですよ。南野恭子さん。名優の父を持つ、天才女優ーーだけど表舞台には立たなかった。あなたは勝てるとわかる勝負しかしない。臆病なあなたに大鬼さんの意思など継げないし、カナちゃんに鞭を打つこともできない。それはそうですよね。父も、娘も、あなたと違って、戦う道を選んだ。戦い続けてきた。逃げたあなたには、何も言う資格がない。あなたでは、カナちゃんの力にはなれない」
恭子が振り向くと、利栄子はすぐ目の前にいた。鼻先がくっつくのではないかと思うほど、間近にいた。
敵意を剥き出しにした淵神利栄子がいた。
「ご心配なさらずにお母様。あなたにできないことは、全て私がやってあげますから」
そんな利栄子を、南野恭子はーー嘲笑した。取るに足らない相手だと見切ってしまった。嘆息すらつけなかった。
「これだから、成長できない子どもは苦手なのよ。あなたのお母様、随分と奔放な性格でいらしたようね。お父様の性格が荒れて、あなたに暴力を振るうようになったのは、そもそも母親の浮気癖が原因らしいじゃない。あなたこそーー母になるのを怖れて、いままで逃げてきたのではなくて?」
咄嗟に、利栄子は短く叫んだ。
「やめて! 家族の話はしないで!」
「先にあなたが踏み込んできたのよ。私の縄張りに。私に攻撃を仕掛けて、無傷で帰れると思ったのかしら? 自分の母親には会いに行く度胸もないくせに、意気がるのはおよしなさい。ま、確かにあなたの言うとおり、私は逃げた。しかし逃げた過去を堂々と認められるし、そのおかげでいまの幸せを得られた。あなたはどう? 自分の逃げた道を、もう一度見つめ直す覚悟はあるの?」
「ーー私は一度も逃げたことなんてない。ずっと立ち向かってきた」
「そしてーー通用しなかった。事務所の3年契約に甘えて、ビジネスを意識しなかった。だからアポロニオスが憎いのよね? 鏡セアラを応援できないのよね? 巨大資本によって動いていく現在の音楽シーンを潰したいのよね? あなたは自分の復讐をしてくれる人材をずっと待ち続けていたのよね?ーー」
冗談じゃない、と恭子は目を見開いた。
「私の子はね、南野歌奈はね、そんなくだらない戦いのために歌ってるんじゃないの。あなたの代理戦争のために存在しているんじゃないの。20年前のあなたと同じように、純粋に誰かを楽しませようと歌っているのよ」
思い出しなさいよ、エリー。
大鬼河原田の言葉を。
南野恭子は淵神利栄子の胸ぐらを掴んで、曇った眼を醒まさせる。大事な言葉、父はあなたにだって残したはずよ、と。
「ーーお前の歌は……とても稚拙で、くだらない……だけど……だけど……精神が気高くて、いさぎよいって」
それはまるで、墓前に捧げられた菊の花言葉のように。
高潔で信頼できると、大鬼河原田龍大三郎は利栄子を褒め称えた。
「利栄子さん。あなたは昔の私と同じなのよ。エリーという役を演じ続けてきたあまり、自分の心をすり減らしてきた。自分の在り方がわからなくなってしまった。みんなに愛されるエリーの人格と、自分の冷めた心の差異に気付いてしまった。叶わなかった自分の夢をムーンバレットに託そうとしてしまったーーそれは悪いことじゃない。でも、もう少しだけあの子達を、ムーンバレットを信じてあげて欲しいーー」
あの子達、あなたが大好きなの。
正々堂々と戦うあなたが。
大好きなのよ。
だから。
同じように、させてあげて。
真っ正面から、アポロニオスの巨城を攻めさせてあげて。
恭子の声に導かれるようにして、利栄子は空を見上げる。さっきまであった雨雲は遠くにいって、今度は違う方角から黒い曇が突風に乗って運ばれてくる。
利栄子は恭子に言う。
「……責任を、感じたの。カナちゃん最大の壁、鏡セアラを生み出してしまったのも、どうやら私みたいだから。いや、いまだって、本当はよくわからない。私とは全く違うベクトルに生きる彼女が、なんで私なんかの音楽に触発されちゃったのかな、って……」
「大人になると耳ばかり良くなって、胸に問いかけるのを忘れる。鏡セアラの直向きさ、音楽に対する愛情は、あなたの心そのものじゃない。彼女の成功は、どうして喜べないの?」
利栄子は深呼吸する。改めて、冷静に考える。ゆっくり想像する。
鏡セアラの人物像を。
自分に厳しく、他人にも厳しい。音楽をつくるなら、皆が喜ぶ作品に仕上げる。作業に余念はない。耳の良さ、声の良さ、反射神経の良さは抜群。容姿端麗。楽器の演奏は、アポロニオスメンバーの誰よりも卓越している。どんな楽器を渡しても苦手なものはない。口笛で「トルコ行進曲」もお手のもの。ダンスを踊らせたら、ダンス歴イコール年齢の親友、あっきーも舌を巻く。スタントマンなしで、自らワイヤーアクションでアクロバットを披露する。 噂によれば、アミューズメントパークみたいな大豪邸に住んでいて、自宅に音楽スタジオを複数持っている。
ーー高収入。
「ーーかわいげがない! 私が同い年のときはもう人気下降気味だったし! こう、なにかないの? 実は貧乏な幼少期を過ごしたとか、実は物凄く田舎の出身でめちゃくちゃ言葉が訛ってるとかさ! そう、親近感がわくような庶民感が欲しいのよ!」
利栄子の本音を聞いて、恭子は人差し指で鼻の穴を隠して、うすら笑う。先ほどの嘲笑とは違う、微笑ましい光景を見守るようなーー母親の顔で。
「そういう生活感、あの子は見せないでしょうね。そういう意地っ張りなところも、あなたに似たのではなくて?」
「くっ……そんなことは……ありそう!」
利栄子は唇を噛み締めながら、少しずつ自分と相似する部分をセアラに見つけていく。ということはーー
「物凄く……頑張り屋さん?」
「そうよ。あなたはごく少数の熱狂的ファンを持つけど、向こうは多数のファンーー世界的に愛されている。そのプレッシャーに晒され続ける苦しみは、あなたにはわからない。ちょっとは認めてあげてもいいんじゃない?」
「恭子さん。少数の前にごくはいらない」
「じゃあ、極めて少ない?」
利栄子は強烈なアッパーカットを顎にもらったように、足元をふらつかせる。ダウン寸前で、利栄子はなんとか足を踏ん張った。
「……いいんです。その中にカナちゃんがいるんだから……そう、やっぱり私はカナちゃんに夢を見ちゃう。自分を重ねてしまう。私はセアラさんみたいに崇められるようなひとは、どこかで線を引いてしまうのかも」
中立でいるのは難しい。
どうしても、どちらかに傾いてしまう。傾いてしまう。自分と似ている者に、自分の未来を預けてみたくなってしまう。託してみたくなってしまう。
我が子のように、応援してしまう。
降り始めた雨に気付いて、恭子はまた傘を開く。ぼうっとしている利栄子を、傘の中に入れてあげる。
「そんなものよ。誰だって我が子が一番かわいい。どんなに不器用で、どんなに不恰好で、どんなに失敗しても、背中を叩いて送り出す。あとは、信じるしかない。そのために家で小言を言って嫌われるのが私の仕事ーーなんだけど、どういうわけか、一度も反抗期なかったのよね、歌奈は」
それもきっとあなたの前向きな音楽のせいよ、と恭子は利栄子に告げた。
「感謝してるの、あなたには。利栄子さん、あなたは歌奈のもうひとりの母親よ」
右手の親指と人差し指で、利栄子は自身の鼻筋、その一番てっぺんをぎゅっとつまんだ。
「ーーまずい。この歳で人前で泣くのは、かなり恥ずい」
「なら、どこか個室のある店で、一緒に飲まない? 私、銀座にイイ店知ってるの。あなたと似た者同士で、何かで武装しないと自分に自信を持てない人がやっている店」
「ぎんざ! お高くないですか?」
「大丈夫。今日は私がおごれって、父も言ってる」
大鬼河原田は自身のプライベートをひた隠しにしてきた。けれど、酔ったときは、たまに漏らしていた。
甘えられる家族がいるのは幸せだと、一言だけ。
「……まあ、そういうことでしたら。お言葉に甘えて……」
「決まりね」
すると利栄子は、持っている傘を閉じたまま、恭子の腕に自身の腕を絡ませた。カップルのように腕組みをした。
また厄介な娘がひとり増えたみたいだと恭子は嘆きーー天にいる父にも小言を呟いた。
「人も音楽も食べ物も、ぽっかり穴の空いたものが好きなのね」
大鬼河原田の好きなドーナツとレコードを思い浮かべながら。
【母として譲れない領域・了】
南野家の墓前。花を持ってきたが、淵神利栄子は献花せず、持って帰ろうと決めた。雨に濡れては葉が腐り、早く枯れては虫がわく。次にいつ来られるかわからない。御家族の迷惑になっては、居た堪れない。
黒い傘に打ち付ける雨音を聴きながら、利栄子は手を合わせた。
「気にせず、花を飾ってあげてください」
利栄子の背後に、黒い傘。南野恭子が立っていた。利栄子と同じ白い菊を、恭子は抱き抱えていた。恭子は言う。
「腐る前に捨てるように、和尚様に頼んでおきましたから」
利栄子が後ろを振り向く前に、恭子は隣にやってきた。先に花を右側の瓶にさして、恭子は利栄子にも促す。
利栄子は花を左側の瓶にさした。
恭子は手を合わせながらも、利栄子を横目で見た。恭子は意外そうに言う。
「あなたは中立だと思っていました」
利栄子は合掌しながら、前を向いたままだった。無言のまま、祈りを捧げる。恭子は話を続けた。
「ーー今朝の新聞の一面は、全紙同じ。龍の血は滅んでいなかった。まだ売れ残っていたムーンバレットのチケットがソールドアウト。特に西日本には熱狂的な父のファンが多かった。崇拝していた大鬼河原田を失い、気力を失くされていた高齢者たちがこぞって購入したそうですーー利栄子さん、あなたの狙い通りですか?」
利栄子はようやっと重い口を開いた。
「カナちゃんを傷つけたことは謝罪します。しかし、このままでは、アポロニオスの牙城は崩せません。ムーンバレットの中で一番短気で喧嘩早いのは朝丘恵ーーアサちゃんなら必ず私の挑発に乗ってくると思いました」
黒目を正面に戻して、恭子は墓石を見つめる。
「いままで音楽関係のコラムは読まなかったけれど、娘がデビューしてからはたまに目を通します。アポロニオスとムーンバレット。どちらが天下を獲るのか。それは淵神利栄子が味方をしたほうだーーなんて記事もありました。私は馬鹿馬鹿しいと思っていました。あなたは政治に荷担しない人に見えましたから。父の指示ですか?」
「いえ。私の独断です」
元より利栄子はムーンバレットを贔屓している。ロックは自分の好きなジャンルだし、音楽性だけではなくメンバーの人間性にも惚れ込んでいる。ライブにも行くし、ファンクラブにも入っている。
ところがアポロニオスには、そこまで熱が入らない。配信ライブは仕事上チェックするが、現地ライブには行かない。ファンクラブには入らない。とはいえ、アポロニオスが嫌いなわけではない。
アポロニオスは、利栄子にとってクリスマスや教会での結婚式なのだ。仏教徒でありながら異教徒の文化をイベントとして楽しむ。その程度の思い入れしかない。
ましてや、ムーンバレットの南野歌奈は大鬼河原田龍大三郎の孫である。
大鬼河原田に貰った名前、エリー。
利栄子の名前を反転させただけ。
たったそれだけのこと。
しかし、そのエリーの名前なくして利栄子の現在はなかった。
自分の受けた恩は必ず返す。
淵神利栄子は決めていた。
恭子は利栄子に尋ねる。
「いつから気付かれていたのですか?」
「最初は笑いかたです。大鬼さん、あんなに強面なのに、笑うと少年のような笑顔になる。いたずら好きそうな、誰かにちょっかいを出しそうな、それでも憎めないような、愛らしさがある。カナちゃんの笑いかたは大鬼さんにそっくりだった。それでも、もしかしたら……くらいの感覚です。赤村朱人が主演を務めた劇団リリカルリリックの舞台に、カナちゃんも出たんです。知ってますか?」
「ええ。私は色々とやらなくてはいけないことがあって、観劇はできませんでしたが」
「当然です。大鬼さんが亡くなられた翌日ですもの。カナちゃんはさすが大鬼さんの血を引いているだけあって、堂々とした演技をしていました。最後の歌なんて、本当に素晴らしかった。舞台の上での輝きが、大鬼さんそのものだった」
それでも、歌奈本人が何も言わない以上、利栄子に確信はなかった。千葉公演で恭子と話したときも、恭子は利栄子に秘密を打ち明けていなかった。だがどうしても、左腕の龍が、利栄子の目を釘付けにする。何度も語りかけてくるようだった。
「やっぱり、確信したのは龍のタトゥーです」
「たしかに和彫りの龍なんて、若い子の趣味じゃない」
「それもそうですけど、カナちゃんの龍は、やっぱり大鬼さんなんです。龍の顔が常に上を向いている。天を睨んでいる。どんなときも下を向くなと言っている。それだけじゃない。龍の身体も大鬼さんらしい。カナちゃんの腕に巻きついていない。カナちゃんの自由を奪っていない。好きに生きろと言っている」
雨音は小さくなる。少しずつ雨があがっていく。雲の切れ間から、光が射していく。
恭子は不思議に思う。
父、龍大三郎が亡くなってまだ2ヶ月。1年くらいは引きずるものと予想していたのに、早くも過去の出来事として割りきれている自分がいる。
それも歌奈と一緒に乗り切ったからだと、恭子は思っている。
陽だまりと同じ温度を宿した笑顔が、あたたかく眩しい優しさが、恭子の挫けそうな心を救ってくれた。
「歌奈は変な子です。外見はともかく、父にも、私にも、似ていない。父の話では、私を産んですぐに亡くなった母によく似ているそうです。明るく振る舞うんじゃなくて、明るさが生きていると、父は言っていました」
恭子は利栄子のパーソナルデータを入手している。大体の生い立ち。父との関係。現在の交友関係。ミュージシャンとしての功績。家族の有無。
全てを知り得た上で、恭子は利栄子に牙を向いた。
「覚えておいてください。あなたがどんなに誠実な人であろうと、どんなに正当な理由があろうと、子どもを泣かされて、黙っていられる親はいないとーー今回は父に免じて許します。次は、絶対に許しません」
傘を閉じて、恭子は利栄子に背を向けた。
しかし利栄子は怖じ気づかなかった。口端を吊り上げた。普段の仕事では絶対に見せない、あつかましくて、ずうずうしくて、挑発的な笑みを浮かべた。
「所詮、その程度ですよね。あなたというひとは」
去ろうとしていた恭子は足を止めた。
「それは、どういう意味かしら?」
「私だって、あなたのことは調べたんですよ。南野恭子さん。名優の父を持つ、天才女優ーーだけど表舞台には立たなかった。あなたは勝てるとわかる勝負しかしない。臆病なあなたに大鬼さんの意思など継げないし、カナちゃんに鞭を打つこともできない。それはそうですよね。父も、娘も、あなたと違って、戦う道を選んだ。戦い続けてきた。逃げたあなたには、何も言う資格がない。あなたでは、カナちゃんの力にはなれない」
恭子が振り向くと、利栄子はすぐ目の前にいた。鼻先がくっつくのではないかと思うほど、間近にいた。
敵意を剥き出しにした淵神利栄子がいた。
「ご心配なさらずにお母様。あなたにできないことは、全て私がやってあげますから」
そんな利栄子を、南野恭子はーー嘲笑した。取るに足らない相手だと見切ってしまった。嘆息すらつけなかった。
「これだから、成長できない子どもは苦手なのよ。あなたのお母様、随分と奔放な性格でいらしたようね。お父様の性格が荒れて、あなたに暴力を振るうようになったのは、そもそも母親の浮気癖が原因らしいじゃない。あなたこそーー母になるのを怖れて、いままで逃げてきたのではなくて?」
咄嗟に、利栄子は短く叫んだ。
「やめて! 家族の話はしないで!」
「先にあなたが踏み込んできたのよ。私の縄張りに。私に攻撃を仕掛けて、無傷で帰れると思ったのかしら? 自分の母親には会いに行く度胸もないくせに、意気がるのはおよしなさい。ま、確かにあなたの言うとおり、私は逃げた。しかし逃げた過去を堂々と認められるし、そのおかげでいまの幸せを得られた。あなたはどう? 自分の逃げた道を、もう一度見つめ直す覚悟はあるの?」
「ーー私は一度も逃げたことなんてない。ずっと立ち向かってきた」
「そしてーー通用しなかった。事務所の3年契約に甘えて、ビジネスを意識しなかった。だからアポロニオスが憎いのよね? 鏡セアラを応援できないのよね? 巨大資本によって動いていく現在の音楽シーンを潰したいのよね? あなたは自分の復讐をしてくれる人材をずっと待ち続けていたのよね?ーー」
冗談じゃない、と恭子は目を見開いた。
「私の子はね、南野歌奈はね、そんなくだらない戦いのために歌ってるんじゃないの。あなたの代理戦争のために存在しているんじゃないの。20年前のあなたと同じように、純粋に誰かを楽しませようと歌っているのよ」
思い出しなさいよ、エリー。
大鬼河原田の言葉を。
南野恭子は淵神利栄子の胸ぐらを掴んで、曇った眼を醒まさせる。大事な言葉、父はあなたにだって残したはずよ、と。
「ーーお前の歌は……とても稚拙で、くだらない……だけど……だけど……精神が気高くて、いさぎよいって」
それはまるで、墓前に捧げられた菊の花言葉のように。
高潔で信頼できると、大鬼河原田龍大三郎は利栄子を褒め称えた。
「利栄子さん。あなたは昔の私と同じなのよ。エリーという役を演じ続けてきたあまり、自分の心をすり減らしてきた。自分の在り方がわからなくなってしまった。みんなに愛されるエリーの人格と、自分の冷めた心の差異に気付いてしまった。叶わなかった自分の夢をムーンバレットに託そうとしてしまったーーそれは悪いことじゃない。でも、もう少しだけあの子達を、ムーンバレットを信じてあげて欲しいーー」
あの子達、あなたが大好きなの。
正々堂々と戦うあなたが。
大好きなのよ。
だから。
同じように、させてあげて。
真っ正面から、アポロニオスの巨城を攻めさせてあげて。
恭子の声に導かれるようにして、利栄子は空を見上げる。さっきまであった雨雲は遠くにいって、今度は違う方角から黒い曇が突風に乗って運ばれてくる。
利栄子は恭子に言う。
「……責任を、感じたの。カナちゃん最大の壁、鏡セアラを生み出してしまったのも、どうやら私みたいだから。いや、いまだって、本当はよくわからない。私とは全く違うベクトルに生きる彼女が、なんで私なんかの音楽に触発されちゃったのかな、って……」
「大人になると耳ばかり良くなって、胸に問いかけるのを忘れる。鏡セアラの直向きさ、音楽に対する愛情は、あなたの心そのものじゃない。彼女の成功は、どうして喜べないの?」
利栄子は深呼吸する。改めて、冷静に考える。ゆっくり想像する。
鏡セアラの人物像を。
自分に厳しく、他人にも厳しい。音楽をつくるなら、皆が喜ぶ作品に仕上げる。作業に余念はない。耳の良さ、声の良さ、反射神経の良さは抜群。容姿端麗。楽器の演奏は、アポロニオスメンバーの誰よりも卓越している。どんな楽器を渡しても苦手なものはない。口笛で「トルコ行進曲」もお手のもの。ダンスを踊らせたら、ダンス歴イコール年齢の親友、あっきーも舌を巻く。スタントマンなしで、自らワイヤーアクションでアクロバットを披露する。 噂によれば、アミューズメントパークみたいな大豪邸に住んでいて、自宅に音楽スタジオを複数持っている。
ーー高収入。
「ーーかわいげがない! 私が同い年のときはもう人気下降気味だったし! こう、なにかないの? 実は貧乏な幼少期を過ごしたとか、実は物凄く田舎の出身でめちゃくちゃ言葉が訛ってるとかさ! そう、親近感がわくような庶民感が欲しいのよ!」
利栄子の本音を聞いて、恭子は人差し指で鼻の穴を隠して、うすら笑う。先ほどの嘲笑とは違う、微笑ましい光景を見守るようなーー母親の顔で。
「そういう生活感、あの子は見せないでしょうね。そういう意地っ張りなところも、あなたに似たのではなくて?」
「くっ……そんなことは……ありそう!」
利栄子は唇を噛み締めながら、少しずつ自分と相似する部分をセアラに見つけていく。ということはーー
「物凄く……頑張り屋さん?」
「そうよ。あなたはごく少数の熱狂的ファンを持つけど、向こうは多数のファンーー世界的に愛されている。そのプレッシャーに晒され続ける苦しみは、あなたにはわからない。ちょっとは認めてあげてもいいんじゃない?」
「恭子さん。少数の前にごくはいらない」
「じゃあ、極めて少ない?」
利栄子は強烈なアッパーカットを顎にもらったように、足元をふらつかせる。ダウン寸前で、利栄子はなんとか足を踏ん張った。
「……いいんです。その中にカナちゃんがいるんだから……そう、やっぱり私はカナちゃんに夢を見ちゃう。自分を重ねてしまう。私はセアラさんみたいに崇められるようなひとは、どこかで線を引いてしまうのかも」
中立でいるのは難しい。
どうしても、どちらかに傾いてしまう。傾いてしまう。自分と似ている者に、自分の未来を預けてみたくなってしまう。託してみたくなってしまう。
我が子のように、応援してしまう。
降り始めた雨に気付いて、恭子はまた傘を開く。ぼうっとしている利栄子を、傘の中に入れてあげる。
「そんなものよ。誰だって我が子が一番かわいい。どんなに不器用で、どんなに不恰好で、どんなに失敗しても、背中を叩いて送り出す。あとは、信じるしかない。そのために家で小言を言って嫌われるのが私の仕事ーーなんだけど、どういうわけか、一度も反抗期なかったのよね、歌奈は」
それもきっとあなたの前向きな音楽のせいよ、と恭子は利栄子に告げた。
「感謝してるの、あなたには。利栄子さん、あなたは歌奈のもうひとりの母親よ」
右手の親指と人差し指で、利栄子は自身の鼻筋、その一番てっぺんをぎゅっとつまんだ。
「ーーまずい。この歳で人前で泣くのは、かなり恥ずい」
「なら、どこか個室のある店で、一緒に飲まない? 私、銀座にイイ店知ってるの。あなたと似た者同士で、何かで武装しないと自分に自信を持てない人がやっている店」
「ぎんざ! お高くないですか?」
「大丈夫。今日は私がおごれって、父も言ってる」
大鬼河原田は自身のプライベートをひた隠しにしてきた。けれど、酔ったときは、たまに漏らしていた。
甘えられる家族がいるのは幸せだと、一言だけ。
「……まあ、そういうことでしたら。お言葉に甘えて……」
「決まりね」
すると利栄子は、持っている傘を閉じたまま、恭子の腕に自身の腕を絡ませた。カップルのように腕組みをした。
また厄介な娘がひとり増えたみたいだと恭子は嘆きーー天にいる父にも小言を呟いた。
「人も音楽も食べ物も、ぽっかり穴の空いたものが好きなのね」
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