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10話

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 ジエさんから二度にわたり、活(おだまり)を注入された部下の方々の仕事は早かった。
 日が沈む前に入浴を済ませられるようにと、水回りの天幕が先に完成した。

 ジエさんに案内され、その天幕の入り口の戸を開けると私は目に飛び込んできた光景に呆然と呟く。

「…すごい」

 これが感動せずにいられようか…。
 なんと天幕の中に温泉がある!
 スノコで床を作った洗い場もある!

「んー、まあ、良くやった方かしらね」

 良くやった方ってか、よくぞやってくれましたですよ!
 脱衣場はあるし、鏡もあって、ちゃんとトイレは個室になってるし!

「好条件の場所って訳じゃないから、昨日よりは断然マシでしょ?」
「すごいとしか言いようがないですっ」
「そう?リンがそう言ってくれるなら良かったわ。
 焼き石でお湯にしてるけど、湯加減も調節済みだし、湯船の中にスノコを敷いてるから火傷の心配はないからね」

 こんなにして頂いてホント…

「!ちょっと、また泣くの?!気張んなさいよっ」
「だってジエさん…わたし、お風呂なんてもう入れないって思って…うぅっ…夜は死線を軽く越える位寒くて、昨日はセキロウさんが湯タンポになってくれたから乗り越えられたけど、一人だったら凍死しちゃうしどうしようって思ってぇ…ぅわあん、暖かいよぉー」
「…はあ、もう、しょうがないコね」

 またしても号泣する私に呆れつつ、ジエさんが私の腕をとって引き寄せた。

 あれ?と思った時には私の身体はジエさんに抱き締められていた。
 密着したジエさんの身体は、華奢な印象とは裏腹に、高い体温と硬い筋肉の凹凸がはっきりと感じられ、本当に美しい人だけれど、男性なのだと思い知らされる。

「あ、あの」
「んー?」

 動揺しながら顔を上げると、惚けた返事を返した割に、翡翠の様な緑の目が乞うように私を見下ろしていた。

 背中に回っていたジエさんの手が、優しく髪を撫でて行く。
 動揺を宥めて、心地好さへと埋もれさせようとする繊細なその手付き。

 私はその心地好さに一瞬、目を細めた。
 その一瞬で、ジエさんの額が私の額に合わさる。
 私はその距離に驚いてギュッと目を閉じてしまうと、ジエさんがふふっと笑ったのが聞こえた。

「馬鹿ね、目を閉じたら口付けしてもいいって勘違いするじゃない。
 男って、呆れるくらい前向き思考なんだから」

 気を付けなさい、と言って、ジエさんは私の目尻に口づけ、何が何だかと混乱している私を解放した。

「今度、私の前で泣いたら手加減しないわよ」

 美しい微笑を浮かべて宣言されたけど、今のは一体・・・?
 涙を吸われたってことは、泣き止むように慰めてくれたってことでしょうか?

 慰め方が心臓によろしくないです!
 唯でさえ、ジエさんは色気があるんだから、更に色気を纏って迫って来られたらびっくりするでしょうが!

 ジエさんからの急な色仕掛けの動揺から回復すると、身体と髪を洗う石鹸と、トリートメントと同じ役割の髪美容液と言う透明でとろみのある液体が入った小瓶を渡された。

「この石鹸で洗顔もいけるから。あがったら、これで肌のお手入れしてね」

 高級そうなデザインのガラス瓶に入ったほんのりピンク掛かった化粧水、乳液、クリームが脱衣場に設置された洗面台に置かれた。

「すごい、こんな…ありがとうございます!」

 こんなものまであるなんて!と私は嬉しくてジエさんにお礼を言うと、ジエさんも嬉しそうに笑って屈むと、頬を寄せて来た。

「どういたしまして」
「!」

 抗議する間もなく離れたジエさんを見ると、今の行為を説明してくれた。

「頬を寄せるのは親愛を示す行動よ?でも、リンは誰にでもこれを許しちゃダメ」
「でも、拒むと失礼にあたるとかそういう事になったりしませんか?」
「女性は気にしなくて大丈夫よ。兎に角、全部受け入れてたらリンの頬が擦り切れるんじゃないかしら」

 え、そんなに?
 いや、でも、頬を寄せるとか慣れてないし、動揺して、海外の人みたいにスマートに対応できる気がしないんで止めて貰おう。
 そう思って私はジエさんに分かりましたと返事をした。

「脱いだものはそこの籠に入れておいてね。じゃ、ごゆっくり」

 リンに背を向けた私は口元を歪ませる。

 頬を擦り寄せる行為は、実は親愛を示すだけではないのよ。
 その行為は、独身の男女間に於いては独占したいという男性側の意思表示なのよね。

 ――――――――――――――――――――――

 水回りの天幕から出た私は、居住の天幕へと入った。
 こちらももう仕上がっているけれど、幕内に鎮座する一つの寝台を見て、私は思わず舌打ちした。

「し、師団長、今、舌打ちしました?」

 顔をひきつらせながら声を掛けてきたのは、この隊の最年長で、リンと顔合わせした時に我を失わず、尚且つ機転を利かせて隊の皆を正気に戻した男だ。
 名前はソウマという。

「ソウマ、悪いけど寝台を分けてちょうだい」
「…は?あ、いえ、今からですか?」
「そうよ、こんなところでセキロウが暴走したら取り返しがつかないわ。
 それにリンは今、とても不安定だから」

 つらつらと尤もらしい事を言う自分に内心、笑ってしまう。
 けれど、相対したソウマの薄い水色の目は内心を見透かすように私を視ていた。

「ジエ様をもってしても、龍珠には抗えなかったんですね」

 あら、見透かされちゃったわ。
 私は観念して笑うしかなかった。

「そう言うことは上位者の面目をたてて秘めとくものよ。
 まあ、でもそう言うこと。
 泣き顔がもう堪らなくて、絆されちゃったのよ。二度は堪えたんだけど、三度目はもう堪えられなかったわ」

 私が素直に白状すれば、ソウマは辛そうな表情をした。

「ジエ様、しかし、その想いはとてもその・・・困難が多いかと・・・」
「そうね、でも私にもその資格があるなら後は龍珠に選んで貰えるよう行動するだけよ。結局、全ては龍珠次第だから」

 俯いてしまったソウマに失望させたかと思ったけど、顔を上げた際に、その薄い色彩に黒い瞳孔が際立つ獣の様な双眸が剣呑な光を帯びるのを見た。

「俺は何があろうとジエ様に付きます」
「それが危険思想というのよ。今回は聞かなかった事にするわ」

 じゃあ頼んだわ、といい置いてソウマに背を向けると、やる気漲るデカイ声で『了解です、もうバッチリ分けてやりますから安心してください!』と返してきた。

 もう、馬鹿デカイ声出すんじゃないわよ!
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