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裏側
あの日からずっと、
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「れ、レスト王……あの女の人は、いったい――」
「あら、ノーラも戻っていたのね」
「ティル……」
ティル。赤子を抱いて戻ってきた女性を、レイス王はそう呼んだ。
それは間違いなくティルハ王妃の愛称だ。愛称で呼び合うふたりは間違いなく夫婦であり、王とその王妃だ。
そうなると、この女性はティルハ王妃ということになる。しかしそれなら、ティルハ王妃の僕に対する態度はなんなのだろうか。王妃が僕を忘れるなんて、絶対にありえるはずが――
「よーしよしよし、大丈夫ですよー。ママが此処にいますからねー。安心してねんねしなさいねー。ドゥノーのことは、必ずママが守ってあげるからねー」
「え……?」
王妃は確かにその名を口にした。ドゥノー、ドゥノーラ・レイスの愛称で、その腕に抱いている赤子を呼んだ。
レイス王とティルハ王妃は中々子宝に恵まれなかったと聞いている。だからこそ、ふたりは唯一の王子をとても溺愛していた。王子は両親からの寵愛を受けて20歳になるまで育ち、民衆からもその将来を期待されていた。
でも……その王子は……僕の毒で――
「もう止めなさい、ティル」
レイス王は赤子をあやす王妃に近づくと、その腕に抱いた赤子を叩き落とした。
「なっ……えっ?」
思わず目を瞑ってしまった僕の耳に聞こえてきたのは、木製の何かが床を転がる音だった。その硬い音は、決して人の身体が発する音ではなかった。
「ノーラ!? あなた、自分の子供に対して何をするの!!」
間髪を入れずに、ヒステリックな叫びが耳をつんざいた。王妃は床を転がる何かに向かって駆け寄ると、大事そうに抱き上げる。
「っ!? ティルハ王妃……そっ、それって……」
人形だった。決して精工とは言えない代物だった。木を削っただけの、ただ大きさが赤ん坊に似ているだけの人形を、王妃は我が子のように抱いていた。
「ドゥノー、怪我は無い!? ああ、なんてこと!? ドゥノー! しっかりして!! ドゥノー!?」
王妃は人形に向けて必死の形相で声をかけている。見る影もなくボロボロになってしまった黒髪を振り乱して。落ち窪んだ目からボロボロと涙を溢れさせて。痩せこけた頬に大粒の涙を滑らせながら。
王妃が既に正気ではないことは明らかだった。
「もはやまともに話も嚙み合わん。民の中には心配を寄せる者も多いが、こんな姿を見せるわけにもいかんのでな。あの日からずっと、ティルはこの部屋に監禁状態だ」
人形に向けて金切声で話しかける王妃を、レスト王は冷めた目で見ていた。その狂気に慣れきった姿からも、ある種の狂気を感じてしまう。
「れ、レスト王……あ、あの日って……」
「わからないのか? そんなはずはないだろう……なあ、ルカテよ」
レスト王の言う通りだ。他の誰でもない、僕自身がわからないはずがない。
ただ、逃げていただけだ。自分のことを殺人者だと認めていながらも、その本当の意味から目を背けていただけだ。奪った命のことばかり考えて、残された者たちの思いを考えないようにしていただけだ。
取り返しがつかないのは、何も人の命だけではない。
「返して……っ! 返してよ! 私の子を……ドゥノーを返しなさいよっ!!」
それはレスト王に向けられた言葉ではあったけれども、突き刺さった先は僕の心だ。
僕にとってティルハ王妃は好ましい人物では無かった。苦手だったし、怖かったし、恐れていた。
しかしそんな僕の気持ちとは関係なく、王妃は母親だった。長く子宝に恵まれず、やっとの思いで授かることのできた子を溺愛する母親だった。僕があの日、王子を殺すまでは。
死者は生き返らない。そして、殺人によって傷つけられた心も癒すことはできない。僕が犯した罪は、僕が考えていたよりもずっと重く許されないことなのだと、強く思い知らされる。
「もう休みなさい、ティル。これは悪い夢だ。一度寝て目を覚ませば、全部元に戻っている」
「ノーラ……そうね……あなたがドゥノーを傷つけるわけない。これは現実じゃないんだわ……ドゥノー……ああ、ドゥノー……! 今度こそ、ママが貴方を守ってあげるからね……」
王妃は立ち上がると、人形をしっかりと抱きしめながらよろよろと寝室へと歩いていった。僕には目もくれず、虚ろな瞳で虚空を見つめながら。
「あら、ノーラも戻っていたのね」
「ティル……」
ティル。赤子を抱いて戻ってきた女性を、レイス王はそう呼んだ。
それは間違いなくティルハ王妃の愛称だ。愛称で呼び合うふたりは間違いなく夫婦であり、王とその王妃だ。
そうなると、この女性はティルハ王妃ということになる。しかしそれなら、ティルハ王妃の僕に対する態度はなんなのだろうか。王妃が僕を忘れるなんて、絶対にありえるはずが――
「よーしよしよし、大丈夫ですよー。ママが此処にいますからねー。安心してねんねしなさいねー。ドゥノーのことは、必ずママが守ってあげるからねー」
「え……?」
王妃は確かにその名を口にした。ドゥノー、ドゥノーラ・レイスの愛称で、その腕に抱いている赤子を呼んだ。
レイス王とティルハ王妃は中々子宝に恵まれなかったと聞いている。だからこそ、ふたりは唯一の王子をとても溺愛していた。王子は両親からの寵愛を受けて20歳になるまで育ち、民衆からもその将来を期待されていた。
でも……その王子は……僕の毒で――
「もう止めなさい、ティル」
レイス王は赤子をあやす王妃に近づくと、その腕に抱いた赤子を叩き落とした。
「なっ……えっ?」
思わず目を瞑ってしまった僕の耳に聞こえてきたのは、木製の何かが床を転がる音だった。その硬い音は、決して人の身体が発する音ではなかった。
「ノーラ!? あなた、自分の子供に対して何をするの!!」
間髪を入れずに、ヒステリックな叫びが耳をつんざいた。王妃は床を転がる何かに向かって駆け寄ると、大事そうに抱き上げる。
「っ!? ティルハ王妃……そっ、それって……」
人形だった。決して精工とは言えない代物だった。木を削っただけの、ただ大きさが赤ん坊に似ているだけの人形を、王妃は我が子のように抱いていた。
「ドゥノー、怪我は無い!? ああ、なんてこと!? ドゥノー! しっかりして!! ドゥノー!?」
王妃は人形に向けて必死の形相で声をかけている。見る影もなくボロボロになってしまった黒髪を振り乱して。落ち窪んだ目からボロボロと涙を溢れさせて。痩せこけた頬に大粒の涙を滑らせながら。
王妃が既に正気ではないことは明らかだった。
「もはやまともに話も嚙み合わん。民の中には心配を寄せる者も多いが、こんな姿を見せるわけにもいかんのでな。あの日からずっと、ティルはこの部屋に監禁状態だ」
人形に向けて金切声で話しかける王妃を、レスト王は冷めた目で見ていた。その狂気に慣れきった姿からも、ある種の狂気を感じてしまう。
「れ、レスト王……あ、あの日って……」
「わからないのか? そんなはずはないだろう……なあ、ルカテよ」
レスト王の言う通りだ。他の誰でもない、僕自身がわからないはずがない。
ただ、逃げていただけだ。自分のことを殺人者だと認めていながらも、その本当の意味から目を背けていただけだ。奪った命のことばかり考えて、残された者たちの思いを考えないようにしていただけだ。
取り返しがつかないのは、何も人の命だけではない。
「返して……っ! 返してよ! 私の子を……ドゥノーを返しなさいよっ!!」
それはレスト王に向けられた言葉ではあったけれども、突き刺さった先は僕の心だ。
僕にとってティルハ王妃は好ましい人物では無かった。苦手だったし、怖かったし、恐れていた。
しかしそんな僕の気持ちとは関係なく、王妃は母親だった。長く子宝に恵まれず、やっとの思いで授かることのできた子を溺愛する母親だった。僕があの日、王子を殺すまでは。
死者は生き返らない。そして、殺人によって傷つけられた心も癒すことはできない。僕が犯した罪は、僕が考えていたよりもずっと重く許されないことなのだと、強く思い知らされる。
「もう休みなさい、ティル。これは悪い夢だ。一度寝て目を覚ませば、全部元に戻っている」
「ノーラ……そうね……あなたがドゥノーを傷つけるわけない。これは現実じゃないんだわ……ドゥノー……ああ、ドゥノー……! 今度こそ、ママが貴方を守ってあげるからね……」
王妃は立ち上がると、人形をしっかりと抱きしめながらよろよろと寝室へと歩いていった。僕には目もくれず、虚ろな瞳で虚空を見つめながら。
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