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34 猿将VS狼将

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 前衛の陣地を捨てた滝川勢だが、海老川の渡河に難航した。3本の浮き橋は、あまりに多くの兵が殺到したせいで、簡単に沈んだ。
 半ば退路を断たれた滝川勢の一部が、背水の陣さながらに、激しい抵抗に出た。
 北勢の狼将・山上兵内である。

「背を向ければ殺される。よく前を見ろ。敵はいくさに不慣れの者たちぞ!」

 良く通る低い声は、恵五郎の耳にも届いた。その声が、徐々に兵を落ち着かせている。

「いいぞ。武器は何でも良い。隣の者といっしょに繰り出せ」

 山上の指揮に応える兵は、100名もいない。いまも統率を保っているのは、この100とすでに渡河を終えた津田小平次の馬廻り50ばかりである。

 勢いに乗って押し込んだ風ノ里の軍勢は、堅い岩にぶつかったように跳ね返された。

「まずいな」

 恵五郎はすぐに判断した。
 山上のねらいは、総大将の津田を逃がすための時間稼ぎである。指揮する兵は、退路を失って開き直っている。命懸けという意味では、風ノ里とおなじだ。

 ここまでのいくさでは、黒井の奇策が功を奏して、まともなぶつかり合いを避けてきた。
 風神山を包囲されてからは、敵も仕掛けて来なかった。おおよそ激戦というのは、これがはじめてである。面食らった風ノ里の軍勢は、またたく間に隊伍を崩していく。

 反撃を受け、次々と地に倒れた。

 凧からの弓矢にも、山上の100は動じない。15張りの凧は、広い戦場に散っていて、まだ集まりきれてない。

「俺が、やってやる」

 恵五郎は長い手を伸ばし、自分の頭のあたりの布を短刀で斬った。風を受けてふくらんだ布が裂かれたことで、途端に大凧が傾き、地面に向けて加速をはじめる。

 風を突っ切る。

 竹の弾ける音が鳴った。
 絶対に目を閉じない。
 天地が何度もひっくり返ったが、空から見つけた山上の姿をずっと捉え続けた。

「おおおおぉぉぉぉーッ!」

 恵五郎が腹の底から声をあげた。

 そして、大凧から身を躍り出し、敵兵の塊の上に飛び降りた。
 巨体の下敷きになった三人が絶息する。恵五郎は立ち上がった。骨が軋む。視界が歪む。意識が途切れかけた。

「おおおおぉぉぉぉーッ!」

 嵐のような雄叫びを上げた。激痛と朦朧を、気合いの咆哮でふりほどいた。

「山上兵内!」

「猿将・恵五郎か」

「おうよ」

「……まさか、空から降ってくるとはな」

 山上は口元をひずませ、太刀を抜いた。
 傍にいた4、5名が躍りかかってくる。
 恵五郎は短刀を投げた。先頭で突っ込んできた敵の首筋を捉えると、鮮血が盛大に吹き上がった。

 ひるんだ隙に、ひとりに接近して身体を持ち上げる。それを残りの兵に向けて投げた。武器を探す。愛用の鉄棒よりもふたまわりは太い丸太が目についた。焼け焦げた跡が目立ち、ほのかに赤いくすぶりも見える。
 起きあがった敵兵の斬撃をかわし、丸太に飛びつく。
 じゅっという音と共に、革の手袋が焼ける。熱さと痛みが同時に襲い掛かってきたが、とにかく我慢した。

「それを使うか」

「喰らえッ」

 恵五郎は丸太を薙いだ。
 ふたりが腹のあたりに丸太を受け、吹き飛ぶ。丸太も、折れた。
 次の瞬間、恵五郎は手元に残った丸太を山上に向けて投げつけた。目を見開いて驚愕しつつも、山上は身をよじらせて、かろうじてかわす。

「へへ、勝負といこうか、北の狼将」

 恵五郎は別の丸太を抱えた。先程より細く、扱いやすそうである。

「恐るべき男だ。わしを討って、完全な勝利を得たいのであろう。戦の流れを見る目、我が軍に並ぶものはおるまい」

 山上は口元を歪ませながら、近づいてくる。

「だが、わしが止める!」

 鋭い突き。
 届かないと思ったが、伸びてきた。恵五郎はとっさに丸太を盾にして防ぐ。
 打突の衝撃で、身体中がうめき声をあげた。

「痛くねえぞ」

「楽にしてやるさ」

 山上は丸太から太刀を引き抜く。
 恵五郎の喉元へ、また突きがくる。

 丸太で防ぐと、山上は横へ横へと足を使う。恵五郎の背後へまわり込み、太刀を繰り出す。
 恵五郎は方向を変えながら、丸太で凌ぐ。
 山上は円を描くように、恵五郎の側面へ動きながら、突いてくる。

「くそっ」

 身体が思うように反応しない。山上に合わせて方向を変えるだけのことが、尋常でない痛みを伴う。
 突きを受け止めた丸太からの衝撃にも、膝を折りそうになる。

「まともな一騎打ちなどせぬ。悪いな」

「うるせえ」

 虚勢を張っても、このままではジリ貧である。
 どうにかして反撃したい。

 そのとき、山上が膝を折った。

 ――いまだ。

 身体の反応は悪いが、勝機をつかむ勘は鈍っていない。

 次の瞬間、恵五郎は手元の丸太を山上に向けて投げつけた。

 思わぬ反撃だったのか、山上は目を見開いて驚愕しつつも、身をよじらせて、かろうじてかわす。

 そこへ、恵五郎は跳躍する。
 体勢の崩れた山上に、巨体がおおいかぶさる。

「まだ、そんな力が?」

「背負ってるものが違うんだよ」

 恵五郎は渾身の拳を顔面に叩き込んだ。

「悪いな。でも、愉しかったぜ」

「……天晴れである」

 最期に山上は相好を崩した。その表情が苦悶に変わる瞬もなく、恵五郎は山上の首にもう一本の短刀を差し込んだ。
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